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Fictional forest
「邂逅」

 花が咲いている。
 大輪で、五枚の花弁を持つ、純白の。
 だれもその名前をしらない。
 あのひとは、仮に、知ることの花、と呼ぶけれど。
 その由来も、わたしにはわからない。
 あのひとの説明によれば、花は、わたしが記憶消去のついでに産み出したもの、らしい。
 むろん、わたしにそんな自覚はありませんから、
 あのひとと意識をつなげる際の副産物と言ったところでしょうか。
 さわらないほうがいいよとあのひとが言ったので、
 わたしたちはいつも、一面のみどりに揺れる白を、遠巻きに眺めているのです。
 川辺に座り、水面をつついて、おもむろに言葉を交わして。

「かみさまはいるんですか」
「全智全能っていう意味なら、わたしたちがそうでしょうね」
「……」
「だからもういらないのかもしれないね。本物は」

 あのひとは、そう語って、存在しない空へ向かってふと笑いました。

「迷子なんだよ。彼は。行く場所がないから、どこにも行けないから、結局、いないのと同じなの」
「……」
「違わないんだよね。彼もわたしたちも」

 その『彼』がだれなのか。
 記憶を消す際、むろんあのひとのあたまのなかを見たのですが、
 あのひとの目指すところの、かみさまとは結局なんだったのか、
 それだけは、わたしも未だにわかっていません。
 だって、そもそも、それを知るために、あのひとは森に居続けるのですから。
 それを、

「……おかしいと、思うのは」

 正常ですよ、わたしは。
 暗示によって、目的にかかわらないすべてに意識の向かないあのひとよりは、正常です。
 ねえ、おかしいはずでしょう。
 愛するひとや、じぶんの命までも捨てて。
 家族を殺して、そこに生じる感傷さえ封じ込めて。
 自身のあらゆる過去や、存在意義さえ消し去って。
 そこまでしてかみさまと話がしたいですか。
 それで何が得られるんですか。何か得られるんですか。
 わたしにはそれを問う資格もないのでしょうけれど。

 あのひとの過去を見てしまったわたしは。
 ただ、義弟の存在が気にかかって仕方がなかったのです。
 ふいに、理由も告げられずに姿を消したあのひとを、どう思っているのか。
 家族みなから一度に捨て去られ、なおかつ旧い秘密に縛られ、
 いったいどんな気持ちで日々を生きているのか。
 わたしもその境遇は身に覚えがあるのでなおさらです。
 孤独と喪失と未練に苛まれる日々のなかで。
 あの、きらきらとした、すべてを無条件に愛するかのような目はまだ健在でしょうか。
 あのひとの封じられた胸の痛みが伝播したように、わたしはそればかりを考えていました。
 あるいは実際に伝播したのでしょう。
 わたしには間違いなくあのひとの記憶があって、
 心を封じる暗示はかけられていないのですから。

 そうして、ついに、その彼のもとを訪れてみることにしました。
 あのひとには外出の旨だけ伝え、成さんにいただいた髪飾りをきつく結って。
 慣れない科学の町並に歩みだしてゆきました。
 しかし、あのひとの記憶を頼りに自宅へ行ってみても不在。
 学校の出口で息を潜めてもみましたが、一向にあらわれません。
 どこにいるのでしょう。
 わたしは、町と森を行来しながら何日もかけてその姿を探しました。
 あのひとに訊いてしまうのが手っ取り早いのはわかっています。
 けれど、このことだけは、あのひとには、問うべきでない。
 そんな確信がありました。
 だってよるいろが好きだと言っていたのです。
 ぜんぶ忘れても、あのひとは、まだ。

 幾日と歩いて、探し疲れ、駅前通の片隅、人目のない場所で休んでいると、
 ふいに話しかけてくるひとがいました。
 髪の短い、よく笑う少年でした。

「よう。おまえ、見ない顔だけど」

 わたしはその笑顔に縮こまりました。
 自身の素性や、森のこと、あのひとのこと、
 その一欠片でさえ、誰にも口にしてはならないと思ったからです。
 だから、ここまでどこへ行くにも息を潜めて、ひととの会話がないようにしてきたのです。
 それが、急に話しかけられたら、困りもするでしょう。

「あ、驚かせた? わりー、おれさあ、この町のこどもはだいたい把握してるつもりだったんだけど、見ねーのがいたからつい」
「……」
「あー、いいよ、いいよ。事情はだいたいわかってるからさ」

 なにをわかっていると言うのでしょうか、このひとは。
 自慢ではないけれど、ひとと話すという経験が絶望的に欠落しているわたしに、
 ただ硬直するほかに、できることなどありませんでした。

「まーなんだっていいんだけど。迷ってんなら手、貸すぜ。どう?」
「……あ、……の」
「え、なんだ?」

 口を動かしても、ふだんが嘘のように声が出ません。
 そのふだんでさえそつない対話などできた試しがないのです。
 目前できょとんとしている彼は、しばらく立ち尽くすわたしを見つめて、
 やがて、ぽんと手を鳴らしました。

「おっけー、喋るの苦手なんだな。おまえ字は書けるか?」
「え、あ、……」
「ほい、じゃあこれで。あ別に言いたいことねえよってんなら返せよ?」

 彼は片手間に背負った四角い鞄から紙とペンを取り出して、渡してくれました。
 言いたいことを書け、ということのようでした。
 話さずに引き下がる気はさっぱりなさそうで、わたしも諦めてペンを握ります。
 なにから訊くべきだろう、と考えて、彼の言動を思い返して、
 そしてわたしはこう綴りました。

