[携帯モード] [URL送信]

Fictional forest
「罪」

 昼過ぎになってせせこましい食卓に料理が並んだ。
 メニューは適当な具材をバターで和えたパスタ一品だ。
 会話の流れで持ち上げられはしたものの、実際は手軽なものだ。
 一皿で済むぶん、この狭さにはよかっただろうか。

「そういや園、嫌いな食べ物とかある?」
「作ってから聞くのそれ? うん、パクチーかな!」
「まず売ってないだろそんなん」
「まあねー。あと好きなものは珈琲だよ」
「食べ物じゃないし……」

 食器を配りながら相変わらず下らない話をして、ツカサも自席に座る。
 誰からともなく手を合わせ、ばらばらにいただきますをつぶやく。
 手を動かしながらも、流れのまま他愛もない話が続いた。
 休み休み話をしたがるソノと、それに応えるツカサの声がしばらく響く。
 ウミはお行儀よく正座して黙々と咀嚼している。
 表情の硬かったシヅキもちまちまと麺を巻くのに苦戦中だ。
 みな、食欲はあるらしい。
 よかったな、と単純に思う。
 そして、むしろ食欲がないのはじぶんの方だと気づいたのだった。
 ほとんど味を感じない麺を丸めて口に放り込む。
 気が紛れるだけ、ソノの雑談はありがたい。
 ツカサは、下らない話を、ただいつもと同じように続けていった。
 そのうちに皆ばらばらと完食して、ツカサが食器を集め、洗う。
 作業があるうちは楽だった。
 なにも考えずに済むからだ。
 洗い物も済んで、会話が途切れた、その瞬間に気が抜けた。
 具体的には、急に吐き気を覚えた。

「トイレ借りていい」
「はーい。電気はそこ」
「うん……」

 ツカサは必死に不調を殺してトイレに駆け込む。
 皆がいる部屋とは洗面所を介するので、息を潜めれば、たぶん知られずに済む。
 そう念じながら消化し損ねたじぶんの料理をすべて戻した。
 喉が酸で痛む。
 虚脱感が全身をおそう。
 ふだんは戻さない方だから、なおさら苦しいように思えた。
 気温は肌寒いほどなのに汗が噴き出てくる。

 ――おかしいだろ。
 ツカサは流水レバーを引いてふらふらと立ち上がる。
 母の死の直後だって、ここまで苦しんだ覚えはない。
 彼女は生きているのだ。逢えないと決まってもいない。
 決まってはいないが、どちらにしろまだ待たなくてはならない。
 苦しいのは、やっと終わったと、一瞬でも思ってしまったからだ。
 希望は、ないなら、ないほうが苦しまずに済む。
 下手な幸福は苦難しか生まない。
 そうだろ。違うか?
 なあ、松理。

 深呼吸をしてトイレを出る。
 傍の洗面所で手と口を濯いで、部屋に戻る。

「……団長」

 入り口にツカサが顔を出すなり、ウミががたんと席を立った。
 あ、と、ツカサは悟って足を止める。
 ――隠せていない。
 最初から、少なくともウミには、なにも隠せていない。

「団長。休んでください」

 簡潔な言葉が飛んだ。
 蒼の目が、まっすぐにツカサをうつしている。
 その背後からもうふたりぶん、不安を宿した目がこちらを向く。

「え。いや……何?」
「いますぐ、繕うのやめて、落ち着く場所に帰って、眠って、吐かない程度に栄養とってください。できますか。できないなら俺たちが助けます」
「……たち?」
「そうだよ、団長。どうしたの。体調悪いの私なのに、いちばん青い顔してるよ」
「……」

 ソノがテーブル越しに口を挟んだ。
 シヅキもその隣から困ったようにツカサを見上げている。
 みっつの視線にさらされ、ツカサはまたゆるりと息を止めた。
 なんだろう、この状況。
 この視線は。
 やけに身に刺さる。
 慕われている。そうとはっきり突き付けられるから。
 それもそのはずだ。
 ツカサは彼らを助けた。
 ツカサが助けたから、彼らはツカサを慕って此処に居る。
 わかっている。
 心からうれしいと思えたらよかった。
 こんなものを――
 いまから棄てようっていうときに。

「っ……」

 ツカサを支えていた均衡の糸が切れる。
 酸欠と虚脱感に任せてうずくまる。
 その肩をウミが支えた。

「やめてくれよ、もう」

 ツカサは掠れた声でうめく。
 うまく息が吸えない。

「もう、俺に、関わらないでくれ」
「あなたがそれでいいなら」

 即答だった。
 ツカサの望み通りの答えを、反射で切り返してくる。
 ウミは、そういう奴だ。
 わかっていたはずが、思っていたよりずっと苦しい。
 やさしいのだ。
 ツカサにとって、ウミは、あまりにも。

