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Fictional forest
「DeletedA」

 死ぬ前に外に出ておくくらい、許してくださいね。
 十年来のわたし自身の目で見る外界は、思っていたより美しいものでした。
 四角くない夜空に、ゆるやかに風がおよいでいる。
 素足にアスファルトは痛いけれど、ただ笑って、わたしは街を歩きました。
 義弟が行ったことのある場所を、時間の許す限りめぐって。
 小学校、バス停、駅前通に、友人の家まで。
 そうしてわたしが最後に目を留めたのは、住宅街のさなかのちいさな公園でした。
 疲れきった足をベンチで休め、白熱灯にはばたく虫に光のかたちを任せ。
 じっと胸を押さえました。
 幼い頃の義弟がよく通っていた場所。
 ここにはたくさんのこどもたちの心象がつまっている。
 まっすぐに目の前のことを楽しいと思う、そんなきらきらした心象が。
 それでも、もう羨望に身を焦がすことはありません。
 ただここに残るわずかな彼の記憶を抱いていました。
 これが最後の胸の痛みだ、そう思えば不思議と楽な気がしました。

 公園の入口に人影がひとつ。
 年の頃は十に満たない。
 セイ。成ると書いてセイ。
 本来的にだれもが持つはずのきらきらした感受性を、生来持たない少年でした。
 彼は、わたしという記号を紅い目にうつして、ふいに歩み寄ってきます。

「どうかしたの」

 色のない声にわたしは顔をあげました。
 なんとなく、おもしろいから。
 その他の恣意をなんら持たない、純粋な目でした。

 わたしはここで彼を待っていたのです。
 『暗示』というその強大な力を欲して。

「――たすけて」

 わたしに暗示をください。
 時が来るまで、この想いを完全に封じよ、と。

 それから。
 傍の欅に縄をくくって、わたしは首を吊りました。
 ひとつの遺言を家族へたくして。
 セイは、急に自殺の準備をはじめたわたしに驚きもせず、
 きみ、死ぬの。とだけ言って首をかしげました。
 そしたら俺、犯罪者になっちゃう。
 ぼんやり呟かれた言葉に、わたしは大丈夫と答えました。
 誰にも見つからないから。
 あるいは、必死で隠してくれる誰かがいるから。
 それがわたしたちの最期の会話です。
 7月20日。夜隅の街灯に背を向けて、わたしは死にました。

 これは賭けであり、また八百長がからんでもいました。
 ある特定の条件下での、死。
 それがもたらす結果は必ずしも生命活動の停止ではないことを、知っていたからです。
 わたしは向うへ行きたかった。
 死をとおして、かみさまのいちばん近くへ。
 けれど賭けに負けてもべつに良かったのです。
 このままほんとうに死んでしまっても。
 どちらにせよ、いまのわたしとは訣別したかったから。

 えてしてこの賭けは勝利という形に収まりました。
 一度は消失したわたしの意識は森のさなかで覚めたのです。
 一面のみどりに、どこからか聞こえる流水音。
 その景色は、十年前の山道に酷似していました。
 それもそのはずです。
 ここはわたしの心そのものなのですから。
 少しだけ、説明しましょう。
 ひとは誰しも深層にあるひとつの風景を持っています。
 仮に、心象風景、と呼びましょうか。
 心象風景を核に、知覚と推測によって拡張される情報群。
 それをわたしたちは、世界と呼びます。
 つまり、ここは、ひと一人一人の心であり、
 世界を形作る核ということになります。

 偉そうに語りはしましたが、わたしとてこの場所を詳しく知ってはいません。
 ほとんど前人未到に近い、秘境だからです。
 わたしの知識はひとの主観情報を読み取ることで成立しますから、
 だれもしらないものは、わたしも知らないのです。
 ひとまず歩き回ってみました。
 が、地形を把握するには至りません。
 そもそも、地形はわたしの意識によって変わってしまうようでした。
 それだけわかると、わたしは歩くのをやめて、川辺に腰を落ち着けます。

 やることがないと上を見上げたくなるのは本能でしょうか。
 が、木々によって遮られたむこうに空はありません。
 わたしの意識のなかに、空という概念はないようでした。
 うつむいて水の流れを眺めました。
 藍に光る小川に、わたしの顔がうつって揺れている。
 幼いみどりの目が、こちらを見返している。
 そして、その背後。
 もうひとつの人影がありました。

「やっぱりいた」

 独り言に振り向くと、無味の微笑みが返ってくる。
 セイでした。
 わたしはわずかに驚いて口を閉ざします。
 どうしてこんな場所に。
 わたしの心象風景に、他者がたやすく入り込むなど。

