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Fictional forest
「それから幾重の日のこと」

 理解はしている。
 ほんとうのことはわからないのだと。
 思い込みだけが、ぼくの認知する現実だ。
 思い込みには材料がいる。
 記憶をつくりだす記憶という材料が。
 なまじそれらには事欠かない立場だから、歯止めがきかない。

 とっくにあきらめたよ。
 ぜんぶぼくのせいだ、そう思っていればいくぶん気が楽なだけだ。
 そういうじぶんが嫌になることにだって疲れてしまった。

 ただ謝らせてほしい。
 きみがありもしない罪を負ったことだけは、まず間違いなくぼくのせいだろうから。




 ウミの後頭部に氷枕を当ててソファに寝かせ、ツカサはその傍らに腰を下ろした。

「大事があったら医療費はもつよ。市内の病院なら、ご両親にも隠せるから」
「ああ……、はは、権力ありますね。じゃあ、頼みます」
「うん。気分は?」
「最悪ですよ。寝不足だし、低気圧だし。まだ酸欠っぽくて」
「水とかいる? 寒くない? 少し寝てもいいよ」
「いいですって。それより……いろいろ聞かせてください」

 ウミが天井を仰いだまま言った。
 静寂を挟んで、ツカサがうなづく。
 面前に置かれた液晶テレビが、かすかにみどりを反射していた。

「なにから聞く」
「『解除』って、なんです」
「君、異能のことわかるっけ」
「わかりません。じゃあ、そこから」
「俺は――」

 ぽつぽつと言葉を吐く。
 相手が一度殺し損ねた相手だからか、『解除』のお陰か、息はつかえなかった。
 不思議な力を使う人がいるということ。
 ツカサは言葉によってできごとを動かせるということ。

「ずっとな、力で、俺、かならず死ぬことにしてたんだ」
「……」
「秘密を守ってて。誰かが真相に気づく前に俺が死ぬ確率を、十割にしてる」
「それを、やめちゃったってことですか」
「まあ一時的に、な」

 ツカサは膝を抱えてうつむく。

「痛いからさ。身体中痛む。これが出るときって、秘密がばれそうになるときって、他人が原因じゃないんだ。原因になるような他人が出ないようにやってきたし、出たら殺すからさ。さっきみたいに」
「……俺の勘がいいから殺そうとした?」
「うん、そう。でも」

 ウミは天井を。
 ツカサは床を、ずっとみつめていた。
 視線の交わらないなかで、かすれた言葉だけがつづいていた。

「言いたくなっちゃったから。ウミ、やさしいんだ。殺そうとしたのに俺の心配するし。君になら言っても大丈夫かもって、思うじゃん……俺が言いたくなったときだ。いちばん死ぬ確率が高まるのって」
「……死にたくなかったんですね」
「わかんねえや。痛いから、必死だっただけかも。鎮痛剤、すぐには効かないし」
「鎮痛剤で収まるもんなんですか」
「特効薬らしい。園にもらったんだけど……」

 ツカサはふっと言葉を切る。
 副作用か、悪心が続いている。
 胸をおさえ、しばらく歯をくいしばって息をする。
 床の模様をにらむ。

「団長、大丈夫ですか」
「ウミがそういう風だから大丈夫じゃないんだ」
「そっか。俺がうっかりたすけるとか言っちゃったからってことですね」
「そうだよ……」
「言いたいなら言って殺せばいいのに」
「…………」

 ツカサはしばらくしてトイレに駆け込んだ。
 胃液を戻すと、もとより掠れた喉がひりひり痛む。
 副作用が出ている以上、作用すべき標的があるべきだろうが、
 解除した力をもとに戻す気も起きなかった。
 どうせ、キッチンの床の水が乾いたらまた痛みが戻ってくるのだ。
 言葉なんて、それほど儚い。

