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Fictional forest
「SavedB」

 蛍光灯の明るいリビングダイニングは、クーラーで冷えた空気に満たされ、沈黙していた。
 ファミリーホーム経営。
 両親が話し出した話題についてツカサはほとんど理解しなかった。
 ダイニングテーブルの隅で縮こまっているだけで時間が過ぎていく。
 ただ見ていた。
 曇る母の顔と、まっすぐな父の目と、机上にひろがる真新しい白の紙。

「おれだけ、だ。君たちにはここに残ってもらいたい」

 その話は、相談ではなく、確認だった。
 父は頑なな人間だ。
 こうと決めると、最後までやり通す。
 そういうひとだ、と、語っていたのはいつかの母だった。
 そして、父の決めた道に寄り添うことだけには迷いのない母が、今回ばかりは俯いていた。

「ずっと相談業をやってたけどさ。やっぱりこういう場所がいると思ったんだよ。おれしか、やれる人もいないだろ」
「あぶなくないの」
「変わらないって。忙しくなるだけだよ。ちょっと帰りにくくなるけどな……」

 ツカサは父の仕事についてよくは知らない。
 ただ、職場が役所であること、こどもに関わっているということだけ聞かされていた。
 このとき父がツカサに説明したのも、これからほとんど帰れなくなる、それだけだ。
 少しだけ安堵した。
 ――ツカサはずっと父が苦手だったから。
 だって、父は、勝手に連れてきた少女を、説明もなく軟禁して、
 あまつさえその命ひとつを自分の息子に丸投げして放任している、帳本人なのだから。
 いい印象を持てるわけがないのだ。
 母も、放任されている彼女自身さえ、決して父を非難しないけれど。
 説明がないから――
 ツカサにはその理由だってわからない。
 理解できないひととは居心地が悪い。
 自然なことだろう。

「父さん、それもう決まったことなの」

 それでも口を出した。
 母がつらそうに見えたからだ。
 声がかかってはじめて父がツカサの方を見る。
 ツカサは黙ってじぶんと同じ色の目を見返した。
 話し合いの場にツカサも交えた以上は、答えてくれてもいいだろ、と思った。

「申請はこれからだけど」
「じゃあさ、俺が中学上がるまで待ったりできないの。さすがに不安じゃない?」
「むしろ不安だからここまで待ったんだ。つきくんがしっかりしてきたから用紙をとってきたんだけどな」

 穏やかな声で、半ば、おまえのせいだぞ、と。
 そう言われてしまえば、ツカサはとたんに返す言葉をうしなった。
 代わりに、なんだか理不尽だと感じて、怒りたいような気がしてきた。
 母がただうつむいていた。
 わからないのか、と言ってやりたい。
 母さんはおまえを待ってるんだ。
 離れてほしくないんだ。
 わからないのだとしたらそうとうな馬鹿だし、
 わかっているのだとしたら、妻を悲しませるに値する理由を説明してほしい。
 もちろんどんな理由もあってほしくはないが。
 机に置かれた資料に目を通した。
 身寄りのない児童の保護、家庭的な環境の提供。
 必要なことだろうとは思う。
 でも、誰かを助ける気持ちがあるのなら、まずは家族を助けてほしいのが、本音だ。

「つきくん、母さんを頼むよ」

 その言葉が追い討ちになった。
 ツカサは席を立った。

「あのさ」声が震えた。

 父が急に立ち上がったツカサにきょとんとした顔を向ける。
 そうしてすぐ、表情をこわばらせた。
 ツカサが次に何を言うか察しがついたからだろう。
 久々に言うなあ、と思う。
 言ってはならないのだけど。
 また彼女に怒られるけど。

「いろいろ、言いたいことはあるけどさ、父さん」
「――よせ!」

 父が声を荒げることは少ない。
 ツカサはわずかに肩を跳ねさせたが、それだけだった。
 母が顔を上げる。
 死んだような表情をしている。

「松理は」
「つきくん!」
「おまえが保護してきたんだろ。母さんだっておまえが嫁にもらったんだろ。ほっといていいわけないじゃん! 何、とうとう俺らごと捨てて出てくつもりか! わかってる!? 父さん、これそういう話だろ!?」
「……」

 父が口を閉ざして、代わりに窓を見た。
 カーテンはかかっているし、エアコンのため戸締まりも済んでいる。
 その確認が先だった。話をするよりも何よりも。
 秘密が、わずかにでも、この家の外に洩れないように。

「俺は父さんの代わりにはなれない。松理のことも母さんのことも、俺に頼むもんじゃないだろ。違う? 俺間違ってる?」
「……つきくん」
「その呼び方さあ、松理が始めたんだよ。おまえ、松理の話ぜんぶ無視するくせに、呼び方だけはうつるんだよな。それでやっとわかった。それまで松理のこと信じられなかった。俺にしか見えてないんだと思ってた。松理は、ぜんぶ、なかったことにされてたから」
「……」
「なかったことにしてたって、気にしてない訳じゃないんだろ。なんで俺に任せたの。分別もないこどもがそんなに信用できる? おまえが守らなきゃいけないんじゃないのかよ、松理も母さんも」

 ツカサは声量を落として早口に語った。
 声量を落とさなかったら今度こそ手を上げられていただろうから。
 ツカサとて、秘密を洩らすことが本意ではない。
 ただ話くらいはさせてほしかった。

