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Fictional forest
「蒼」

「じゃあ、俺はこれで」

 セイはそう言って、出口の手前できびすを返した。
 少しだけ驚いた。その呆気なさに。
 彼の記憶になにかがあって、そのなにかが今日日の波紋を呼んだ。
 それなら、思い出したというのは、決定的な一大事だろうと思っていた。
 が、なんのことはない。
 すべてはただ静かにもとに戻った。
 彼が記憶を失った9月12日より以前の状態に。
 そんなわけがあるか、と湊月咲は空を仰ぐ。
 雲ひとつない秋晴れは、いつにも増して蒼く乾いている。
 すべてを知っている彼女も知らない。
 だれもしらない色なのだ。
 ふと呼吸を忘れそうになる。
 ――以前になかったものを挙げるとすれば、この言い様のない絶望感だ。

 待っていた。
 こんなに待っていたのに。
 まだ、駄目か。

「みなとさん」

 蚊の鳴くような声に呼ばれる。
 シヅキが恐る恐るツカサを見上げて、口を開きかけて、結局ペンを握った。

『ごめんなさい』
「……行こうか」

 メモ用紙だけ受け取って、反応はせず、ツカサは歩き出す。
 いまは、誰かの懺悔に付き合うほどの余裕がないから。
 たとえそれが自分に深く関わることだとしても、いまは。
 淡々と遊歩道から桜並木を抜け、林を掻き分ける。
 シヅキは黙ってついてくる。
 昨日の雨で林のなかは湿っていて、沈んだ心境に追い討ちがかかる。
 それでも平静は装える、そう信じて、前へ進んだ。
 二人ぶんの足音が木々に吸われる。
 見えてきた灰色のビニールシートはやけに久々に思える。
 昨日もここへは来たのだが。
 一晩で、あるいはつい先程の件でか、心境が変わりすぎている。
 中に、灯りがついている。
 ツカサは習慣のみに導かれてシートをめくった。

「ごめん、遅くなった」

 ローテーブルの脇でウミが本をめくっていた。
 ぱたんと耳に馴染んだ音がして、蒼の目がツカサをとらえる。
 ツカサは、ああ、絶望と同じ色だ、と思った。
 ウミは傍らのシヅキに一瞬だけ視線をあてがい、戻す。
 その一瞬で、どこまで察したかは知れない。

「おはようございます団長。……赤羽さんは風邪ですか?」
「はは……うん」
「……成る程」

 神妙に息をついて、ウミが片手間に本を仕舞う。

「じゃあやること決まりましたね」
「え」
「行きましょう、お見舞。しいちゃんも無事な顔見せないと」

 流れるままの動作で鞄を持ち上げ、ウミは机上の灯りを消した。
 押し出されるようにまた基地の外へ出る。
 あれ、ウミってこんなに活発だったか、と戸惑いながら、
 昨夜を思えばこんなものだろうかとも思いながら、ツカサは湿った林を歩いた。
 先を行く蒼の少年の背には不調を感じない。それには安堵する。
 ウミもまたあの雨のなかを上着なしで帰ったのだし、
 なにより彼はつい昨夜殺されかけたのだ。ツカサに。
 跡は少し残ったのかもしれない、襟のある服を着ている。
 が、少なくとも心的なショックにはなっていないし、風邪も引いていないようだ。

「なあウミ、上着、洗ったんだけどまだ乾いてなくて、干してきたから」
「あ、じゃあきょう帰りに取りに寄りますね」
「わかった」

 必要最低限の言葉を交わしながら林を出る。
 秋口の桜並木は枯れ葉が降り積もるばかりだ。
 ツカサはしばらく息を止めた。
 並木を越える頃に苦しくなって、隠れて深呼吸をした。
 ウミやシヅキを相手に隠れられているかどうかも怪しいが。
 余裕のなさを自身で感じる。
 息を止める。人前ではあまり出ない癖のはずなのに。
 あの日からはじまった癖だった。
 水に沈んだ母がどんな死を迎えたのか、思いすぎた結果だった。
 それこそ誰も知らないことだ。

 道すがら、一向に父からは返信の来ない携帯端末を開く。
 ソノにメールを打つ。

【皆で見舞に行こうって話してるけど欲しいものある?】

 デジタルに出力された文章は、どこまでも無感情で平静だ。
 躊躇いなく送信すると、十秒と待たず返事が届く。
 相変わらずの早さだ。
 苦笑はできなかった。

【じゃあお昼ご飯つくってよ 全員ぶんツカサの奢りで!】

「俺のせいだしな……」

 ぼやいて、皆で買い出しに向かうことにする。
 道中は沈黙が続いた。
 ツカサがふたりを店頭に待たせキサワ薬局を回る間も。
 シヅキの案内でソノの家まではるばる歩く間も。
 ひとこともなかった。
 ツカサが話を振らなかったからだろう、と思う。
 ウミも、シヅキも、対話については受動的だ。
 わかってはいるのだけど、口を開く気にはなれなかった。

 郊外の古びたアパートの一室。
 赤羽、とネームプレートのかかった扉の前。
 インターホンを押すと、しばらくして扉が開いた。
 部屋着姿のソノが笑顔を見せる。
 大きな傷跡が紙マスクにはんぶん隠れている。

