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Fictional forest
「解除」

 なにをしているのか。
 自分でもわからなくなっていました。
 なにをしているんだろう。

 あのひとの過去を消すこと。
 それによってあのひとが得ているのはいのちです。
 まだあのひとのからだは7月20日以前にある。
 死よりはるか前の状態に。
 それを保つために、過去を消す。
 放っておけば増え続ける時間の総量をおさえる。
 そういうことなのだと教えてくださったのはあのひとです。
 もうそんなことも忘れたのでしょうけれど。

 9月19日。
 きょうも風が冷たい。
 深夜のひめき駅前は、昼間が嘘みたいに暗くて静かだ。
 ようやく止んだ雨が、地面をじっとり湿らせている。
 シヅキは花壇に向かっている。
 両手で水気の多い土を掘り返している。
 冷えた気温にそぐわず汗をかいて、息をしている。
 考えている。

「なに……を」

 しているのだろう。
 わからない。
 ぐちゃぐちゃしている。
 それでも身体が動く。
 探している。
 言霊の依り代を。

 脳裏には三人の顔がある。
 ツカサ、セイ、それから彼女。
 それぞれへの思いがある。
 救われたこと。救ったこと。
 記憶、命、心、目的。
 シヅキは過去をなくしてしまうことの悲しさを知っている。
 知りすぎているから、同情しすぎるから、こんなに痛い。
 痛みを理由に動くから、ろくなことがない。

 彼女を恨んでしまいたい。
 できれば離れたい。
 けれど、シヅキが離れれば、彼女のいのちはゆっくりとだが終わりに向かうだろう。
 またひとを殺すなんて、まっぴらだ。
 だからただ罪を重ねている。
 ツカサの助けとなることで、彼女への罪の意識から逃れようとしていたことは否めない。
 ツカサを森から遠ざけることで、自身の罪を隠したかったのかもしれない。
 もとからぐらついていた。
 足元が覚束無いのだ。
 そこにセイが、過去をなくしてまっさらになったセイが笑顔を見せてやってきた。
 シヅキはセイには感謝している。
 セイのお陰で、もう、消したくもないものを消してしまう心配はなくなった。
 それがどんなに大きなことか。
 けれどその感謝それ自体、いまの彼には届きもしないだろう。
 彼はすべてをうしなって。
 笑っている。
 わたしだけか、胸を痛めているのは?
 もうわからない。
 自分がなにがしたいかも。なにをしなければならないかも。なにをしているかも。
 自棄になっているのかもしれない。
 破滅に向かっている気がしてならない。
 それでも、もうこうしないと気が済まない。

 わたしには、わからないのです、なにも。

「かみさまなんていない」

 いるとしたら疫病神だけだ。
 むろん彼女のことだが。

 運動だけに起因しない嫌な汗を袖で拭って、シヅキはようやく見つけたそれを手に乗せる。
 円く平たい石だった。近くの川原からとってきたのか。
 石の表面に、だいぶかすれかかって、しかしまだ読めるくらいの字が綴られている。
 森に近づいてはならない。
 町じゅうにかかった暗示の、起点がこれだ。

 シヅキはおもむろに髪をほどいて、石を見つめた。
 まばたきひとつ、掌にあったそれは跡形もなく消え失せる。

 あと四箇所。
 内心で唱え、髪を結い直してシヅキは駆け出した。
 ひとに見つかったら、どうしようか。
 もし、この不条理で切実な行為について、ただの悪戯と勘違いされ、
 安易な注意などされたとして、正気でいられるか、自信がない。
 髪飾りはいつだって自分の意思で外せるのだ。
 見つからないことを、祈るばかりだった。

 シヅキは朝まで町を駆けまわった。
 公共施設の敷地を掘り返してまわった。
 石を消す。
 さいわい、どこに埋められたかという情報は頭に入っていたから、そう手間取りもしない。
 あっけなく、つつがなく、明け方には殆どの行程が終了した。
 残るターゲットはひとつだ。
 セイの持つ携帯電話。
 あれさえ消してしまえば、セイは森に帰ってこられるはずだった。
 帰らせてなにがしたいのかは、まだわからなかった。

 ふらふらと明るさを取り戻しはじめた町を歩く。
 一度、公園に寄って、どろどろになった手を洗う。
 流水に冷えきった両手を額に当てて頭を冷やす。
 朝焼けの眩しさに、すこしだけ涙がにじんだ。
 疲れている。
 休みたいと思ったが、思っただけだった。
 まだ終わっていない。

 24時間営業のコンビニエンスストアの前で足を止める。
 店員の目につかぬよう警戒しながら、脇の階段を進んで、住居フロアに出る。
 高橋と記された名札はすぐに見つかる。
 おそるおそる、インターホンに手を伸ばした。
 間延びした電子音。
 扉越しに、かすかな足音。
 がちゃり、と解錠。
 それら一連の音が、永遠だった。

