Fictional forest
「Deleted@」
まっくろでした。
あの頃は。
景色も、思考も、心も、
空洞を覗き込んだみたいに、底知れなくて、渦巻いていて、虚ろで、黒い。
――わたしは生まれたときから言葉が話せたのです。
おかしいでしょう。
胎内にいるうちから、脳ミソがだいぶ出来上がっていたようでした。
それだけならまだしも、生まれたその日に、わたしはあらゆる言葉を知っていました。
舌の発達さえ追い付けば、どんな学者との討論だってできるくらいに。
もちろん、言葉におさまらない事柄もよく知っていました。
いいえ、知っているというよりは、見ていたのです。
ひとの心を、だれかの見た景色を、この目で。
お母さんがほんとうはわたしを生みたくなかったことも。
お父さんのまっくろな目が、どこも見ていないことも。
見ていて、おかしいなと思ったので、生まれてすぐ、わたしはそれを指摘しました。
ふたりはどうして一緒にいるの。
逃げたいんじゃないの。
わたしからも、お互いからも、この世からだって逃げたっていいのに、ねえ。
それなら、いい方法をおしえてあげようか。
そして両親は死にました。
わたしの言った通りに、大嫌いなこの世から逃げていったのです。
つまりはそういうこと。
わたしは、天才児で、天災児だったのです。
法律を知っていました。
わたしが赤ん坊でなければ、自殺幇助で捕まってしまったところです。
しかしわたしは保護されました。
保護してくれそうな人が家の近くを通りかかったとき、大声で泣く。
そんな簡単なことで、わたしの命は保証される。
安直なシステムだと思います。
わたしは極力、他の赤ん坊と同じように振る舞いました。
トラブルにだけは巻き込まれないよう、うまくすり抜けながら、
ひとつところに集まった赤ん坊を世話する大人たちに媚びへつらい、生きていく。
そうするのが、身寄りのないこどもとしては賢明なはずでしょう。
5歳くらいの頃になって、わたしは過ちをおかしました。
感情に流されてしまったのです。
5歳ともなれば周りの子供もコミュニケーションを覚え、遊び回ります。
わたしも遊びが好きなのに例外ではありません。
しかし、誰と遊んでも、まったく楽しくないのでした。
頭の作りが違う。
正解がすぐに見えてしまうから、張り合いがありません。
唯一わずかに楽しめるのは鬼ごっこでしたが、戦略的な思考が介入すると、もう駄目。
なにをやってもあまりに容易にいちばんになれる。
しかしそれでは異常なので、適度にできないことを演出しなければならない。
機械的な日々に、耐えられなくなったのです。
無邪気に遊べる子たちがどれだけうらやましかったことか。
わたしは、仲良くなりたいと願いながら、人の頭に触れました。
触れるという行為は、わたしたちにとって、他者への情報の注入を意味しますが――
わたしはそのとき少々理性的ではなかったのでしょう。
それがひとを傷つけるということを失念していました。
相手は、いつも友達と笑顔でとびはねている、素敵な子でした。
その子の様子はすぐに激変しました。
妄言が多くなったのです。
頭に流し込まれた異物と、じぶんの記憶をまぜこぜにしてしまったのでしょう。
じぶんの名前を間違えたり、何もない床を見ておびえたり。
その子は精神治療施設に送られ、二度と帰ってきませんでした。
わたしと交流できる人間なんかいない。
早々に悟りました。
それからすべてがまっくろになったのです。
特に人間は。
安直で、すかすかで、中身なんかないくせに、黒いのです。
それはわたし自身の心の空洞にほかならないと、じぶんでもわかっていました。
ただ口を閉ざしました。
友達がいなくなって悲しいようなふりをしながら、じぶんの心を締め切りました。
孤立することになりましたが、接しないのも偽って接するのも似たようなものです。
そのころ、施設に見慣れない人がやってきました。
児童福祉を学びたいので見学に来ました、と。
告げた目的は彼の本意ではないなあ、とわたしはもちろん知っていました。
彼はホールの隅で小さくなっていたわたしに目を止めて声をかけました。