 この家が守っているのは。
 秘密。
 それは――彼女の存在そのものだ。
 誰にも知られてはいけない。
 知っていることさえ掴ませてはいけない。
 どんなプロがどんな手腕で調べてもたどり着かないようにする。
 やりすぎなくらい、徹底的にだ。
 軟禁、戸締まりは当然。
 彼女に対して金銭の流れを作らない。
 ふだんから彼女の話題を出すことは慎む。
 そして、ふだんから、彼女を『いないもの』として扱うのだ。

 おかげで、彼女が『本当にいる』と気づくのに、ツカサはずいぶん時間をかけた。
 幼い頃は、ツカサの見る幻なのではないかと本気で思っていたのだ。
 だって両親が彼女を認識しない。
 認識していないかのように振る舞うから。

「そうだよ、つきくん」
「……は」
「押し付けてごめん。でも、おれはこれをやらなきゃいけない」

 ツカサは思わず閉口する。
 意味がわからない。
 認めた?
 謝った?
 そのうえ何をやるって?

「君や、松理みたいな、命に関わるような強くて不思議な力を持った子が。まだこの町にはいっぱいいる。不気味だからって親から捨てられたそういう子たちをさ、誰か事情のわかる奴が助けてやらないと、なにがあったかわかったもんじゃない」

 あとから知ったことだが。
 父はひめき市政で異能を持った児童に関する相談業務を行っていたそうだ。
 そういう部署自体は、ひめきが開拓された当初から存在するが、
 実際にじぶんが異能者であるという働き手は父がはじめてだったらしい。
 ようするに父は頼りにされたのだ。
 『エラー』をとりまく問題に取り組む者として。
 そんな父に市政の人間として欠陥があるとすれば、
 じぶんの力を仕事に使って必要以上の影響力を得たこと、
 それによって息子に遺伝した力に関してや湊松理の存在をほぼ完璧に隠蔽したこと、
 異能調査のプロジェクトチームに反発して、それまでの蓄積データの多くを自身の職歴ごと抹消したこと――等が挙がる。

 ツカサはこのとき、むろんそんなことは知らなかったし、
 知っていたとして、納得できるはずもなかった。

「それが理由?」
「うん」
「父さん自分が何言ってるかわかってる」
「ごめん」

 すぐに謝る。
 謝って済ませる。
 ツカサはふいに悟った。
 彼はもう決定的に家族を見捨てるだろうと。
 そういう覚悟でいるのだろうと。
 だからもう、彼に抗うには――

 そのときリビングの扉が開いた。
 空気が凍った。
 実際には熱気が流れ込んだはずだが。

「つきくん」

 薄く、小さい、それでもはっきりと、とがめるような声がツカサを呼んだ。
 みどりの目がこちらを見ていた。

「そのひとは正しいよ」

 渦巻いていた怒りがぐにゃりと歪む。
 彼女の言葉を、すべて信じてきたツカサが、彼女にこう言われてしまえば、もう動けない。
 息が震えて、うなだれる。
 正しい。
 そうか。
 同じ思いをする何人もを救うのに、俺たちは少数の犠牲になるってわけか。
 それが正しい。
 正しいってなんだ。
 彼女はそういう話題には答えを出せないのではなかったか。

「お義父さんごめんね。大丈夫、つきくんにはよく言っておくから。お仕事頑張って」

 彼女が父に笑いかける。
 父は言葉をなくしたように佇んだ。
 無視というより、適切な反応がわからないという風に。
 無理もない。
 ツカサの知る限り、彼女が両親に話しかけたことなど一度もなかった。
 彼女の笑顔は次に母へ向く。

「お義母さん」
「……」
「お義父さんは貴女を信じて行くんだよ」
「……」
「ずっと支えてあげてね」

 ささやくように言って、ちいさな両手が母の手を握った。
 母はただ茫然としていた。

 彼女は身を翻して、じゃあ戻るね、と明るい声を出した。
 知らず知らず蹲って、ツカサは短く息をしていた。
 ――彼女はなんなんだろう。
 はじめてツカサのなかに疑いが生じていた。
 彼女が『正しい』を振りかざして介入してきた。
 介入してきたってことは、どうにかしようと思ったってことで。
 正しいって、何。
 本当は結論が出ているんじゃないのか。
 彼女は俺たちをどうする気なんだろう。

「なあ、父さん、俺たち、なんで松理を隠してるの。なんで俺だけ松理と話していいの」

 こぼすように問う。
 いよいよ問わなければならないと思ったから。
 ツカサはずっと理由を知らなかった。
 流されるまま、彼女を隠してきた。
 けれど、彼女の存在を認めないなんて何か悲しくて、嫌で、
 ツカサだけは彼女と普通に接してきた。
 何を思って、両親は、それを許したのか。

「……危険だからさ」

 父が答えた。

「世界にとっても、彼女にとっても、彼女が外に出るのは危険だ」
「……」
「彼女をひとりにするのも、危険だ」
「なにそれ」
「詳しく知りたいなら本人に聞いてみろ」
「……じゃあ、そうする」

 ツカサはよろめきながら立ち上がって、ドアに向かった。
 ノブに手をかけたところで、一度だけ振り向く。

「母さん、……元気出してよ」

 ぱたんとドアを閉めた。
 無音。
 はじめて空調の煩さに気づく。
 廊下には熱気が立ち込めている。
 深く息をつく。
 まだ動揺が頭を満たしている。
 焦りが鼓動だけは速くする。
 ツカサはのろのろと階段を登り始めた。


2019年1月18日

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