「なん……で、そう、やって、いつも……っ」

 痛む喉に息がこもって咳き込んだ。
 いつのまにか隣にいたソノがツカサの背をさする。

「私は仕事だから関わらせてもらうけどね」

 ソノの行動はウミの真逆だ。
 いつだってツカサにとっていちばん望ましくないものを持ってくる。
 ひとりきりの秘密基地に彼女が切り込んできたときからずっと。
 ツカサの周囲を調べ回るのも。
 毎夜、親しげに話してくるのも。
 森の話を基地に持ち込んだのも。
 ツカサの前で命を絶とうとしたのも。
 友達になりたい、なんて薄い宣言をしてみせたのも。

「園は、さ」
「うん?」
「俺がいないとどうなるの」
「仕事がないなら帰るよ」
「……」
「おとうさまのところに帰る」

 増えていく。
 死ねない理由が、増えてしまう。
 止まない吐き気に口許を押さえた。
 もう出るものもないのだが。

 彼らを、見棄てたくない。
 裏切りたくない。
 当たり前だろ?
 裏切りたいわけがない!
 秘密基地の仲間。彼らへの少なからぬ思い入れが、痛い。
 いつからこんなに育ったのだろう。
 友情と呼ぶには浅はかすぎる。
 思い入れ、愛着、そういう類いのものだ。
 未練と言い換えてもいい。
 失うのが惜しいんじゃない。
 彼らのたしかな想いを、踏みにじる自分を許せない。
 許せないけれど。
 それ以上に、ただ。
 とらわれている。
 この両眼がこの色である限り。

「……忘れたい」

 絞り出した。
 テーブルの向こうでシヅキがうつむいている。
 彼はなにやら知っているようだから、ツカサが何を言っているかがわかるのだろう。
 わかるから、そこで動けずにいるのだろう。

「俺だって」

 俺だって生きたいよ。
 この浅はかな繋がりを抱いて、いつまでも身にならない話をしていたい。
 苦しさがそれを許してくれないのだ。
 彼女を待っている。
 それがツカサのぜんぶだ。
 逢いに行けるのなら、行かずにいるなんて、無理な話だ。
 無理だ。こんなに苦しいのがいつまでも続くなんて。
 忘れてしまえば楽だろう。
 だれもしらない彼女を、ツカサが手放せば、彼女はこの社会との繋がりを絶つ。
 完全に消え去ることになる。
 いっそ、そうなってしまえば、ツカサは自由だ。
 わざわざ彼らを裏切らなくて済む。

 忘れたい――
 そうかと思う。
 きっと、セイも同じように。

 ツカサはやっと顔をあげる。
 シヅキと目が合う。逸らされる。
 立とうとしてみたが、力が入らず、左右から支えられた。

「やるしかないだろ……」

 うめいた。
 決まったことは覆せない。
 いくら彼らが、ツカサが、形式的に笑いあったところで、過去は消えない。
 だから、セイだって、戻っていってしまった。
 そういうことだ。
 それなら、もう、わめいたって仕方がない。
 賭けよう。命を。

 力に対抗できるのは、力だけだ。

「――園。薬、あるだけほしいんだけど」
「え……なにする気?」
「さあ。死ぬかも」
「かっ……、かもじゃないよ。あれただでさえ劇薬なんだよ」
「使わなくたって痛みで死ぬし。だめ?」
「だめ!」
「そう。じゃあ……」
「待った! 病人に大声出させないでよ。説明して説明」
「それは却下」
「なにそれえ! もう……ちょっと待ってて」

 ひとしきりわめいたソノが、ふっと息をついてツカサから離れる。
 ツカサはテーブル傍のクッションにゆっくりと腰を落ち着けた。
 シヅキがまた泣きそうな顔をしている。
 ウミが黙って彼の隣に座る。
 部屋の奥で、デスクトップの電源ボタンが押される。
 重い駆動音が響く。

「……熱上がったらツカサのせいだからね」
「風邪ひいたのがまず俺のせいだろ……」
「夕飯もよろしく」
「マジで言ってんの?」
「うん」

 かたかた、キーボードが軽快に鳴る。

「あと一週間だけ待って。わたしが風邪治して本社に行く。取ってきたらツカサで実験するから。少しずつ試して、適量割り出してから本番してよ。延命の薬で死んじゃったらわけないでしょ?」
「一週間……」
「そんなにもたない? 抗不安薬いる?」
「……いらない」
「じゃあがんばって。はい、サンプル要請したから。あとは待つ。いいね?」

 ソノが画面から顔をあげて笑顔を見せる。
 と、ポケットのなかの携帯が震えた。

「わかった」

 答えてからちらりとディスプレイを見る。
 やっとの、父からの返信だ。

【了解

 話をする気があればいつでも電話をください】

 文面に目を通して、すぐ画面を閉じる。
 一週間後に生きていたら電話しよう、と決めた。
 そうして、さいごの一週間がはじまった。


2019年2月23日

▲  ▼
[戻る]