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Fictional forest
「浮かぶ背、君のあと」

 その教室にはいつもひとつだけ空席があった。
 不登校がいたとか、そういうことではない。
 出席簿では36人のクラス編成。
 37個目のその机は、窓際にちんまりと置かれている。
 たぶん、いまもずっと。

 ひめき市立西小学校は、原則、放課後に児童が居残ることを許していない。
 終業は午後二時半。
 一時間後には教師が見回りをして、各教室を施錠することになっている。
 ただひとつの例外を除いて。
 ――五年四組。
 37人目の生徒が、夕刻の教室にひとり現れるらしい。
 というのは、一種の七不思議とか、都市伝説として、校内でにわかに語られた話だ。
 誰かが、こっそり終業後に忍び込んだことがある。
 聞けば、鍵が空いていたのだと言う。
 もちろん、誰がいたわけでもなかったし、たまたまかもしれないのだけれど。
 五年四組にいつも置かれている37個目の机に関する噂はあとを立たなかった。

 福居湖は36席目にいた。
 窓際から二列目のいちばん後ろ。空席の隣。
 その頃からほとんど学校に来なくなっていた。
 テストがあるとか、行事、係決め、そういう特別なことがない限りは欠席する。
 あいつはぶきみだ。
 幾度そう言われたか知れない。
 いや、正面切って言われたことはないが、こちらが勝手に察してしまうのだった。
 あいつはぶきみだから、あの席なんだ、とも言われた。
 よけいに教室から足が遠退いていた。
 友達もいないし、教師も匙を投げたし、親とは距離があって話し合いもままならない。
 そんな中では、部屋で本を開くしか、ウミにできることはなかった。

 その日は、確か、夏休み前の遠足の班決めがどうとかで、学校に行かされたのだ。
 遠足なんて行くわけもないし、勝手にしてくれ。
 そう口にも出せず、文庫本を開いてホームルームをやり過ごしていた。
 昼に登校して、さわがしい午後をどうにか終えて、終業の鐘が鳴って。
 さあ直ちに帰ろうとランドセルを持ち上げかけたとき、教師から声がかかった。
 話がしたい。別室に来てほしいと。

「悪夢の話ですか」目を見ず、ウミは立て続けに答える。「話せることないです」

 そのまま背負ったランドセルの紐を掴まれた。
 これ以上反抗して面倒ごとになるのも嫌で、ウミは黙って教師についていくことにした。
 小会議室に通される。
 何人かの大人が、適度にカジュアルな格好でウミに微笑を向けていた。
 専門家です。あなたの悩みを聞かせてください。
 丁寧な口調で促されたが、ウミはそこで頷けるほど素直でない。
 どちらの専門家ですか。そう聞いた。
 市政ですか、精神ですか、教育関係者ですか。
 俺の何を探りに来たんですか。

「ぜんぶです」
「……ぜんぶ」
「市の職員で、教育関係者で、カウンセラーです。あなたのどんな悩みも、一緒に考えることができます。担任の先生にも、親御さんにも秘密にできますよ」
「そう……じゃあ夢の内容を聞き出しに来たんですね」
「ええ、そうなります」
「嘘はつかないんだ」
「あなたに嘘をついても、すぐにばれると聞きましたから」

 ウミはたっぷり数分間、考えて、いくつか質問をした。
 悪夢障害について、調べ回っている大人がいることは、何度かこういった接触があって知っている。
 治療法を見つけるために研究をしているらしい。
 問いかけたのは、ほとんどその確認作業だ。
 だってあやしいだろう。
 病気の研究を、なぜ医療関係者でなく、行政がおこなうのだ。
 こどもに多いと言うから、教育関係者なら、まだわかるが。
 その大人が答えたことには、「この町だけの病気だから、この町の問題なんです」。
 嘘ではなさそうだった。
 少なくともその人はそう信じているらしい。
 そうして、折れて、話をすることにした。
 もとより隠す理由もない。
 夢の内容を細かく説明する。
 幸い、ウミは読書家だから、語彙に詰まることもなく話が進んだ。

 ――白。
 白い花を見ている。
 ずっとそうだ。
 光さす窓辺。
 花が揺れると、窓の向こうで景色が揺らぐ。
 人が死ぬこともある。
 笑うことも。泣くことも。
 窓辺から世界のすべてを傍観している――
 そういう夢だ。

 話し始めると飛ぶように時間が過ぎた。
 最終下校時刻を過ぎて、ウミはやっと解放される。
 話してくれた礼にと、内緒でもらったお菓子をもて余しながら、教室に戻る。
 荷物が置き去られていたからだ。
 荷物を持たせると強引に帰りそうだからか、教師が置いておくように指示したのだ。
 五年四組の教室。
 さすがに鍵は開いていた。
 西日はささない、南向きの窓から、遠く家並みが見える。
 無人のさなか、ウミは自席に無造作に置かれた黒のランドセルを掴む。
 やっと帰れる、と息をついた。
 そのもっとも気の抜けた瞬間に、声がかかった。

