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Fictional forest
「枷」

 湊月咲は町を歩いている。
 雨上がりの朝焼けが落とす影を踏む。
 携帯端末で時間を確認すると、そろそろ基地に人が来る時刻だ。
 ぼんやりと画面を眺める。
 電柱の傍で信号を待つ。
 風に押しやられた枯れ葉が下る坂道を、逆方向へ進んでゆく。
 のろのろと坂を登りながら、ツカサは父にメールを打った。

【あとのこと、頼んだから】

 送信。
 端末を無造作にポケットへ押し込み、上着の裾を直した。
 目的地は、あの廃屋だ。
 それから十何分も行けば、せせこましい住宅街の一角に見えてくる。
 ふと、ポケットの中身が震える。
 新着メール一件、とサブディスプレイが伝える。
 無視しようとも思ったが、差出人名に目を留めて携帯を開き直す。
 ソノからだった。
 やっぱり風邪を引いたから休みます、との内容に、怒りの顔文字が添えられていた。

「うわ。悪いな……」

 ぽつりとつぶやいて、ごめん、お大事に、とだけ打って返す。
 進む足取りが少し重くなる。
 本来なら見舞いのひとつくらい行くべきなのだろう。
 けれど、もう、そういうのは無しだ。
 基地に行くこともない。
 行く理由がなくなってしまった。
 ――なんでだろうな。
 人間関係を遮断したかった。
 それが理由で秘密基地にこもっていたはずだ。
 嘘偽りなく。誰とも関わりたくはなかった。
 彼女への想いをわずかにでも薄れさせたくない。
 苦しいなら、苦しみごと、ずっと忘れずにいたい。
 けれど。
 わかっている。
 弱いのだ。
 たすけて、という言葉に、弱い。
 手を伸ばせるときに伸ばさないで、最悪を招いてしまうことが怖い。
 極彩色の光のなかに落ちていった母の背を、いつでも思い出す。
 それだけで。
 それだけの理由で、望まない信頼を築いてしまった。
 本当に悪いことをしたと、思う。
 思うだけだ。
 閉じた携帯を握り締める。
 ツカサには、同じことをしている、という自覚があった。
 父と。
 まあ、正義ではないぶん、父よりひどいのかもしれない。
 わざわざ築いた信頼を、身勝手に捨てようとしているのだ。

 廃屋に踏み入る。
 この一週間で急に増した涼しさのせいか、虫の気配が少なくなっている。
 室内はやはり暗くて、携帯を灯り代わりに階段を昇る。
 その中腹で、ツカサは足を止めた。
 止めざるを得なかった。
 弱くだが、背後から上着の裾を引っ張られていた。
 振り返る。
 ちいさな影に、刹那、口を閉ざした。
 相変わらず、急に現れる。

「紫月。……ここにいたんだ」
「……」

 金色の目は終始うつむいていた。
 ツカサの上着を握ったまま、ずっと黙っている。
 ツカサはシヅキのことを殆ど知らない。
 家がない、喋らないこども。
 絵と字がきれいで、森と何らかの関係がある。
 何故か、ツカサを護っている。
 そのくらいだ。
 それでも彼の意図は解った。

「離してくれない」

 問うと、むしろ引く力が強まった。
 非力な手だ。振りほどくことも可能だろうが。
 ツカサはちいさく息をつく。

「紫月さあ。俺のことどこまで知ってる?」
「っ……」
「だよな。でなきゃ助ける義理もないだろうし。で、確認するけど」

 ちいさな手が、真っ白になるまで握られているのを見た。

「あいつ、生きてるんだよな」

 誰が――とまでは言わない。
 べつに確信があったと言えるほどではない。
 鎌をかけた。これで話が通じたら本物だろうから。

 彼女はまだ生きているのではないか。
 その疑念が、この四年、ツカサをつきまとっていた。
 知っていたからだ。
 彼女のさいごの景色が森だったことも。
 死線を介して辿り着ける場所があることも。
 知っていた。あの夜に、わざわざ彼女に知らされた。その理由を考えていた。
 ずっと訝りながら、ただ彼女のさいごの言葉を守って日々を過ごしてきた。
 セイに、きょうだいがいるかと問われたとき、まさかと思った。
 そのセイの記憶喪失がきっかりあの日からのものだとしたら。
 ひょっとするんじゃないか。
 それにシヅキはセイのもとよりの知り合いで。
 森には行くなとたびたび念を押してくるのだから、決定的だ。