「これ、きみの魔法?」

 セイはあたりを見回してぽつりと言います。
 樹木のつくりものめいた感触に目をぱちくりしていました。
 わたしが答えないので、彼は立て続けに、

「隣いい?」

 問う声をよそにわたしは彼を探っていました。
 彼は、首を吊ったとたんに消えたわたしを不思議に思って、
 どういうわけか追いたくなり、同じことをして、ここにたどり着いたようでした。
 彼も首を吊ったということ。
 けれど、それなら順当に彼は死ぬはずです。
 何故ここに――
 そしてすぐ気づきました。
 ここはわたしの心象風景。
 わたしの力は、自他を接続しての、情報の送受信。
 つまり、この森はわたしの力が及ぶすべてのひとに開かれている――

「成くん」

 わたしは立ってセイに向き直りました。

「え、名前言ったっけ」
「あ、わたしは湊松理。16歳」
「じゅうろくさい……」
「小さいのは病気なの」
「そっか。ごめん、湊さん」

 で、何? と、癖のようにこてんと首をかしげる彼に、わたしは詰め寄りました。

「お願いがあるの」

 もう一度、いや、一度では足りないかもしれない、きみの魔法を貸してください。
 わたしは、彼に、市内数ヵ所に言霊を仕込むよう指示しました。
 具体的には、駅や学校、公共施設周りの地面に、言葉を記した石を埋めてきてほしいと。
 内容は、『森に近づいてはならない』。
 そこに訪れたすべてのひとに効力があるようにと。
 暗示は、というより言葉を媒介とする力は、モノの併用を好みます。
 喋るだけでも効力はありますが、書くこと、言葉自体を他のなにかと関連付けることで、
 より強固に、長く、広く、効力を発揮することができる。
 これは義弟が力の使用に折り鶴を用いるのと似た原理です。

「いいけど」

 彼は快諾しました。
 彼の認識の上では、すべて、暇潰し以外の何物でもないからです。
 わたしはすこし笑ってしまいました。
 どれほどわたしが命を懸けて、心を砕こうと、
 彼にとっては、遊びの一種にしかならない。
 それが、なんとなく、おもしろい。
 わたしたちの繋がりとは、そういうものなのでした。

「いい、けど、俺はまたここ、来たらだめ?」
「いいよ、もちろん。いつでも来て。でも」
「大丈夫。誰にも言わない」
「ありがとう」

 彼になら。
 関係性に心をとられて、やるべきことが疎かになることもないはずです。
 それに有能で、なによりおもしろいから。
 だから、わたしは、彼を例外的に受け入れることにしました。

 彼はほとんど毎日、この場所に通いつめました。
 帰らずに入り浸ることだけはわたしが許しませんでした。
 行方不明扱いになるとやっかいだからです。
 けれど、一日の半分以上を、彼はこの森で過ごすのです。
 わたしはついでとばかりに彼にさまざまなことを命じました。
 口封じ、人払い、ほかにも。
 彼は、そのすべてを快諾して、その通りにおこなってゆきました。
 やがて彼も自らの力を使いこなして、細かな指示をせずとも令をこなすようになりました。
 わたしはなんの対価も払っていないけれど。
 もし彼にその理由を問えば、こう答えるでしょう。
 他に行く場所がないから、と。
 行きたい場所もやりたいこともないから。
 ちょっとでもおもしろいことに関わっていたい。
 それだけ、と。

「成くん、ここに居てたのしいの?」
「楽しくないけど、家よりは落ち着く」
「そう」
「湊さんは、ここで何してるの」
「内緒」
「そっか」

 セイとふたりで過ごす日々は一年間だけ続いて、
 あるとき、突如として森の一角に倒れているこどもを見つけました。
 汚れた服を着て、目に布を巻いてうずくまる彼。
 シヅキ。むらさきの月と書いてシヅキ。わたしの呼び方だとしづくん。
 そのときは、たいそう驚いたものです。
 彼のことが、ほとんど見えなかったから。
 わたしに見えたのは彼の能力だけでした。
 ふつうならすぐに読み取れるはずの過去が、その事実が、彼には存在しなかった。
 消したのだ、と理解しました。
 彼は、彼自身の持ちうるすべてをその能力で消してしまったから。
 生まれ育った世界すら消してしまったから、こんなところへ流れ着いて。
 その過去が、わたしにも見えなくなった、と。

 ほしい、と思いました。
 ただ痛切に。
 彼の力を借りたい。
 わたしも、持ちうるすべてを切り落として、まっさらになれたら、きっと。

 きっと、わたしはよりかみさまの近くへ行けるはずだ。

「きみにお願いがあるの」


2019年1月30日

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