「よっ。見たぞ」

 驚いてランドセルを取り落とした。
 よりにもよってクラスメイトと遭遇したようだった。
 げんなりしながら振り向くと、快活そうな短髪の少年がきょとんとしていた。

「鞄落としたぞ?」
「わかってるよ……」

 よいしょとランドセルを背負い直して、じゃあ、とだけ言って去ろうとする。
 と、また紐を掴まれた。

「おいおい待て」
「……何か用? ていうか誰」
「おまえー、そんな態度してっから友達いねーんだぞ」
「からかう用なら帰るけど」
「なんじゃその返答、クールだな」

 楽しそうに言われても、苛立ちさえ覚えなかった。
 いいからその手を離せ、と鞄を引っ張ると、あ、悪いと言って彼が大袈裟に両手を上げる。
 かと思えば、そのてのひらを上にしてずんと差し出してきた。

「……なんだよ」
「だから、見たぞっ。お菓子! 貰ったんだろ、口止め料に分けてくれよー!」

 はあ、そんなことか。
 ウミはポケットからつい先ほど渡されたばかりの菓子を抜き出して、少年に手渡した。
 少年は大袈裟にガッツポーズをして喜んだ。
 うるさい奴だな、とだけ思って、ウミは踵を返す。

「あ、ウミ!」

 急に名を呼ばれて、一歩だけ廊下に出たままちらりと振り返る。
 少年が、開かれた窓の桟にあぐらをかいて、笑っていた。

「おれはジュン。口止め料に覚えとけよ!」

 口止め料と言えばなんでも許されると思ってないか、こいつは。
 呆れながら、ウミは答えず、まっすぐ家路についた。

 幾日して、参加しなかった遠足も終わり、一学期の終業式の日、ウミは登校した。
 朝から、なんとなく、彼の姿を探していた。
 むろん見つけても関わりたくはないが、なんとなくだ。
 空席はひとつ。
 つまり全員出席している。
 だと言うのに彼は見当たらない。
 別のクラスだったか。
 お菓子のためだけに、他クラスまで押し掛けたらしい。
 見上げた執念だ。
 ぼんやりと思いながら、教師の語る長期休みを過ごすうえでの注意事項を聞き流す。
 通知表が配られ、大掃除を終え、号令がかけられて、夏休みがはじまる。
 さっそく遊びの予定を大声で話し合いはじめるクラスメイトを尻目に席を立つ。
 と、また担任が近寄ってきた。

「福居くん」
「……はい?」
「ちょっと職員室に寄って。すぐ済むから」
「はあ。はい」

 生返事をしてついていく。
 渡されたのは一枚のプリントだった。
 タイトルは「夏期休業中の補講のご案内」。
 聞けば、不登校のウミのため、特別に補講をしないかという話だった。
 うんちくはいろいろ言われた。
 この時期の勉強は怠ると生涯の損失だとか。
 専用なので他の生徒はいないから心配はないとか。
 ウミに勉強意欲がないというわけではないだろうからとか。
 最後についてはなんの根拠があって決めつけたのかウミにはさっぱりである。

「いいですよ。行きます」
「あ、本当? 親御さんの許可とか、夏休みの予定とかは」
「親うちにいないし、予定もないです」

 ウミは二つ返事で受けた。
 ずっと部屋にいるのも、正直言って息が詰まるのだ。
 くやしいが教師の言う通りで、他の生徒がいない場所で勉強ができれば御の字だと思う。
 良い教師に出逢ったことがあった。
 学校を嫌うウミにとっても、それだけは確かだ。

 夏休み。
 ウミは担任の出勤日に合わせて補講に通った。
 場所は五年四組の自席。
 ひとつ前の机に教師が座り、向い合わせにして、教科書を開く。
 マンツーマン。塾形式だ。
 とはいえ、ウミが勉強に苦しむことはそうそうなかった。
 勘がいい、というのは、つまり、法則性の理解に長けるということだ。
 法則性に従った事象の先を見通せる。
 従わない事象には違和感を覚えることができる。
 少なくとも小学校レベルの学習では、ウミの勘は非常に役に立った。
 八月上旬にして、ウミは補講の全課程を終えた。
 義務でもない仕事をしてくれた教師に、一応と感謝を述べると、いたく感激された。
 それからまたお菓子をもらった。
 夏休みだからいいんです、と言われたが、いいわけがない。
 とりあえず押しいただいて、ウミは職員室に戻る不真面目な教師を見送った。
 開け放たれた窓の外で蝉が鳴いていたことを、よく覚えている。

