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Fictional forest
「恋」

 覚えているのは呼吸の遠退く感触と。
 ロープの結び目の形。
 部屋の片隅にぶら下がったじぶんの細い体躯。
 街灯に透ける長い髪、彼女の笑い声。
 その行為に迷いはなかった、ということ。

 一度は死んだ身だ。
 なにがあったっていいや。
 そう思っていたことがある。
 いや、いまもそうだ。
 まだ心臓が動いている。
 命あるかぎり、能力の効果が持続するから。
 生きてさえいればいい。
 あとはどうでもいい。
 そういう存在だ。俺は。
 神さまによってそう定義されているのだ。

 高橋成は水面に自身の顔を見ていた。
 癖のない薄い色の髪も紅い目も母譲りだ。
 瓜二つだと、滅多に会わない父から言われたことがある。
 自分でもそう思う。
 性格まで似ているかどうかはわからない。
 話したことがない。
 母の著作は、少し読んだ。
 何が書いてあるのか難しくてわからなかった。
 当然だ。セイは学校教育をほとんどまともに受けていない。
 簡単な漢字までしか読めないし、筆記に至ってはなお怪しいくらいだ。
 それでも責める者はいなかった。
 周りに人がいなかった。

 とりとめのない思考が、水面の揺らぎに遮られる。
 隣に立った彼女を見上げる。
 彼女は黙ってセイを視ている。
 セイの記憶を視ている。

「終わりだって思ったんだけどな」

 懺悔に似た言葉をぼやいた。
 つい今朝がた取り戻したばかりの記憶は、案外すんなりと思考に馴染む。
 たかが暗示によって思い出さないようにしていただけの代物だ。
 解除。その一言をシヅキに言われたまま紡ぐだけで崩れてしまった。
 たった一週間。それしか保たなかった。
 それも無知への焦燥が大きすぎたからだろう。
 封じるべきは記憶よりもそちらだったな、と反省する。

 彼女は「どうかなあ」と応える。
 確固とした、しかしやわらかな声で続ける。

「終わらないんだよ。そういうのは。ぜんぶ忘れても」
「経験則ってやつか?」
「かもねえ」

 彼女は笑顔だった。
 その頭には、セイの記憶など一秒ほどもないはずだ。
 それでも彼女は変わらない。
 セイの中の彼女を読んで、そのとおりに振る舞うからだ。
 だとしたらぜんぶ知っているはずだった。
 一度も言及されたことはないけれど。

 水面は藍色に光る。
 空のないこの森では、誰もがうつむくしかない。
 うつむくくらいしかやることもないのなら、
 少し無駄な言葉を重ねてもいいだろうか。

「俺、きみに近づきたかったんだよ」 

 微かに木々を揺らしていた風が止んだ。
 彼女は、うん、とちいさく相槌を打つ。
 どうやらこの茶番に付き合ってくれるらしい。

「羨ましい。特別で、世界に必要とされてて」
「そうね」
「だからきみの特別になりたかったんだけど。要らないんだよな、俺は。きみにも、世界にも」
「成くん、それはね」

 変わらぬ視線を受けてうつむき続ける。
 耳を打つ声の温度も変わりない。
 感触はいいが、少し冷たい。

「洗濯機は昔の人には要らないけど、いまの人に聞いたら要るって言うよね。要るか、要らないかって、当たり前にあるかどうかってことだよね」
「……」
「成くんが要らないのは、わたしの隣にしかいなかったからだよ。わたしには当たり前がないから。理由は、それだけ」
「わかってるよ。だからさ」

 セイは過去13年の空洞を想う。
 ふらふらと生きてきた。
 なにもしていなかった。
 どこにいても、いないのと同じで。
 益にも害にも成れず。
 セイのなし得たのは、いくつかの暗示と、少しの恨みを買うことだけで。
 それでも嬉しかった。
 だからすべて受け入れた。
 それも終われば、セイは用済なのだけど。

