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Fictional forest
「SavedA」

 彼女は食事をするとき、段ボール箱を膳代わりに床に座る。
 いわく、学習机は向き合って食べられないから嫌、だそうだ。
 以前、他にちゃぶ台くらい買おうか、と言おうとしたが、はぐらかされた。
 ――彼女のために物を購入してはいけない。
 ほかでもない彼女自身が、いちばん心がけていることだ。
 料理を一人前増やしてつくることもしない。
 分け与える。それだけだ。
 だからツカサもどちらかといえば少食だ。
 が、彼女のそれとは比にならない。
 一人前を分けるとして、彼女が摂るのは三割ほどだ。
 遠慮しているというより、それしか摂れないと言ったほうが正しい。
 彼女の身体が小さいのは食事が少ないせいだが、小さいが故に食べられる量も少ない。

 ツカサは彼女の座る反対側にあぐらをかいて、自分の作った夕食をつまんでいた。
 生活リズムがツカサと正反対の彼女にとっては朝食だが。
 目前にあるのは、同世代の少年ならこのくらいだろう、という量の、一人前だ。
 ふつうは食べ盛りだから、ふたりで分けてもじゅうぶん足りる。

「花火、母さんと行くことになった」
「じゃあ浴衣着ようよ?」

 味噌汁を吹きそうになってこらえた。

「じゃあってどういう脈絡」
「男だけだと映えないけど、お義母さん行くならありかなーって」
「映える? 母さんそんな美人じゃないけど……」
「おんなのひとはメイクでいくらでも化けるんだからねっ」
「否定してやれよ……」
「わたし嘘はつかないの」

 彼女が細い喉に食べ物を流し込んで微笑んだ。

「あのね、お義母さん、つきくんと浴衣デートできたら喜ぶと思うの。さいきん、元気ないでしょう?」
「……じゃあ買い行くかあ」
「今度の土曜日がいいよ。お義父さんが急におしごと入るの」
「わかった」

 話すうちに食事が終わって、ツカサは食器を下げに一度階を降りる。
 母はひとりで食事をしていた。
 ほんとうは食卓に全員揃えたらいいのだが、そうはいかない。
 寂しい思いをさせてしまう埋め合わせがしたい。
 ツカサはそんなふうに考えていた。彼女も同じだろう。
 食器を洗いながら、母に浴衣の件を伝える。
 なるほど彼女の言ったとおり嬉しそうで、安堵した。
 ついでに入浴を済ませてツカサは部屋に戻る。

 部屋の電気が消えていた。
 暗さに目をぱちくりして、ツカサは後手に戸を閉める。
 ベッド脇の窓辺。
 カーテンが開いている。
 そのたもとに彼女がいた。

「松理」

 呼び掛けるが反応がない。
 窓の外を見上げたまま。
 こうなるとしばらく帰ってこないのだ。
 ツカサは息をついて彼女の隣に座った。
 窓から見えるのは黒い町並みと夜空だけだ。
 このあたりは街灯が少ないので、窓からでも星がよく見える。
 彼女が外界に触れる唯一がこの時間帯のこの窓だ。
 昼間は一ミリだってカーテンを開けない。
 開けてはいけない。
 彼女はいつも言う。
 夜だけがわたしの世界だと。
 部屋の家具を藍色に統一したのは彼女が好むからだった。
 ツカサの瞳の色でもある。

 膝を抱えていた。
 闇に沈むといろいろなことを考えてしまう。
 彼女は夏の暑さでまた少し痩せた。
 いくら彼女の振る舞いが陽気だって、不安が耐えることはない。
 無理があるとは思わないか。
 十年もこうしてやってこられたのが奇跡だ。
 明日にも彼女はこわれてしまう、そんな気がする。
 とはいえ同じ思考を何年繰り返したかも知れないが。

「つきくん」

 ふいに彼女がツカサの肩を抱いた。

「だいじょうぶ」
「……うん」

 君が言うならそうなのだろう、君は完璧だから。
 ツカサはそう思うしかないのだ。

 まつりにはわからないことってあるの。
 遥か昔、そう訊いたことがある。
 彼女はやんわりと笑って、いっぱいあるよ、と答えた。
 たとえば、答えのないことには答えられない。
 人間が到達し得ない領域の知識が手に入ることもない。
 遠い過去や未来のこと、宇宙の成り立ちや、哲学や、神学に明確な答えは出ない。
 ツカサはそれまで彼女はなんでも教えてくれると信じていた。
 いちばん最初に教わったのは折り鶴の作り方だ。
 それから、幼稚園、小学校と、生活のなかのわからないことはなんでも教わってきた。
 だから少しだけショックだったのを覚えている。
 その時も、彼女は窓の外を見ていた。
 見ているだけで、外へ行きたいと言ったことはない。
 代わりにツカサを外に出す。
 明言されてはいないが、彼女はきっとツカサの経験を『実際に見て』いるのだろう。
 わかっている。
 ツカサもそれを見ているからだ。

 彼女がカーテンを閉めると、部屋はとうとう真っ暗闇になった。
 目を開けても閉じても見えるものは同じ。
 その視界の真ん中に、三色の光点がぱっとあらわれる。
 眩しさに目を閉じても意味はない。
 光点は、頭の中にある。

 彼女はツカサに夢を見せる。
 それは何者かによって認識されうるあらゆる情報、記憶だ。
 人が死ぬこともある。
 笑うことも。泣くことも。
 誰かの視点に乗って、ただ世界のすべてを傍観している――
 そういう夢だ。
 毎晩のことだったから、ずっとずっと後になるまで疑ったことがなかった。
 苦しいとも思わなかった。
 彼女と同じものを見ている。
 そういう喜びのほうが大きいくらいだった。
 けれどツカサと彼女では頭のつくりが違いすぎる。
 あるいは彼女がツカサに送る情報量をセーブしているのか。
 彼女には見えるすべての詳細が解るようだが、ツカサが理解できるのはごく僅かだ。

 ぱちん、と部屋の照明が灯され、ツカサは戻ってくる。
 一瞬だけ目がちかちかして、すぐに慣れる。

「松理はさ」
「うん?」
「花火、見たことあるんだろ」
「うん」
「修学旅行だって何回も行ったんだよな」
「うん」
「俺が行く必要、あるの」

 問うと、彼女はいつかみたいに笑って、

「つきくんは目がきれいなんだよねえ」

 だから、きみの見た世界が見たいんだよ、と。
 彼女がそう答えたとき、階下から玄関の開く音が聞こえた。
 父が帰宅したのだ。
 おーい、と呼び声がする。
 ツカサはベッドを降りて立ち上がった。
 行ってくる、とひと言伝えて、階段を駆け降りる。
 暑さにスーツを着崩した父が玄関で靴を揃えていた。

「おう、つきくん」
「おかえり。呼んだ?」
「ちょっと話があってさ」
「話」
「とりあえず着替えてくるから、母さんにこれ、渡しといてくれ」

 手渡されたのは書類の詰まったクリアファイルだ。
 自分で渡せばいいのに、何、と思いながらうなづき、ツカサは二階へ去る父を見送る。
 書類を抱えて探すと、母はドライヤーを持って洗面所にいた。

「母さん、なんか父さんがこれ見てくれって」
「ええ、何? 置いといてー」
「うん」

 ツカサは書類に目を通そうとしたが、難しい言葉ばかりでほとんど理解できない。
 そのままファイルをテーブルに置いて、少し待つと父が降りてくる。


2019年1月13日

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