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Fictional forest
「ぼくらの夢のうつつ」

 夕刻、解散の時間になって、基地の面々はぞろぞろと出口へ歩いた。
 昼過ぎから降りだした雨で、路面が黒ずんでいる。

「高橋お前、そろそろちゃんと予報見ろよ」
「はは、そうする。傘ありがとうな」

 ウミの貸した折り畳み傘を差したセイが寒そうに笑う。
 ウミはというと、常備している折り畳み傘のほかに長傘を持参していた。
 にわかでない雨のときはそうする。
 二本持ちになるのは、単純に鞄からいちいち傘を出すのが面倒だからだ。
 それが役に立った。

 駐輪場へ向かったソノを待ちながら、ウミは傘を持たない方の手で鞄を持ち直す。
 本を入れていると、やはり重いのだ。
 もう本を持ち歩く必要もないのに。
 癖と言うのは恐ろしい。
 今日とて、意味もなく、楽しむでもなく、文庫本を開いていた。
 今になって後悔してくる。
 低気圧はだるい。
 いつもの荷物の重さだって、雨が降るだけで何倍にもわずらわしく思う。
 もったいないな。
 せっかく目覚めの良い日だったのに。
 とはいえ連日の寝不足はまだまだ解消しない。
 心身の疲労が、雨の冷たさに呼応して肥大化していた。 

「はぁ……」

 息をつきたくもなる。
 気分は最悪だ。
 夢のない夜が、ウミにとってどれほどの救いかは計り知れない。
 けれど、救われたのは、たぶんウミだけだ。
 また独り。
 文庫本越しに見た。
 誰もが、どこか切羽詰まったように息をする。
 特には、ツカサが。

 ――なんで。
 疑問でならなかった。
 彼は底知れない人間だ。
 いつも微笑んでいて、息をするように、『楽しい』を作り出す。
 気づけば彼の空気に巻き込まれて、気づけば悪夢を忘れている。
 当の本人は、さほど楽しげではないのに。
 そういう人だ。
 ずっと真意が見えなかった。
 それが、急に、疲れを隠せない顔で現れるなど。

 なにがあったんだろう。
 俺に、できることはないのか。
 黙って思考に沈みながら、地面に敷かれたタイルの模様を睨んでいた。

「ウミ」

 声がかかって、ウミはわずかに視線を持ち上げる。
 みどりの目が、ビニール傘越しにこちらを見下ろしている。
 一見、普段通りだ。
 彼の、変わらないように見せる技術だけは、馬鹿にならない。

「なんですか」
「うちに来ない?」
「……、行きます」

 簡素で直球な誘いに、思わず身を引きかけた。
 ウミは努めて平静にうなづく。
 その隣で、セイが目をしばたたく。
 何か言いかけたようだが、すぐ口を閉ざした。
 それでいい、と思う。
 お前は口を出さないでくれ。
 ろくなことにならない。

 そうこうしているうちに、ソノがピンクの自転車を引いて駆けてくる。
 どこに持っていたのか、水色のカッパを頭からかぶっている。

「待たせたねー。帰ろ帰ろ」
「うわ、濡れそう。風邪引くなよ」
「団長もね! でもごめん、ほんと濡れるから先帰るね」
「おー。気をつけて」
「あとで電話するから!」

 短いやり取りがあって、ソノが自転車にまたがり、遠ざかる。
 後ろ姿を見送って、それから三人、それぞれ帰途につく。

「傘あした返すよ」
「ちゃんと乾かせよ」
「うん、じゃ、また」

 セイが笑顔を見せて、ツカサには会釈をして、踵を返す。
 空気から明るさが少しずつ消えた、ウミにはそういう気がした。
 ソノもセイもよく笑う。
 ツカサの微笑みとはまた違った意味でだ。
 その二人がいなくなると、急に静けさを意識する。

 ふたり、公園の出口に立ったまま、しばらく雨音を聞いていた。
 ツカサが行こうかと言った。
 声音が固い。
 雨にかき消えそうなそれをなんとか聞き取って、ウミは足を動かす。
 会話がない。
 ただ雨を聴いて、一歩先を歩く彼のことを考える。
 なんとなくいたたまれないまま、歩き続けて十数分。
 名刹に湊と彫られた一軒家に招かれる。

「入って」
「……団長」

 重い頭を振った。

「なんで俺を呼んだんですか」
「話を聞きたい」
「……わかりました」

 一礼して、玄関に足を踏み入れる。
 背後で扉が閉まり、続いて鍵が閉まる。
 玄関扉は重厚で、雨音ももう聞こえない。
 溜め息だけが聞こえた。
 ツカサのものだ。
 彼が人前でここまでわかりやすく息をつくとは、珍しい。
 真意を、見せてくれるのだろうか。
 重い心にかすかな希望をもって、ウミは振り向く。