『湊月咲の居場所をご存知ですか』

 彼はわたしの字を目に少しだけ黙って、やがてひとつ頷きました。

「そっかおまえ、探求者んとこのまわし者か」
「……?」
「よっしゃー、そういうことなら案内すっぞ。ついて来い」

 少年に連れられたのは、ひめき駅前公園内の桜並木でした。
 初夏が過ぎようとしている季節で、葉桜が木陰をつくって揺れていました。
 自然林に面する並木道には点々と木製のベンチが設けられ、何人かの姿があります。
 彼はわたしに空いた席をすすめ、

「ここで待ちゃいいよ。そのうち出てくっから」

 とだけ言って、軽く手を振り、去っていきました。
 礼を言う暇もなく。
 ペンもわたしが借りたまま。
 が、引き留める気はどうにも起きませんでした。
 あの饒舌な少年ともう一度会話ができる気がしなかったからです。
 わたしは、借りっぱなしのペンをポケットに挿し込んで、
 言われたとおり、ベンチで人影を待ち続けました。
 そうして夕刻になって、やっとわたしは目当てのひとを見つけ出したのです。
 伸ばしたままの癖毛を暑そうに纏めた姿で、彼は自然林のなかから歩み出てきました。
 あのひととまったく同じ、みどりの目で。

 ほんとうは彼と接触するつもりはありませんでした。
 こっそり様子を見てみたかっただけで。
 それがどうして彼の行く手に立ち塞がってしまったのかは、今でもわかりません。
 彼は目をぱちくりしてわたしを見下ろしました。

 わたしはそれだけでもう、なんだか耐えきれなくなって、うずくまってしまいました。
 情動による能力の暴発が、起きそうになったのでしょう。
 それを防ぐ暗示の作用で身動きがとれなくなったのです。

「君、大丈夫か? 腹でも痛い?」

 彼の声がかかって、わたしは首を横に振ります。
 しかし動けず、彼の手を借りてもとのベンチに戻り、少しのあいだうつむいていました。
 隣に座った彼が、何も聞かずに見守ってくれたのです。
 風が並木道を冷やしていました。

「落ち着いたか……? もう平気?」

 わたしは。
 頷くこともできずに、彼の目を見て。
 あのひとの記憶のなかとは変わり果てた色の、目を見て。
 ペンを握りました。

『たすけてください』

 急な筆談に驚きながら、彼は紙を受け取って、

「ん、わかった。なにで困ってるんだ?」
「……」
「あ、もう紙ないのか。ちょっと来て」

 彼はわたしを自然林のなかへ引っ張っていって。
 やがて四角いテントが見えてきました。
 中に通され、あっけにとられながらテーブル脇に座っていると、一冊のメモ帳を差し出されます。

「どうせだからそれあげる。自由に使って」と、彼が机上に灯りを点しながら笑いました。
 ありがとうございます。一頁目にはそんな言葉を綴ったのでした。
 それから、じぶんの名前だけ、彼に渡して見せました。

「紫月、ね。俺は湊月咲っていう。で、何かあった?」

 さいきんは子供も侮れないみたいだしなあ、と溢して、彼が机の対面に腰を下ろします。
 わたしは、なんでこんなことに、と思いながら、ペン先を紙につけて黙っていました。
 彼と関われなくたってよかったはずだった、のに。
 たすけて、なんて。いったいなんの事なのでしょう。

「君、どこ関係のひと? それともひとり?」
「……」
「もう日が暮れるけど。家はあるのか?」

 そこから質問してくるあたり、彼は察しが良いのです。
 あのひとの力を受けて脳内に増やされた情報のせいか、育ちからくる勘か。
 わたしは首を横に振ることにしました。
 ここまで来てしまえば、後にはひけません。

「家が無いかあ。ご飯は食べてる? 大人には頼りたくないだろ」

 状況の確認を最後に、事情は一言も聞かれませんでした。

「まあ、じゃあ、とりあえずうちに来るか?」
「っ……?」
「あ、嫌ならここでも表でもいいよ。まず食べ物がいるだろ」

 ふと気づけば手厚い措置を示され、わたしは思わず立ち上がりました。
 これ以上は駄目だ、と思ったのです。
 彼はきっとたすけてと言われたらたすけなければ気が済まないのでしょう。
 あのひとや、母や、父を、たすけられなかったから――
 けれど、わたしがこれ以上彼と関わるのは危険でした。
 あのひとのもとに帰りづらくなるし、なにより、わたしの心がもちそうにない。
 逃げよう。そんな言葉が脳裏に浮かびました。
 ただ、裏腹に、身体は動かなかったのです。

 たすけてほしかった。
 ほんとうは、たすかりたかった。
 だれよりも彼にたすけてほしかった。
 これがわたしの思いなのか、あのひとの記憶なのかは、わかりませんが。

『お食事だけで結構ですが、お邪魔させていただきます』

 それから、わたしはまた森と町を行来して、たびたび彼と食事をするようになりました。
 彼の近況を探りたかったという本音もあります。
 幸せに暮らせているのか。
 厄介ごとに巻き込まれてはいないか。
 その答えは、彼の近くにいたひとりの情報屋の存在から察することができました。
 まだ、彼は、この町に、あのひとに呪われている。
 ――あのひとのほうは、もう、彼のことなど覚えてすらいないのに。
 ただそれが悲しいのです。
 あのひととは当然顔を合わせにくくなって、森にいる時間はじょじょに短くなりました。
 情報屋をはじめとして彼の周囲に働きかけ、彼には害が及ばぬよう努めていたこともあります。
 しまいには、二日に一度だけ、深夜に森へ訪れ、
 二日分の彼女の記憶を消してまた彼らの町へ戻る、
 そんな不安定な生活が安定してきていました――

 2009年9月。
 成さんがあのひとから逃げ出すまでは。


2019年2月1日

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