 シヅキは、ゆるゆると手を離して、顔をあげた。
 その手を祈るように合わせ。

「お願い……」

 耳に届いたそれが彼の声だと気づくのに、時間がかかった。
 不安定で、掠れた、つたない声だった。

「貴方は、……まだ」
「……まだ?」
「……っ」

 言葉が喉に引っ掛かったようにシヅキが口を噤む。
 またうつむかれると、携帯の灯り頼みではさっぱり表情が判らない、
 ただ耳に届く息遣いが震えている。
 声もなく。
 ――泣いているのだろうなと思った。
 もう引き止める手はないのだから無視して歩き出せばいい。
 それが出来ない自分が情けない。
 沈黙した。
 手を差し伸べるか、このまま進むか。
 選択肢は相殺されて消えた。
 なにもできなかった。

 無限に思えた沈黙は、光によって終わる。
 懐中電灯の円い光が、急に上から降ってきたのだ。
 眩んだ目では光の主を識別できない。
 ただ、はっきりと、聞き覚えのある声が廃屋に響く。

「『森に近づいてはならない』!」

 まだ声変りも終わらない少年の、がさついた声に、目眩がした。
 脳味噌を直接握りしめられたかのような感覚。
 思考回路が強引に変革されてゆく。
 視界の隅で現実を記述する数値が飛んでいく。
 ある種の絶望感が、胸を満たした。

「これでいいだろ。ほら帰るぞ紫月」
「……、ど、こに……」
「基地に。あと湊さんも。もう時間でしょう?」

 至って平静な、穏やかでさえある声音に、ツカサは、従うしかなかった。
 もう一歩だって上には行けない。本能がそう叫んでいた。
 ぞろぞろと軋む階段を降りる。
 渦巻く不穏な心象が階段の旧さに対してであればよかった。
 壊れかけの玄関を出て、まばゆい寒風を浴びる。
 薄い髪色の少年が、微笑をたたえてツカサを見ていた。
 穏やかな態度に反する、強い紅の目で。
 それが、やけに、痛い。

「なんでだよ」

 自分が思うより低い声が出る。
 そうか、怒っているのか、と自覚する。
 彼女に会いにゆくのを、止められたから。
 絶対的な力によって。

「湊さん。俺は、あなたのことはよく知らないんですけど」

 セイはただ笑っている。

「まだ命かけちゃうのはどうかと思うんです。団長」

 ちょうど、手に握ったままの携帯が震えた。
 今度こそ父からの返信かと思いきや、ウミからだった。
 おおかた、いま基地で一人でいて、心配してくれたのだろう。
 ――まだ命をかけるには荷物が多すぎる。
 わかっている。
 わかっているけど。

「自殺ですよ、必要なのは。わかってるでしょう」
「俺はそれでもいい!」

 声を荒げた。
 どう思い返しても、怒りで声を荒げた記憶は人生で一度しかない。
 これで二度目だ。
 二度目も、理由は同じだった。
 彼女を想っていた。

「ずっと、何年、待ったと……っ!」

 待っていた。
 誰にも言わずに、ひとり、忘れずに、ただ待っていた。
 やり残したことがありすぎたから。
 言いたい文句がありすぎたから。
 元気にしてるの。
 空は見たの。
 なにをしているの。
 なんで急にいなくなったの。
 何も言ってくれなかったの。
 母になにをしたの。
 なんで、去るつもりなら、突き放してくれなかったの。

「俺は」

 吐き出す言葉が浮かばない。
 だから叫びは完成する前に萎んだ。
 感情は風に流されて、電柱の染みになって終わるだけだ。
 セイは黙って聴いていた。
 シヅキはまだ少しふるえている。

「赤羽さんとか福居に、同じこと、言えますか」
「……っ」
「ま、どうせ、今は行けないんですから。やれることやりましょう。それと」

 セイがゆるりと歩き出す。
 遅れて、シヅキが続く。
 従うしかない。
 ツカサには選択肢がない。
 重い足をひきずった。

「俺はもう行きません。約束があるので」
「約束って」
「思い出したら出ていくことになってるので。あ、でも二人は送ってきますよ。ほっとくと死にそうだし」

 セイは振り向かずに答えた。
 ああウミか、と見当がついて、ツカサは重く息を吐く。
 片手間に携帯を開いて、いまから行く、と返信した。


2019年2月8日

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