Fictional forest
「Saved@」
「つきくん、おかえり!」
ツカサが二階の自室の戸を開くと、笑顔の彼女が出迎える。
長い髪をしていた。
みどりの目は大きくて、だから歳よりもずっとあどけない顔つきだ。
なにより彼女は、身体が小さかった。
四つ歳上の彼女の背を、ツカサは小学三年生で越してしまった。
「ただいま。松理」
返事をして、ランドセルを机の横にかける。
2005年7月――
変わらぬ日々が、続いていた。
湊松理はツカサが二歳のころ父に引き取られた孤児だ。
引き取られた、と言ったが、正式な手続きは踏んでいないから、法的には誘拐だ。
そもそも彼女には戸籍もなかったが。
ツカサはそんなことは聞かされず、彼女を姉と思って育った。
血の繋がりがないことは目の色から明らかだったので、気づけば知っていた。
気づけば知っていたので、彼女を姉と呼んでいたのは幼児期だけだ。
それからはずっと、たんに名前で呼んでいる。
「つきくん、もうすぐ夏休みだねえ」
ふいに彼女がのんびりと口を開いた。
視線は壁際にかけられたカレンダーにある。
日付はまだ7月に変わったばかりだ。
少し気が早いな、とツカサは苦笑を返した。
彼女は休みが好きだ。
休みがあればツカサがどこかへ遊びへ行くから好きなのだ。
「ああ、うん。そんな時期か」
「どっか、行かないの?」
「予定はないかな」
「じゃ〜いまから立てよう」
部屋はいつも締め切っているから、この季節は熱気がこもっている。
昼間じゅうここにいる彼女が体調を崩さないのが不思議だった。
冷房のスイッチを入れると、彼女が風の当たる位置に陣取って涼み始める。
陣取るといっても彼女は小さいから、ツカサはその隣で風の恩恵をじゅうぶん受けられる。
「どこがいいとかある?」
「ん。花火が見たいな」
「花火ってこの辺じゃやってないよな」
「遠出しようよ〜。休みのときくらいひめきを出ないと」
「遠出か……」
ツカサは冷えた床に寝転んで全身で冷気を取り込む。
窓を覆う藍色のカーテンの向こうから、かすかに蝉時雨が聞こえている。
「それじゃ帰るの、遅くなっちゃうな。ひょっとすると泊まりになるかもしれないし」
「……嫌?」
「まあ、ちょっと」
彼女がツカサにならって床にぺたんと背中をつけた。
ふたり仰向けになって、首だけをお互いに向ける。
「わたしはひと晩くらい大丈夫だよ?」
「飯とかどうすんの」
「なければつくる」
「うーん……?」
生返事で応じて、ツカサは顔を天井に向けた。
彼女は外のことを知りたがる。
それも、外に出ないからだ。
出たことがない。
少なくともツカサの知るうちは。
昼間はこの部屋で眠って過ごして、ツカサが帰る頃に目覚める。
入浴や洗顔で一階に降りるくらいが、彼女の生活でいちばん大きな外出だ。
昔はもう少し家のなかを歩いたような気もするが、すっかりこの部屋に居ついてしまった。
彼女の生活はもっぱらツカサが支えていた。
衣食住すべてにおいて。
彼女が着ているのはツカサが着古したものばかりだし、
食事はツカサが作ってここに持ってくる。
彼女も料理はできるが、部屋から出ないので必然的に機会が消えるのだ。
ツカサが長時間の外出を渋る理由はそこにある。
夏休み前ではあるが、当面、秋に待つ修学旅行がツカサのいちばんの懸念だ。
3泊4日も家を空けることになる。
ありえない。
彼女自身は土産話を欲して行けとは言うが。
「花火、つきくんも見たことないよねえ」
「うん、まあ大きいのは」
「じゃあ行こうよー」
こどもが駄々をこねるみたいにごろごろ転がりながら彼女が言う。
仮にも歳上だが、態度は昔からこんな感じだ。
こうなるとツカサが折れるしかないのがお決まりだった。
ちなみに、彼女がツカサの反対を押し切ったことで失敗したことは一度もない。
というより彼女の決定が間違っていたことがない。
それをわかっていても、ツカサの心労は絶えない。
「いつ?」
「近くだと二十日かなあ」
「終業式あるよ」