「ウミ」

 呼ぶ声がした。
 まさかな、と思って振り向くと、そのまさかだった。
 快活そうな少年が、にやにやしてこちらを見ている。

「いいよ、あげるよ」

 ウミはなにか言われる前に菓子を渡した。
 なまぬるい夏風に彼のシャツがはためいていた。
 彼は、いつも窓際にいた。

「まじで! よっしゃあ!」
「もらいに来たんでしょ」
「まあな」

 さすがにおかしいことは、とうにわかっていた。
 夏休みだ。
 校庭は遊び場として解放されているが、校舎内は一階のトイレ以外、原則立ち入れない。

「ジュンって、37番席の幽霊なのか?」

 帰り支度をしながら問う。
 彼は窓辺にあぐらをかいて、行儀悪く菓子の袋を開けて笑った。

「ついにばれちゃったかー」
「で、本当は何?」
「おう。まあ、なんだろうな」

 彼はもぐもぐと菓子を頬張りながら、威勢のいい声で喋る。

「おまえの夢を追ってんだよ」
「……市政の人?」
「あのとんちんかん共と一緒にすんなって。おれは、『傍観者』のことを調べてる」

 菓子の咀嚼音がなければ真面目な会話なのだろうが、やけに気の抜けたようすで彼が言う。
 ――傍観。
 ウミはどきりとして、窓辺に花を幻視した。

「にしてもこの町はすげーな。いままで色々巡ったなかで一番その辺は進んでる。まあだいぶとんちんかんだけ、ど!」

 包装の塵を、彼が振りかぶって投げる。
 ふわふわと空気抵抗に押されながらも、塵はきれいにゴミ箱の真ん中に着地した。
 素直に感心して、すげー、とだけつぶやく。
 が、菓子の塵を学校のゴミ箱に捨てるのはいかがなものだろうか。
 気にとめるようすもなく、彼が話を続ける。

「悪夢障害ー、だっけ? それがさ、こどもに多いって言うから小学校に潜んでた訳。そしたらおまえが来たんで、いやー待ってたー! って感じ。なのにおまえぜんぜん学校こねーからさあ、苦労したぜ」
「……そりゃ悪かったな」
「菓子でチャラだよ! やっぱおれも舌は子供だからさー」
「舌はって。実年齢は」
「11! 舌は3だが。ウミも五月生まれなら同い年だろ?」
「俺のこと、どこまで調べたんだ」
「おー、それがもう終わったんだよ。だいたいおまえが一年生のときに済ませたんだが、残り、夢の内容だけはどうしても聞きたくて」
「……」
「待ってたぜ。あの市政の奴らに口割ってくれてまじ有り難いわ」
「なんで、いまになって、話しかけたんだ」

 そんな、何年も前から見ていたのなら、なんで、友達になってくれなかったんだ。
 そう思っていたのは、ここだけの話だ。

「おれは幽霊だからなー。おまえ、幽霊と仲良くなったらますます友達いなくなるぞ」
「……そうかよ」

 答えて、鞄を背負う。

「あーおい待て」
「まだなんか用」
「ひとつ言っとくが」

 ウミは抵抗なく足を止めた。
 帰りたいよりも、彼への興味が勝っていたからだ。
 彼は窓枠からベランダへひらりと降りて、そのまたさらに遠くをまっすぐ指差す。

「おまえはぜってーアレに近づくんじゃねーぞ!」

 口の端に食べかすがなければ凛々しい宣言口調だった。
 教室の窓の向こう、少年が夏空を背負って立っている。
 そういう風に見えた。

「んじゃな。菓子、ゴチになったわ」

 それだけ言って、彼は――
 手すりに片手をついて、跳んだ。
 向こう側に。

「えっ……?」

 止める間もなかった。
 人生であれほど全力で走ったことはない。
 たかが教室を横断してベランダに出るだけの数メートル。
 絶対に間に合わない。
 彼は、目の前で、引力にさらわれて消えた。

 ベランダに出ると、真夏の直射日光が頭を焼いてくらくらした。
 立ち眩んだ視界が一瞬、真っ白になって、数多の景色が脳裏を過ぎて、吐き気がした。

 記憶は不確かだ。

 届かず、目の前で、彼が落ちていったという記憶もあるのに、
 じぶんがこの両手で突き落とした、そんな感覚が消えない。
 事実はまったく騒ぎにもならなかったのに、人の悲鳴を聞いたような気もするし、
 彼は消息不明となったはずなのに、彼の死体が目蓋に焼き付いて離れない。
 出来の悪い合成写真ほど、強烈に印象に残ったりするものだ。
 あれに近い。
 幾多の悪夢と、彼という不可解を、ウミは重ねて見ていたのかもしれない。
 ただ二回、菓子を渡しただけの相手だ。
 が、ウミの頭の中には、人生に入りきらないほどの彼との『思い出』が存在する。
 わからない。
 真実はわからない。
 彼の存在ごとウミの妄想で、暑さにやられて見た夢だと言われても、信じるかもしれない。

 下の名前はジュン。漢字は不明。苗字も不明。行儀の悪い11歳で、菓子を好む。
 彼は、いつも窓辺にいて、遠景を背負って笑った。

 ただ蝉が鳴いていた。
 間違いなく、そのとき、蝉が鳴いていた。
 ベランダで動けなかったウミのもとに、血相を変えて飛んできたのは担任だ。
 違う、いろいろ違うんだと説明しようにも、混乱して言葉が出なかった。


 それ以来、小学校へは、一日も行っていない。



2019年1月4日

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