「……え、し、づき?」

 控えめに開かれた戸の隙間に紅い目がのぞく。

「なんでここに……? いや、話は後か。入れよ」

 磨かれたフローリングが目に入る。
 殺風景な部屋に招き入れられ、シヅキの背後で戸が閉まる。
 セイの困惑が息づかいから伝わる。
 朝の強烈な静寂にむしばまれている。
 耳を塞ぎたくなって、実際に塞いだのは目だった。
 盲目に安心感がある。
 故郷を想う。
 波の音を幻聴する。
 大丈夫、まだ正気だ。
 シヅキは当惑に立ち尽くすセイをよそにメモ帳を開く。

『携帯電話を見せていただけませんか』
「え、携帯? うん」

 メモを受け取ったセイがぱたぱたとダイニングテーブルに駆け寄る。
 無造作に置かれた銀の端末を掴んで、玄関先にいるままのシヅキに差し出す。
 刹那、右手の中にあったかすかな重みがかき消えた。
 一瞬前には存在していた端末が、もうどこにもない。
 その事実を認識できるのも、シヅキだけだった。
 セイに残るのは意味もなく手を伸ばしたという違和感だけ。
 呆然と手を下ろして、セイはシヅキをまじまじと見る。
 シヅキは髪飾りを手早く直して視線を返す。

「えっ、と、そうだ紫月、とりあえず上がって待ってて。お茶出すな」

 セイは早口に言ってダイニングの椅子を引き、逃げるようにキッチンへ入っていった。
 おかまいなく、と口に出すこともできないので、シヅキは言われたまま座って待つ。
 目前の置時計が朝五時をまわっている。
 押し掛けるには最も非常識な時間帯だろう。
 しかし、セイは起きていたし、何も言わなかった。

 ほどなく、二人分の麦茶がテーブルに並ぶ。
 シヅキが一礼すると、セイがその隣に腰を下ろす。

「で、紫月、なにがあったんだよ。急にいなくなって、急に現れてさ」
「……」
「基地じゃなくてうちに来るし……ってかなんでうち知ってんの」

 シヅキはテーブルに紙を置いて、つらつらと問いに答えていった。
 森にいたのだということ。
 貴方が居なくなったから、代わりに、わたしが。
 けれどやっぱり居づらくて出てきてしまった。
 貴方の家は最初から知っていた。

「……え、待ってちょっと整理するから」
「……」
「森って、あれ、廃虚で見たやつのことか? で、俺がそこにいた、のか、いままで。お前がいなくなったのは俺が森を出たから代わりに……ってなんの代わりに……?」

 察しが早くて助かります。

「いや、っていうか、なんで言う気になったんだよ。……なにも言わないんだと思ってた」

 戻っていただきたいからです。
 貴方に、森に。
 そう綴るペン先がふるえてしまう。
 無責任だ、と思う。
 わたしだって逃げたくせに。
 シヅキはゆっくりとペンを置いて、出された麦茶を一口あおった。

「記憶、戻るのかな。俺」

 隣でぽつりと声がした。
 見やれば、赤の目は壁際を向いていた。
 その先にシヅキの描いて寄越した絵がある。
 海と、木々と、花。
 ――わたしの記憶のぜんぶ。

「湊さんがさあ、俺の記憶喪失は俺の選択、って」

 シヅキは黙って頷いた。

「そっか、そうなんだ」

 繰り返し言って、セイは絵から手元へ視線を落とした。
 忘れなければならないほどの何かを暴く。
 それが何を意味するかは、わかっているのだろう。
 自らの、おそらく深すぎる傷を抉ることになりかねない。
 シヅキは俯くセイには目を向けられずにじぶんの筆跡を眺めていた。
 内心に渦巻くこれは、さんざん逃げたかったはずの罪悪感にほかならなかった。
 カチ、と置時計の針が動く。

「紫月は何が苦しいんだ?」

 ふいに飛んだ問いに、シヅキは顔をあげた。
 セイの表情は穏やかだった。
 どうして、
 言わなくとも伝わったのか、セイはひとつ頷いて口を開く。

「なんかさ、まあ状況が状況だし、ひょっとしたら俺のせいかもしれないけどさ」

 ずっと苦しそうだから。言葉はそう続いた。

「俺が戻れば紫月は楽になるのかなって」

 シヅキはセイの微笑を凝視したまま動かなかった。
 問いへの適切な答えが出てこなかったからだ。
 セイがまた森に通い始めたらシヅキは救われるか。
 端的には、NOだけれど。

「……ま、思い出せなきゃはじまらないかあ」

 沈黙を経てセイが立ち上がる。
 麦茶を一気に飲み干して、いそいそと支度をはじめる。

「とりあえず案内しろよ。森にさ」


2019年2月3日

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