「ウミ、なんで俺をたすけようとか思ったんだ」

 キッチンに戻り、痛む喉にかすかに水を与えながら。ツカサがリビングにいるウミへ問う。
 また吐いても嫌なので、ごく少量の水をゆっくりと飲み込んで、コップを置く。
 ことん、という物音を合図に、ウミが口を開く。

「……俺、死のうと思ってて。そしたら、急に現れて、楽しいとこ連れてってくれて。誰だって恩返しはしたいと思いますけどね」
「……」
「甘いんですよ団長は。軽々しく人を救ったら、こういうことになるんですから。深く関わるのが嫌なら、みんな突き放せばいいんだ」
「……学んだよ」

 答えながらツカサはまた同じ位置に座り込んで、同じようにうつむく。
 沈黙が過ぎた。
 雨が勢いを増したのか、ざあという音がここにもかすかに響いてくる。
 液晶テレビの黒が、いやにまぶしい蛍光灯にあらがう。

「ねえ団長、俺たちって、おんなじですね」

 ふとウミがつぶやいた。
 ツカサに語りかけるというより、独り言に近い口調で。

「俺も、そうなんですよ。誰にも言えるわけないし、言わないのは自分なのに、誰も気づいてくれないって毎日腹を立ててる。じぶんが死ねば、言わないままでも楽になれるから、すぐ死を考えるんです」
「……うん」
「でも基地にいれば楽でしたよ。騒いでれば死ぬことなんか考えなくて済む」

 乾いた笑いを含んだ懺悔が天井をただよって霧散する。

「団長は俺の命の恩人ですよ。ま、消してもらっていいくらいの命ですけど、だから」
「だから?」
「苦しいんなら、言ってください」

 ああ、なんでだろうなあ、とツカサも一時、天井を仰いだ。
 ウミがツカサを慕っていることはもちろん感じていた。
 ただ、あくまでも適度な友人としての話だ。
 いったい彼のどこに、ツカサをそこまで必死に救わんとする意志が眠っていたのだろう。
 わからない。
 真実はわからない。
 悪夢障害のこどもは特に、夢うつつを区別しにくいらしい。
 彼はもしや、ツカサを救いたいというゆめを見てしまったのかもしれない。

 ツカサはじわり、と全身に戻り始めた痛みを知覚する。
 ああ、と思う。俺はこれで死ぬのかな。
 だったら。
 口を閉ざして、閉ざし続けて終わってしまうくらいなら。
 吐いて、果てた方が――

「っ……うっ……!」
「痛いですか。解除、終わったんですかね」
「……うみ……おれは」
「あ。ここで死ぬのは勘弁です。もう何も背負いたくないんで」

 思わず開きかけた口を閉ざした。
 もう何も背負いたくない。
 ――まったくそのとおりだと思ったからだ。
 だから、ツカサはここで死んではいけない。
 ただ痛みを抱いてうずくまる。

「団長、俺はただ、基地がのんびり続いて、団長も死から離れてくれれば、それでいいんですけど。無理そうですか」
「……、無理……だ」
「断言ですか」
「正直さ、俺が、生きてられる気がしないんだよ」

 遠くで雷鳴がする。
 雨足は強まるばかりだ。
 こんなときにも、ツカサは基地の心配をした。
 テントは無事だろうか。
 数年のあいだ、台風のあとなどは、何回か修理をしたものだが。
 そちらに意識が行くと、たちまち痛みが和らぐ。
 会話に思考を戻せば、同じ速度でもとに戻る。

「言いたいし。探る奴も後をたたないし。そもそも、もしかしたら、もう知られてるのかもしれない」
「やっぱり高橋なんだ」

 ウミの返答は早かった。
 確信をともなっていた。

「なんでそう思う」
「団長だって、基地は神域でしょうよ。あなたがあの場所を壊す決断をしたなんて、相当な理由がないと」
「……」
「殺さないんですか。高橋は」
「あんまり軽く言うな。……まだ様子見」

 ツカサの背後で、ウミの身体を起こす気配があった。
 ソファの軋みが、雨に閉ざされたリビングに大きく響く。
 ウミはツカサの傍らに膝をついて覗きこむ。
 底知れない、ただ澄んだ蒼の目だ。

