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Fictional forest
「Hidden」

 その日のことは全部おぼえている。
 忘れられないのだ、じぶんでそう規定したから。
 朝から快晴で、空が青くて、陽光が肌に痛かった。
 小学校前のバス停。
 ぼろくさい屋根のかたち。
 熱されて使い物にならないベンチの塗装。
 傍の植え込みに夏草が騒いでいた。
 まだ午前のはずが、数分の待ち時間の間にどれほど汗をかいただろう。
 水筒がなければ倒れたな――なんて。
 茹だる頭をバスのクーラーに晒しながら考えていた。
 いま倒れたら冗談じゃないぞ、これから彼女に景色を見せに行くのだから。
 2005年7月20日。
 終業式と大掃除を済ませた児童たちに、夏休みがはじまっていた。

「松理ただいま。ってまだ寝てるか」
「むにゃ……」
「行ってくるから。熱中症にはなるなよ」
「うー……」
「良い夢みろよ、な」

 家にはいったん寄って、部屋に荷物を置き、彼女に声をかける。
 暑さに少しだけ寝苦しそうにしていたから、こっそりクーラーの電源を入れてきたのだ。
 消し忘れることだってあるだろう。
 そんな言い訳を思いながら階を降りた。
 どうにかこうにか購入した浴衣の着付けをして、母を連れて駅に向かう。
 どこか浮わついていた。
 祭に出掛けるなんて滅多にないから。
 母もこの日ばかりはよく笑った。
 他愛もないことを、片道のあいだ話しつづけた。
 ひめきは山中の町だ。
 電車からの眺めは木々がほとんどで、建物が増えてくるにも時間がかかる。
 母はツカサの話すあいだ、おもしろくもない外の景色をずっと眺めていた。

 目的地につく前に疲れてしまって、車内で一眠りしていると、あっという間に到着した。
 見知らぬ駅前、人影はまばらで、申し訳程度の案内板がぽつんと貼られていた。
 白地に黒のポップ体で、花火大会に関する情報が綴られた案内板。
 それを母とふたりでじっと見て、駅員に道順を確認して、それから歩き出す。
 まずは近くの飲食店で遅い昼食を済ませた。
 すでに夕刻、容赦のない暑さも緩んだなか、アスファルトを進んだ。

「屋台、見えてきたな」
「つきくん、何か食べる?」
「ええ、さっき飯だったけど。母さんは?」

 人も少なければ、屋台もぽつりぽつりといった風な通りが、その会場だった。
 夜にかけてじわじわと人は増えるが、見晴らしの悪くなることはない。
 このぶんなら、なるほど、本命も見易いのだろう。
 消えかけの祭を儚く思いながら、屋台の合間を歩いた。

 ひとしきり買ってから、設けられた休憩所に場所を取る。
 午後七時。徐々に暗がりの増えてきた町が、少しだけざわついていた。
 打上花火の開始まで残り僅か。
 どこも夕暮れは同じ色だ、と思いながら戦利品の包装を開ける。

「それ、何」

 母がツカサの手元を覗き込む。
 ちいさな硝子細工。
 紐が通っていて、ストラップになるようだが、使うには壊れそうで怖いなと思う。

「きれいだったから」
「わ、高くないの」
「高かったら買えねーよ」
「見せて見せて」

 母が硝子細工を手にとって眺め始める。
 モチーフは空と雲で、丸い基盤に硝子の板が嵌め込まれた形になっている。
 基盤は四枚連なっていて、それぞれに、時間帯の違う空模様が描かれていた。
 朝、昼、夕、夜。
 母はずっと手の中の色硝子を夕陽に透かして見つめた。

「……気に入ったならあげるけど」
「え。でもつきくんがお小遣いで買ったんでしょう」
「じゃあプレゼントってことで」

 半分くらいは、彼女に見せたくて買ったのだ。
 彼女はたぶんもう空の色なんておぼえていないから――
 いけないことではある。
 後ろめたいから、あげてしまうことにしたなんて、しょうもないだろうか。
 けれど、母がいたく喜んで笑ったので、よしということにはならないか。
 ツカサは曖昧に笑んで、買い漁った食料を少しずつ胃に収めていった。
 そうして、いよいよ夜祭がはじまった。

 あっちに川があるらしいから行こう、そう言う母に手を引かれた。
 花火開始のアナウンスが響くなか、川原に走り出る。
 もともと少ない熱気が完全に風に流されて、夕闇にひかる川面だけを見た。
 ふたり、古びたベンチに座る。
 胸が高鳴っていた。
 なんだかんだ言って、打上花火なんてはじめてだ。
 帰ったら彼女にいっぱい話をするんだ、
 そんな期待を糧に空を仰ぐ。

 あっけなく轟音がして、夜に変わる空の隅に一瞬の花が咲いた。
 河川敷まで走ったのは正解だったと思った。
 色とりどりの焔の破片が、揺らぐ水面に映ってきれいだった。
 あんなにたくさんの色を、一度に空に見ることはそうそうないのだろう。
 視界の隅、母の手の中で色硝子が揺れている。
 この場にある透明なすべてが色彩に燃やされてひかっていた。

「すごいな」

 口をついて出る。なんのひねりもない独り言だ。
 彼女に押し切られて出掛けて、やっぱり正解だった。
 またツカサの目をとおして彼女はこの景色を見るのだろう。
 寂しいような気もした。
 彼女の目に見せてやりたい。
 色硝子だってそのために買ってしまったのだ。
 彼女を隠さなければならない理由には、いまだに納得できてはいない。
 彼女と外を歩きたい。
 火の花に、痛切に想って、そして散った。