 ――くやしいんだよな。
 すべてになり損ねた自分が。
 だから、もう、誰よりも特別な存在になるまでは満たされないのだ。
 誰よりも特別な彼女がうらやましい。
 ほんとうは彼女になりたい。
 総てを知って。そうすれば、きっと何かができる。
 あるいは、せめて、彼女の隣に立てる唯一になりたい。
 なにも知らずに此処に転がっているだけにはなりたくない。
 彼女のことを知りたい。
 そう願うのはおかしいか。
 セイにはそれがおかしいと理解できた。
 あるいは、彼女の隣にいることの困難が如何程か、理解できた。

「だからきみから離れなきゃって思った」
「正しいね」
「でも嫌で四年も動けなかったんだ」
「……」
「きみに近づきたかったんだよ。だから花に手を出した」

 懺悔に、彼女が苦笑する。

「それは、さいあく」
「そうだな」

 遠くで花が揺れている。
 あれがなんなのか、どうして生まれたのか、彼女も詳しくは知らないらしい。
 誰よりも特別な彼女よりも、はるかに異質な、何かだ。
 ただ、わかるのは、あれは劇物だということ。
 さわらない方がいい。
 さわると頭が吹き飛びそうな衝撃を味わうことになる。
 じっさいに吹き飛んだりはしないが。
 知ることの花。
 むき出しの情報の塊とでも言えばいいだろうか。
 古今東西のすべてが神経回路に殴り込んでくる、感じ。
 そのほかに言いようがない。
 セイはあれに手を出した。
 むろん特異性に惹かれたからだ。
 彼女に近づけると思ったから。
 手を出して、後悔した。
 総てを知りたかった筈なのに、しばらくどんな情報も嫌になった。
 目も耳も塞いで、静かな森の片隅で息をつまらせた。
 あの感じを拭い去りたかったのが、この記憶喪失の訳のはんぶんだ。
 もうはんぶんは、彼女への固執という枷を、自らから外したかったから。
 ずっと逃げたかったから。

「ま、結果的にはやっと動けたんだからいいじゃん。それも無駄になったけどさ」

 軽く言い捨て、セイはふっと脱力して草の上に寝転がる。
 蒼いにおいはしない。感触も曖昧なそこから彼女の目を見上げる。
 一面がみどりのこの森のなかでも、いちばん綺麗な色だと思う。
 すでに知っている話をあらためて聞かされても文句ひとつ言わず笑んでいる。
 彼女もそこそこ暇なのだろう。
 あるいは厚意でつきあってくれているのか。
 後者なら、ちょっと嬉しいんだけど。

「戻ってきちゃったし。基地ももう行けないし。俺、どうしよう、これから」

 彼女は答えない。
 ただセイの傍らに膝を抱えた。
 もう視線は水流にだけ注がれている。
 折れそうな背で、なにを考えているのか。
 なにを抱えているのか。
 セイは知らない。

「ったく。きみに付き合うとろくなことがねーや。みんなそうだ」

 力の抜けた笑いを交えてぼやく。
 脳裏に二人の顔がある。
 涙を隠していたシヅキと。
 死の覚悟をまとったツカサと。
 二人とは、公園の入り口で別れた。
 それ以上はもう、セイが踏み入ってはならないのだ。
 セイはあちら側に在るべきでないのだろうと。
 思った。思いたかったのかもしれない。
 だって。

「だけど。俺はやっぱり此処に居たいよ」

 此処に居たいから。この森に。彼女の隣に。
 ただの現実になんて、興味がないのだ。
 特別なこの場所でなければ意味がない。
 現実ではない、現実にもっとも近い場所。
 彼女の心象風景。

「此処に居たい」

 繰り返して、無い空を仰ぐ。
 無い、というのは不思議だ。
 あるということが認識できない、と言う方が正しい。
 白でも、黒でもなく。透明ですらない、無色だ。
 自分もそうなれたら少しは楽だろうかと思う。
 死に直すならそれもいいか。
 誰も困らない。
 いや、死ぬのは困るんだっけ。暗示が切れるから。
 それなら、このまま、またふわふわと生き続けることになるわけだ。
 痛む胸に掌を置いた。

 確かに、彼女の言う通り、終わりはないようだった。
 こういうのは。
 恋っていうのは。
 忘れても、終わらない。

「好きだって言ってるんだけどな……」

 深く息をついた。
 彼女はついになにも言わなかった。
 拒まれてはいない。
 だからこれでいいか、と、そういうことにしておくのだ。


2019年2月10日

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