「わっ、しーちゃん無事だったの」

 開口一番はそれで、次はシヅキへの抱擁だった。

「よかったー! 心配したあ」

 ツカサは、半分嘘だろ、と思いながら、困惑するシヅキを一歩後ろで見ていた。
 隣に立つウミが、「赤羽さんも大事ないみたいでよかったです」、と口を挟む。
 ソノは目をぱちくりして、シヅキを解放しはにかんだ。
 ウミがソノに進んで発言することは誰が見ても珍しい。
 やっぱり昨夜で何か変わったのかもしれない。
 ツカサは若干の不安を抱きながら、薬局の袋を持ち直した。

「うん、ちょっと熱が出てるだけ。とりあえず、入って」

 三人が通されたのは狭苦しいワンルームだった。
 まず奥に敷かれた布団が部屋の三割を占めている。
 その脇に小さなローデスクがあって、やけに立派なコンピュータが座している。
 あとは細身のクローゼットと、もうひとつのローテーブル、いくつかのクッション。
 それでもう部屋は満杯だ。
 コンピュータ以外は、取り立てて目立つもののない、簡素な部屋だった。

「座って座って。あ、団長冷蔵庫使う?」
「じゃあ、ちょっと借りる」
「はーい。キッチンはこっちね」

 ソノに促されるまま、食料をいったん冷蔵庫に保存して、ローテーブルの端に座る。
 客人など想定していないのだろう大きさの円いローテーブルに四人。
 詰めて座ってぎりぎりだった。

「なんか、病人がいちばん元気だな」ツカサがつぶやく。
「熱あるとテンションあがるよねえ」
「いや寝ろよ」
「さっきまで寝てたもん」

 とりとめもなく、会話がはじまる。
 慣れとは不思議なもので、ソノ相手であれば言葉を吐くのに難はないらしい。
 三年も、一日の半分はソノと話して過ごしたのだから当然か。
 あるいは秘密についてを伝えていないから。
 なんにせよ、ありがたい存在だ。

「それより、しーちゃんさあ、いままでどうしてたの」

 ソノがのんびりと口を開いて、PCデスクからメモパッドを取って寄越す。
 シヅキはかすかに間を置いてからペンを取る。

『ひみつです』
「ひみつかあ。ちゃんとご飯食べてた?」
「……」
「こら。……きょうのお昼が楽しみだねえ」
「おい、さりげなくハードル上げんなよ」
「団長、私よりは料理できるじゃん」
「園、できないんだっけ」
「得意じゃないんだよねー。人が食べられるものは作れるんだけど」
「人が食べられるもの」
「しーちゃんにはいつも悪いんだけどねー」
「まじか……」

 シヅキは困ったような笑みを浮かべるのに失敗したくらいの顔で、かすかに頷いた。
 会話だけはすらすらと進む。
 本当に以前に戻ったみたいに。
 けれど違う。
 ここは基地ではない。
 ウミが本を開いていない。
 シヅキの表情が硬い。
 そのすべてがこんにちの波紋の証だ。
 苦しいな、と思う。
 戻るなら戻るでいい。
 いっそなかったことだと思えたら、変わらないだけで済むのに。
 あらゆる些細な差に、思い知らされる。
 波紋の先で確信した事実が、思考をむしばんでいる。

 待てないよ。もう。
 俺は。

「あとそうだ、成くんはいないの?」

 変わらぬ声音の問いで、空気が凍った。
 ツカサがそう感じただけかもしれないが。
 刹那、ソノ以外の三人の間に目配せがあった。

「彼奴はもう来ません」――応えたのはウミだった。
「え」
「思い出して、帰ったんです。もといた所に」

 何も知らないはずのウミが、ほとんど完璧な解答をしたから戦いてしまう。
 シヅキも同じようで、大きな金色の目を瞬かせた。
 今朝のこともセイの居場所も知っているわけではないのだろう。
 思い出したら出ていく、そういう約束があったらしいが。
 ツカサにはわからない話だ。

「そうなんだ。お別れ言えなかったの残念だなあ」

 ソノは呆気なくそれだけ返して笑った。
 笑顔が心なしか自分に向いている気がして、ツカサは隠した手をきつく握る。
 追究されている。
 相手は友人である前に、情報屋だ。
 セイが去ってくれてよかった。
 ソノに情報を渡さず済んで。
 ただ、ツカサはまだセイを追わなければならない。
 あの最悪な暗示を消せなければ、ずっと苦しいだろうから。
 だからこう返した。

「言えばいいよ。風邪が治ったら。会えない訳じゃないし」
「まあそっか」
「うん」

 会話のはざまに視線を感じた。
 疑念と、非難の目だ。
 無視することにする。

 いつの間にか決めていた。
 最初から決まっていた。
 ツカサは抗うしかないのだ。
 築いた信頼を身勝手に捨て去ることになろうと。
 それで誰をどれほど傷つけようと。
 どうだっていい。
 残酷でいい。
 だって自分が苦しいから。
 彼女に会うまで終わらないから。
 抗うしか、ないのだ。
 自身を縛る絶対の力に。


2019年2月14日

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