「君、どうしたの」
彼の名を、ヤクといいます。
夜空と書いて、よぞらでなくて、ヤク。
のちにわたしの義父となる人です。
名前の通り、夜の色をした目で、わたしを覗いていました。
わたしはすぐに確信したのです――
彼とはきっと話すことができると。
わたしはヤクの手を握りました。
『貴方のやるべきことは、わたしを守ることです。
なぜなら――』
ヤクが驚いて手を引きます。
少し苦しそうに額を押さえていました。
「君は」
わたしは微笑んでうなづきます。
あなたの探している『エラー』というやつ。
それがわたしです、そう宣言したのです。
しかも普通ではありません。
わたしは、わたしたちは、他のそれよりなおさら徹底的に守られる必要があります。
未来をご存じなら、あるいは憶測できるならおわかりでしょう。
わたしたち天災児が世界にとってどんな危険となりうるか――
ヤクにはそれを見せたのです。
わたしたちが野放しになったらどうなるか、その無数の未来を。
仕方がないことでした。
わたしたちは心を持った不完全な人間であり、
なおかつ、この頭は全知全能でさえありうるのですから。
その日の夜、施設は電化製品の劣化により火災に見舞われ、
数人のこどもが行方不明となりました。
もちろん、わたしのしたことです。
わたしは、施設が燃えている頃、ヤクの車のなかにいました。
「おれ、妻子がいるんだ」
「ええ。巻き込んでしまってごめんなさい」
「……これからどうしようか」
わたしが彼に指示したのは、そう――
わたしという存在を社会の目から完全にのがれさせること。
それがどれほど難しいか。
けれど必要なことでした。
その方法を、あれこれと話し募って、車は山道に入ります。
山道を越えればヤクの、そしてわたしの地元、ひめきが見えてきます。
でも山のなかはしんと静かで、誰の目もないのです。
「……あのさ、敬語、よせよ。落ち着かない」
ふいにヤクが言いました。
「いちおう、おれん家で君を引き取るってことだ。家族になるんだ。親しくしてくれ」
「そっか、うん、そうするね。でも、あなたと話すことはこれからほとんどなくなるよ」
「本当にそれでいいのか」
「いいの。わたしね、社会とか、異能者とか、そんなことを言ってる場合じゃないの」
車窓から見た山道の景色をずっと覚えています。
森。
どこかで小川が流れていて。
夜でした。
あれきり、わたしは十年も外をこの目では見なかったから、何度も思い返したものです。
思い返すうちに補正がかかりすぎたから、ほんとうは真っ暗に近かったあの景色は、
やけにきらきらとして、暖かな思い出として、まだ頭に残っているのです。
「世界を壊してる暇ないの。他にやることがあるの。だから、世界のついでにわたしを守ってよ」
「はは、世界のついでか」
ヤクはわたしの言葉を笑い飛ばして頷きました。
急に世界を守れと言われて、笑って承諾して、本当に言われたままを実行する。
あんな逸材、ほかにはいないでしょう。
こどもを助けたい。
彼が持っていたのは、ただ、それだけの思いでした。
ヤクの家に住むことになりました。
義母を説得するのには時間がかかりました。
わたしを隠さなければならない理由。
それを示すのに、義母のとうてい口にし難い心の深い悩みを言い当てるまでしました。
わかったでしょう、わたしは危険だから。
この世の総てを知っている。
誰もを口先だけで自由に動かせる。
だったら、誰もがわたしを認識しなければ、安全だ。
つまりはそういうこと。
義母はわたしとヤクの必死の説得で通報の手を納めました。
説得さえ終われば、あとはわたしが透明になればいいのです。
つまり、わたしの存在を知る唯一である家族が、わたしの存在をいっさい認めずにいれば、
わたしはこの世界にいないも同然というわけです。
ただ、問題は、義弟にありました。
ツカサ。月に咲くと書いてツカサ。わたしの呼び方だとつきくん。
彼はわたしを無視してはくれません。
どこで覚えたか、おねーちゃん、と言ってわたしについてくるようになりました。
わたしが選んだのは、彼を飼い慣らすこと、でした。
