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Fictional forest
「回顧」

 あのひとがわたしを傍に置く理由は解っています。
 わたしという存在が、あのひとにとって、そしてこの世界にとって、想定外だったから。
 計画がずれてしまうリスクがあるから。
 ただそれだけなのだと、解ってはいるのです。

 海辺に座って過ごした日々を懐かしむ時間はありました。
 主観にして、まだ四年。
 それがどうしてこんなに遠いのか、その答えはいくつかあるでしょう。
 ひとつ、あのひとによって物理的に記憶が押しやられている。
 ふたつ、ここにはあの頃を想起させるものが少しもない。
 みっつ、この思い出がとっくに実体をうしなっている。
 ――挙げるほど傷が深くなるので、このくらいにしておきましょう。
 こんな、過去を思うだけの簡単な自傷行為について、少しだけ弁明します。
 生ぬるい仮想空間に漂う日々は退屈ですから。
 こんな建設的でない思考にばかり時間を割いてしまうのも無理はないでしょう?

 ありもしない思い出の果てに立っている。
 わたしが何者か、という問いへの答えを用意できるひとはいまやいません。
 昔もいなかったはずですが。
 いまになって寂しがるのもおかしいですか。

 強いて言えば、化け物と呼ばれることがありました。
 強力な力を持って生まれたら、よくあることでしょう。
 あるいは、殺されなかっただけ幸福かもしれません。
 少しだけやっかいな立場で生まれたものですから、殺す名目を立てにくかったのです。
 だから、ただ人里を離れ、隠れること、それだけで生を許されることができました。

 認識した事物を消失させる。
 力の性質上、わたしは目を塞いでいるのがもっとも安全です。
 見てかたちを捉えられなければ、少なくとも人間をまるごと消す事態は避けられますから。
 よって、長らく、わたしは盲目で生活していました。
 つまり、介護者が不可欠でした。
 わたしが無人島へ送られるとき、介護者につけられたのはひとりの罪人で、
 それは事実上、彼と、わたしの死刑を意味していました。
 わたしがうっかり自らの介護者を消してしまえば、
 もう、幼子のわたしに生きる術はなくなります。
 殺すのは忍びないから、どこか遠くで勝手に――なんて。
 大人たちは、恐怖にかられた人間は、そういうやり方を選んだようでした。
 わたし自身は感謝しています。
 実際、その選択のお陰で、わたしはこうして生き延びているのですから。

 介護者につけられた彼が最初におこなったのは、わたしの目隠しを外すことでした。

「消したいならぜんぶ消して良いよ。どうせ未来はないから」

 はじめて言われた言葉がそれで面食らったのは、
 わたしの体感でいまから七か八年前のこと。

 結果はおわかりでしょう。
 彼は消えたのです。
 わたしの体感でいまから四年前のことでした。
 むしろそれまでもったのが奇跡だった、と言ってしまうのは安すぎますか。
 安すぎますよね。
 けれどそう言ってしまいます。
 島での数年間が、わたしにどれほどの傷跡を遺したか、
 どれほど大切だったか、
 それを語る日は来ませんから。
 もう決めたのです。
 わたしは、誰にも、何も、言うことはない。
 だって、わたしの居た島も、毎日見ていた海も、遠い地平線も、
 そのひとかけらすら、今はどこにも無いのですから。
 わたしがこの手で消したのですから。

 気づいたらこの森で息をしていました。
 波の音がしない。
 それだけで、もう死のうとすら思ったのが、三年前のことです。
 あのひとが、わたしに笑って手を差し伸べました。
 わたしは慌てて目を塞いで、その声を聞いたのです。
 小さくて、響かないのに、やけに耳に残る、そんな声でした。

「きみ、名前は?」

 名前。
 名前なんて、島に来てから使ったことがありませんでした。
 ずっと二人だけだったからです。
 でも、そうか、もう名前が必要になってしまった、
 それなら名乗らなければならない――
 わたしは彼の名を使うことにしました。
 『伊田紫月』は、わたしと、彼の名を合わせたものです。

「強い力があるんだね。待っててね、すぐ抑えるから」
「……おさえ、る?」

 あのひとが大きく息を吸って、

「成くん出番だよー! 来てーこの子目え覚ましたー」
「え! ちょっと待って」

 別のひとりの、草を踏む音、それから、なまぬるい風。
 素直に、不思議な場所だと思いました。
 それに彼らは何者だろう、とも。

「えっと、大丈夫か?」
「あのね、この子、ちょっと発作が起きやすいみたいで、対策なんだって」
「あーそういうやつか。湊さん、なんか紙ない?」
「葉っぱでいい?」
「じゃあ、それ」

 少しして、わたしは一枚の葉を手渡されました。
 もう大丈夫、そう言われて、半信半疑で目を開きます。
 ただしうつむいたままで。
 足元は背の低い草に覆われていますが、青い匂いはまったくしません。
 ものは試し、足元の草に集中して力を使います。
 ――ところが作用しません。
 わたしはやっと顔をあげてふたりを見ました。
 みどりの目の少女と、彼女に連れ添う赤い目の少年。
 少女のほうはわたしと変わらぬ歳に見えますが、はるかに年上なのだそうです。

「それ持ってるうちはとりあえず平気。ちゃんとしたのは後で作るから待ってろ」
「いま行っていいよ、成くん」
「まじ? ……そっか。じゃあお言葉に甘えて、席外すよ」
「またあとでね」

 少女と短い会話をして、少年がどこかへ駆けてゆきました。
 夜色の光の霧に、その背が消えて行くのを、ぼんやりと眺めていました。
 残った少女が、状況を飲み込めないわたしに、目を細めて言います。

「ねえ、しづくん」
「……わたし?」
「ほかに誰もいないよ。あのね、きみにお願いがあるの。まだ落ち着かないだろうから、ゆっくり考えてほしいな」

 そう言って、あのひとは――
 罪深いわたしを、この森に磔にすることを、決めたのです。
 なぜ、あのとき、頷いてしまったのか、
 あるいは頷かない選択肢なんて存在したのか、わたしにはわかりません。
 目を開いていても何も消さなくて済む、そんな視界を取引に出されたのですから。
 あるいは、わたしはあのひとに同情したのかもしれません。
 わたしと同じ、隔絶された孤独の異能者として。

 2006年。
 わたしは、はじめて降り立ったこの世界で、
 はじめて歩いた科学の街の片隅で、
 はじめて得た安全な視界を持て余して、
 うしなった故郷を少しずつ忘れてゆきながら、
 また恩人に同じ傷を負わせ、生きてゆくという、
 罰を受けることとなりました。

「わたしの過去を消してほしいの」

 覚えていますか。
 わたしの力で消すには、わたしが対象のかたちをはっきりと認識しなければならないということを。
 認識の定義は曖昧ですが、他者の記憶など、とうてい消せるわけがないと思いませんか。
 けれど、あのひとは、
 あのひとの力の前には、そんなことは問題にもならなかったのです。
 わたしは示されるままにあのひとの記憶を閲覧し、そのすべてを消去しました。

 過去というものが本当に存在して、それがどこかに保存されているとして、
 それを際限なく読み取り、拾い上げることがあのひとにはできるとして、
 それでもわたしの消したすべてだけは、どうしても誰にも拾えないとして。
 だとしたらわたしが覚えていなければならないのです。
 遺しておかなくてはならない。
 あの島も、海も、あのひとの記憶も、その想いも、ぜんぶ。
 ぜんぶ、わたしの貧弱な脳内にしか存在しない幻想なのですから。



2019年1月22日

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