「うん、その帰宅時間が十時半くらい。花火は夜だから間に合うよ」
「待って、メモする……」
ツカサは床から起き上がって勉強机の引き出しを開ける。
メモ帳から一枚剥がしてペンを走らせる。
彼女が、地名、交通情報、開催時間をすらすら教える。
「片道三時間か」
「ぎり日帰りでいけるよ!」
「じゃあそれで、行ってくる」
「やった〜っ」
今度は嬉しさで転がって、彼女がふいにむくりと起き上がる。
ばらけてしまった髪を手櫛で整え、笑顔を見せた。
「まってるね!」
こう言われてしまえば後にはひけない。
ツカサは仕上がったメモを机の見易い位置に置いた。
スケジュールを頭にいれて、所持金を確認する。
失敗しない家族をひとり持つと几帳面になるのだ。
彼女が楽しみにしているのに、ツカサが電車を乗り違えたりしたらつらい。
以前、彼女にせがまれて友人と映画を観に行ったらチケットを忘れたことがある。
あれはつらかった。友人にも迷惑をかけたし。
「どのくらい人来るんだろ」
「祭にしてはあんまりかなー、こっちの市民祭のほうが盛り上がるかも」
「え、全然じゃん」
「そうなの、人来ないから来年からなくなっちゃうんだよ」
「ええーっ」
「もっと賑わうとこに行きたい?」
「いや、遠いんだろ。それに人いないほうがよく見えるだろうし」
「そうねえ」
彼女には何を問うても見てきたように答える。
『実際に見てきた』のだから当然だろうが。
何を問うても、というのがたいていは事実なので、
ツカサは彼女をしばしば質問攻めにした。
遠い国のこと、宇宙のこと、宿題の算数のこと、クラスのあの子のことまで。
だからツカサは常にふつうより少しだけ物知りで、成績がよくて、人付き合いがうまい。
いまではそれほど彼女に頼ったりはしないが。
だってくやしいじゃないか。
自分の力でできるものは自分でやりたい。
「じゃ、ごはんつくってくる」
「はーい、ありがとー」
彼女を部屋に残して一階へ降りる。
リビングからテレビニュースの声がしていた。
熱中症で何人が搬送とか。
そんな季節になったな、とおぼろげに思いながら扉を開ける。
人工の冷気を全身に浴びて息をつく。
「母さん、キッチン借りるよ」
ソファでテレビを眺めていた母に声をかけ、慣れたままキッチンに歩む。
「きょう父さんごはんいらないってー」
「あ、はーい」
リビングからの母の声に返事をする。
母は専業主婦だった。
ツカサが料理をするようになってから、この時間はいつも暇そうにしている。
このごろは父の帰りが遅いのも原因だろうが。
暇になるのはありがたいけど、やりたいことがないんだよね、と溢すことが多い。
いろいろと趣味を見つけようと試みているが、まだ見つからない、らしい。
無気力で、無気力であることへの焦りだけは大きい。
そういう人だったなと、思っている。
「つきくーん」
「なに」
「夏休み予定ないのー」
みんな同じことを聞くな。
ツカサは苦笑しながら鍋を火にかける。
「花火行きたいんだよ」
「花火? どっかやってるの」
「ちょっと遠出だけど。二十日。来る?」
「じゃあ父さんに内緒で行っちゃおうかな」
「いいんじゃね、行っちゃえば」
「きまりー」
母の声が応えた。
ツカサは母と仲が良かった。
反抗期がないと言われていた。
それはおそらく、彼女がいたからだ。
彼女はあまりにも完璧だったから。
彼女に比べれば、両親はあまりに不完全で、ふつうの人間だ。
最初から、彼らは自分とおなじ立場にあるいち人間であると認識していた。
親への執着というのがある意味で薄かったのかもしれない。
それに、母の性格上、むやみに子供扱いされることも少なかった。
ずっと対等だった。
感謝すべきことだ。きっと。
そうして、部屋のカレンダーに丸印をひとつつけた。
それが、ツカサがカレンダーを使用した人生で最後の日だ。
2019年1月11日
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