絶対的なわたしへの信頼を植え付けたうえで、わたしの厳命によって秘密を守らせる。
これによって、彼は、同時に、わたしとこの世界とをつなぐ唯一の線となりました。
異質の狭間に立つ、わたしのおとうと。
それなのに、彼は、目がきれいでした。
常に、濁りのない、素直な感動をもって外界を受けとる。
そういうある種の才能がありました。
彼の見た景色を見ていると、どこか幸せな気持ちになれるのです。
そうしてやっと、まっくろだった時代が終わりました。
わたしの目では代わり映えしない、あるいはほんとうに代わり映えしない世界も、
彼を通して見れば、どこもきらきらとして、鮮やかで、うつくしかった。
そのことが、ただそれだけが、
閉ざされた一室にひとりで居続けたわたしの光であったことは、
いちいち言わなくてもよいでしょう。
彼はよくやっていました。
母譲りでしょう、隠しごとがとても上手でした。
父譲りでしょう、一度始めたことをやり抜く力がありました。
けれど大きな問題がひとつありました。
彼はわたしをあわれんだのです。
世界との繋がりがない。
それはとても寂しいだろうと言って。
ヤクに抗議したり、わたしに手を差し出したりしました。
わたしは動揺してしまったのです。
当然でしょう。
わたしだって。
わたしだって普通が良かったに決まってる。
誰からも存在さえ認められない。
道行く誰ひとり、窓辺にいるわたしに気づかない。
嫌に決まってるでしょう。
言わないだけです。
けっして言わないだけ。
家族みなの協力を煽ったのはほかでもないわたしですから。
だから、嫌だと言ってもやめるわけにはいきません。
特にヤクへの抗議なんかがあると、わたしは義弟を静かに叱りつけました。
彼はわたしに対しては驚くほど従順で、
よけいなことはひとつも聞かず、じっと首を縦に振るのです。
いつからか、胸が痛むようになりました。
彼がわたしを想う、それを黙って見続ける、
そんなことに何年も耐えられると思いますか。
わたしには無理でした。
一方的に彼の目を借りるだけの、遠すぎる関係。
むしろそちらのほうが、外に出られないことより、よっぽど耐えられなかったのです。
だから夢を。
夢を、彼と、共有するようになりました。
わたしの全知を、彼に、移し込む。
世界に蓄積された情報の閲覧と共有。
言うなればテレパシー。
わたしたちの異能とはそういうものです。
しかし、これで一人を傷つけてしまったことは忘れていません。
何度も言うようですが、わたしたちと普通の人では脳の作りが違います。
多すぎる情報を、記憶を、外部から直接流し込まれることへの耐性がありません。
わたしは義弟を殺す気なのだろうか――
そんなはずはないけれど――
曖昧なまま、少しずつ、この行為は続きました。
結論から言って、他人の脳にわたしたちと同じ耐性を作ることは、可能でした。
最初の頃こそ失神して直前の記憶を失っていた彼は、
ひと月もすれば意識の混濁さえ起きないようになったのです。
君の夢が見られてうれしい。
そう言われたときは、閉口しました。
わたしもうれしいはずです。
喜んでいいはずです。
けれど、わたしが彼に一時期危害を加えていた事実に違いはありません。
ひょっとすると彼が死に至らないとも限らない行為を平気で行ったのです。
なにをしているんだろう。
わたしは。
わたしにはもっとやるべきことがあるはずなのに。
彼との交友にうつつを抜かしている。
挙げ句、いらない危害を加えてしまった。
なぜかはわかっています。
いつからかこの世界を好きになっていました。
正確に言えば彼の見る景色を。
彼を。
ここだけの話です。
わたしは彼を選びたかった。
彼のとなりで、彼を救って、彼に救われて、そのままで命を終えたかった。
けれどそれではいけないから、
だから、わたしは、ここを立ち去ることに決めたのですが、
それはまだ、どうか、彼には内緒にしておいてください。
2019年1月18日
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