「軽いのは団長でしょ。俺は嫌です。団長が死ぬかもしれないのに、様子見とか」
「……ウミ、それは」
「『森に近づいてはならない』」

 ツカサの言葉を遮って、ウミはぴしゃりと言った。
 セイの携帯端末に残された唯一の文面。
 ツカサが、シヅキから言われ続けていたこと。

「団長、この言葉で動いたんでしたね。俺もこれ言われたことがあるんです。無関係じゃないですよね」
「言われた……? 誰から」
「もう居ないひとから」

 ざわ、と胸に感触があった。
 痛みとはまた違う。
 精神的な動揺からくるものだ。
 彼は――本当にツカサと同じだ。
 あまりにも、同じだ。
 それこそ夢かと疑うくらい。

「団長、行きましょうよ、森に」
「……えっ」
「どうせ捨てたい命でしょ。そこに全部があるんだったら」
「い、いや……っ! 待ってウミ、駄目だ!」

 ツカサは勢いのまま傍らのウミに掴みかかった。
 倒れ込んだウミが身をよじる。

「ちょ、いた、痛い」
「あ……悪い」
「……団長、森の何を知っててダメって言うんです。森に行くって、つまり自殺ですよ。行ったことあるんですか」
「それはっ……ない、けど」

 ウミの表情から、すっと温度が消える。

「じゃあ信じてるんですね。近づくなって命令のこと。それがあったってこと。羨ましいな」

 雷雲が近づいている。
 カーテンの隙間から、ちか、と光が届いて、どこかで爆音がする。

 雨って、好きじゃないんだ。
 だれかの声が耳につく。
 違う。思い出しただけだ。
 雨が降ると夜空が見えないから。
 夜だけが、わたしの世界だから。
 そう言っていたことがあった。
 あのひとは。
 もう。

「俺は信じられないです。じぶんの記憶なんて、ちっとも信じられない。森はダメって言われた気がするけど、俺が覚えてるだけの彼奴が、夢じゃないって誰が言えるんだ、俺しか覚えてないのに」

 ウミが、せきを切ったように言葉をこぼす。
 ツカサは震えて聞いていた。
 遠い雨を聴いていた。
 きょうは夜空が見えない。
 そのことが急に胸につかえて、息が苦しい。

「忘れたら終わりですよ。終わりですけど、思い出してるのがほんものかどうかだって、わかるもんか。都合がいいんです。俺だけの過去なんて。誰にも言わないのは、言ったら都合が悪くなるからで」
「……やめて」

 忘れない。
 彼女を忘れない。

 幾日、百、千、万と綴った文字が、
 安っぽい紙の色が、
 脳裏に羽を広げて、飛び回っている。
 おまじないは日に一羽。
 綴る中身はいつも同じで。

「団長、確かめたくないんですか。都合のいい妄想を信じて、苦しいままでいいんですか。俺は確かめに行きたいです。森には、きっと全部、あるはずだ」
「やめろって!!」

 叫んだ、刹那、痛みが臨海点に達した。
 声も出せず、震えて伏せる。
 ウミが、ツカサをじっと見下ろしていた。
 長く息をつく音。
 それが嘆きか、呆れか、はたまた安堵かは、ツカサにはわからない。

「今回の殺人未遂の慰謝料ですけど、」
「……」
「命で。きっちり払ってください。死んじゃ駄目ですからね」
「……う、み、」
「それじゃ、もう帰ります。俺がいたら団長死にそうだし。……おやすみなさい」

 外は冷たい豪雨だというのに。
 ウミは黙って鞄を持って立ち上がる。
 その折、彼の着ていた上着を一枚、床に倒れたままのツカサにかけて行った。
 まだあきらかに弱々しい足音が遠ざかる。
 玄関口から、鍵と、扉の開閉音が聞こえて、それきり静かになった。


2019年1月6日

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