 そして視界が揺れた。
 倒れた、と理解したのは後頭部をフローリングに打ち付けたからだ。

「っ……!?」
「ごめんな」

 色のない声が降る。
 後頭部の痛みの次に、声と、息苦しさを知覚した。
 みどりが見える。
 彼の手が、ウミの喉元を押さえていた。
 体重がかかっている。
 もがいても、びくともしない。
 急速に背筋が冷えていった。
 ウミは、自分のおかれた状況を、はっきりと理解する。
 向けられているのは。
 殺意だ。

「……」
「…………」

 吸うも吐くもない。
 生理的な涙だけがこめかみを伝った。

 ちょっと、待って。
 待ってよ団長。
 俺はかまわないけど、あなたはそうはいかないでしょう。
 たすけたいって言ったじゃないか。
 俺があなたの呪いには、なりたくない。
 殺した事実を抱いて生きるなんて、くそったれだ。
 あなたには、味わわせたくない。

 ウミは口を動かした。
 動かしていることには気づけなかった。
 『ごめんなさい』。
 ずっと、何度も、その形で。

「っ……」

 ツカサの手が緩む。
 ウミの形だけのうわ言に気づいたからだ。
 が、ウミの意識はほとんど遠ざかっていた。
 朦朧として、泣いて、言葉を吐く。

「ごめ……ぼく、は」

 しんとした玄関口に、かすれた声が融ける。

「ぼくは、きみ、を」

 そこで、ウミの意識が落ちた。
 同時、ツカサのポケットから、着信音が鳴り響く。
 静寂を切り裂くそれに、ツカサは思わず両手を離した。
 ウミは反射的に咳き込んで、もんどり打って目を覚ます。
 着信音が鳴り止まない。

「あ……団、長?」
「……」

 床に転がったままの視界のさなか、ツカサがうつむいていた。

「団長、電話……出ないと。怪しまれ……ます、よ」

 言って、ウミはみたび咳き込む。
 その傍らで、ツカサがようやく携帯を開いた。
 咳払いがひとつ聞こえる。

「あ、園? うんごめん、ちょっと気づかなかったわ。あー、待って。うん、また掛けなおすから」

 すぐ、ぱたん、と液晶を閉じる音がした。
 さすが、完璧に取り繕うな、と笑みすら浮かべてしまう。
 ウミはくらくらする頭を押さえて身体を起こす。
 目蓋に溜まった涙がぼろぼろ落ちてゆく。
 ツカサがすかさず向き直る。
 みどりの目もまた、濡れていた。

「……泣くくらいなら、やめたらどうですか」
「……」
「俺はいいですよ、どうぞ。……最初から死ぬつもりでしたし」

 痛む首をさすって、ウミは吐き出すように言う。

「団長に、理由があるんなら、浮かばれますよ。なんもないまま自分で死ぬより、よっぽどいいもんな」

 俯いたまま、黙って、ツカサが駆け出した。
 玄関から、廊下を抜けて、リビングの扉をこじ開けて。
 ウミはその背をぼんやりと見て、思い出したように立ちあがる。
 脳貧血ですぐに気分が悪くなったが、身を引きずってツカサを追う。
 水の音がした。
 見れば、ツカサがキッチンのシンクにしがみついている。

「……団長」

 薬の詰まったアクリルケースが、傍らにあった。
 蓋が開いている。
 いま、飲んだのだろう。
 ウミはそっとツカサの背にてのひらを添えた。

「団長……話、聞きますよ。どうせ殺すなら、いいでしょ」
「……だめだ」

 血を吐くように答えた。
 やっとツカサが喋ったな、とウミは安堵の息をつく。

「だめ、ですか」
「ころせないっ……」

 ちょっと前まで首を絞められていたウミよりよっぽど掠れきった声で、ツカサが吐く。
 ウミはかすかに閉口した。
 いったい、なにが、彼をそこまで追い詰めるのか。

「……そっか。残念です。でも、よかった。ひと殺して生きてくなんて、苦しいだけですしね」

 口にしたのは偽りない本音だ。
 ツカサは黙っている。
 その口を割りたくて、おぼろな意識で、ウミは言葉を続ける。

「俺は、殺したから」

 ツカサが、シンクにしがみついたまま、ずるずると崩れ落ちる。
 拳が震えている。
 ウミは事情を知らない。
 ただ、限界なのだろう、とだけ思った。
 少し前までウミがそうだったから。

「……ち、くしょう……」

 ツカサは水に濡れた指で床をなぞった。
 文字だ。

「『すべて』、……『解除する』……っ!」

 そう綴って、綴り終えると、ツカサは一気に脱力する。
 倒れそうになる身体を、ウミは支えようとしたが、自身も酸欠でそのまま倒れ込む。
 狭いキッチンにふたり、はいつくばって、しばらく遠い雨を思っていた。

「……ウミ」
「……はい」
「本当、ごめん。殺しかけて、殺してやれなくて」
「はい」
「話を、しよう……」


2019年1月4日

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