「つきくん、写真とろ、写真」
「……ああ、うん」

 母に呼ばれて、幻想から意識がかえってくる。
 薄い笑みを見た。
 残り数発の花火を背に、ふたりで母の携帯電話に向かう。

「笑って」

 シャッターが切られる。
 もう少しちゃんと笑えたら良かった。
 少し困ったような、ひきつった笑みで写った。
 浴衣姿のツカサと、母と、花火と、透明な川面が、四角く切り取られる。

「あの子に見せてあげて」
「……え」
「それと、ありがとうって、伝えて」

 最後の一発が打ち上がる。
 川面が揺れる。
 母は携帯電話をツカサに手渡して、駆けた。
 轟音に世界が溶ける。
 水音はほとんど聞こえなかった。
 火花が散りはじめる。
 その残滓が消えるまで、動けずにいた。

 母が川に飛び込んだと気づくのに、しばらくかかった。
 手にしたままの携帯電話を握りしめて、ベンチにうずくまる。
 荷物はそのまま置かれていた。
 持っていかれたのはあの硝子だけだ。
 ツカサは呆然と、夜祭の終わりを告げる放送を耳に流した。
 それから、母の携帯を開く。

【誰にも言わないでください】

 表示されていたテキストファイルを、黙って閉じて、父の番号を呼び出す。
 湊夜空。
 まだ仕事中なのだろう、出るまで二回かけ直した。

『はいもしもし』
「父さん」
『つきくん? どうした』
「その呼び方やめて」
『……あぁ。で、なんかあったか?』

 浴衣の裾を握る手が震える。
 誰にも言わないでください。
 なんだよ、誰にも言わないでって、どういうこと。
 父さんにも言っちゃダメなのか。
 なにを隠せって言うんだ、俺に。

 ツカサは嘘をつくのが得意だ。
 いままでずっとそうしてきたから。
 そうだ、いままで通りなんだ――
 息を吸って、吐く。

「母さん、もう帰ってこないから」
『……は?』
「それだけ。あとは俺が何とかする。じゃあね」

 電源ごと、通話を切る。
 畳むのとは逆向きに力を込めると、渇いた音を立てて携帯電話は真二つに別れた。
 それを川に投げ込んで、母の荷物を背負い、駅へ向かう。
 来たままを戻って、深夜になって帰宅したが、父はまだいなかった。
 あんな報告を受けてもまだ仕事が優先なのか。
 なんか、もう、いいや。
 諦めて、浴衣を脱ぎ捨て、丁寧に畳んで、母の部屋に仕舞い込む。
 母を思い出させるものはここに置いていこう、そう思ったからだ。
 重い呼吸を携えて、自室の戸を開く。

「……っ」

 ただ、敷居をまたいだだけだ。
 ツカサは卒倒してフローリングに頭をつけた。
 光が、脳内を舞っている。
 すべての方向から、わんわんとひとの声がする。
 すぐに気づく。これはいつもの、彼女の夢だ。
 けれど圧力が普段の比にならない。
 頭が痛い。いや痛みとは違う。この違和は、重いと言う方が近いか。
 よく冷えた床の感触をほとんど感じない。
 ふいに死を覚悟した。
 わかっている。
 わかっているのだ。
 彼女が母の手を握ったあのときの、なんらかのやりとりが、母を死なせた。
 どんな思惑があったかなんてツカサには知れないけれど。
 彼女は家族を殺したのだ。
 ツカサだって例外でないのかもしれない。
 それでもいいな、と目を閉じる。

 日付が変わり、父に揺り起こされるまで、ツカサは自室の入り口で気絶していた。
 目覚めたツカサを、父は青ざめた顔で洗面所まで引っ張っていった。
 ――みどり。
 目の色が変わっていた。
 父が言うには、彼女の力を受けすぎた影響だろう、とのことだ。
 それから夜が明けるまで、うずくまって言葉を交わした。
 ただの一度も母のことは尋ねられなかった。
 湊松理がいなくなった。
 そちらのほうが、重い事態と見られていたからだろうか。
 聞けば、父は、あれから飛んで帰ったが誰もおらず、焦って彼女を探し回っていたらしい。
 けれど見つからなかった。

 見つかったのは、近所のちいさな公園に残ったまだ新しい素足の足跡と、
 その端の木にくくりつけられた輪状のロープ、
 足元に置かれた一羽の折鶴だけ、だったという。

 ツカサは父に渡された鶴をその場で開いた。
 腹のなかに、ちいさく筆圧の弱い字が綴られていた。
 見覚えのある字だった。


【わたしを忘れないでください】


「……松理、死んだってこと」
「君はなにか知らないか」
「知ってたら質問しねーよ……」

 鶴だった紙を握りつぶして俯く。
 藍色の折り紙だった。
 湧き出てきた感情が多すぎてむしろ無感情に脱力する。
 逃げたいな。
 明確なのは、そのひとつだけ。
 無理だ。
 託されてしまった。
 記憶を、秘密を。
 誰もがこぞってツカサに託して行くのだ。

「……出てけよ、父さん」
「……」
「いいよもう。秘密は俺が絶対、守るし。おまえは、正しいこと、やってろ」

 ぼそぼそと言った。

「世界を守るんだろ。あとのことは俺に押し付けていくんだろ。もう、いいから、それで」
「つきくん、」
「呼び方」

 父はそれきり黙り込んだ。
 変わらぬ息苦しさのまま朝になって、ふいに、わかった、と声が飛んだ。

「あとは頼む。金は送る。狙われたり、困ったら頼れ。じゃあな」

 ツカサは俯いたままでいた。
 足音が遠退いて、玄関が閉まった。



2019年1月24日

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