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Fictional forest
「雨雲、さざめき」

 森を歩いていた。
 花の群生地から少し行ったところに小川がある。
 生活はその傍でする。
 こんな場所では、生きてゆくのに、何が必要というわけでもないけれど。
 ただ、水があれば安心する。
 仮にも生物的なものだから、そういうこともある。

 生物、と言ったが、この場所には基本、そういうものはいない。
 森を形作る木々も、夜風に揺れる花も、生きてはいない。
 小川や、なまぬるい空気が存在するが、水分子の循環もここでは起こり得ない。
 すべてが無機的で、はりぼてだ。
 葉の切れ間に空さえ無い。

 息をしている。
 あたたかな風に、木々がさざめく。
 それが錯覚なのか、真実なのか、考えることをやめたのはずっと前だ。
 ただ、時間は流れているらしい。
 ――よくわからない。
 つまりはそれに尽きる。
 常緑樹の森はいつも暖かい。
 小川の水は夜色にかがやく。
 白の花があちこちに咲く。
 それだけが確かだ。

「ね、しづくん」

 呼び声に、伊田紫月は足を止めた。

「はい」
「きて」

 ちいさな声だ。
 本来は、きっとすごく近くにいなければ聞き取れないだろうと思う。
 ここではそんな面倒もないから便利なのだ。

「……はい」

 ひとつ、言葉を出してうつむく。
 小川の傍で、夜色の光を見た。
 彼女はこの色が好きだと言う。
 シヅキもまた、嫌いではない。
 来た道を戻る。
 そこに彼女がいる。

 儀式は黙って執り行う。
 片手で彼女の手を取り、片手で髪をほどいて、目を開く。
 それだけだ。

 それだけが苦しい。

「あの」
「うん」
「わたしのこと、覚えていますか」
「うん、しづくん」
「……他は?」
「ええっと」

 彼女は、幼い顔で、困ったように笑んだ。
 その手に花を持っていた。

 生み出す。あるいは消し去る。
 自分がそういう特異な力の持主だとは、物心ついたころから知っていた。
 しかし使えるとしたら後者がほとんどだ。
 なにかしらの創出、なんて、よほどの精神力がなければ無理な話だろう。
 消すのは簡単だ。
 無は苦労して引き寄せなくていい。
 つねに隣にあるものだから。
 世界を記述して並ぶ数式に、プラスゼロを書き足したってなんら問題はない。
 数字はすぐ手の届くところにある。
 シヅキは、そのプラス記号を、斜めに傾がせてしまう。
 それだけで、なにもかもが消えてゆく。

「ごめんね」

 笑う彼女は無知だ。
 もう、今は、シヅキの力の詳細だって知らない。
 彼女の知識のぜんぶ。
 シヅキはそれを消している。一時的にだけれど。

「……いいんです」

 答えて、髪を結び直した。
 これは切り替え式の暗示だ。
 日常では力を使わない。

「いいんです」

 繰り返した。
 自分に言い聞かせていた。
 これは罪ではない。
 あるいは事故ではない。
 必要なことだ。
 自分で選んだことだ。
 わたしが、彼らを守りたいと思ったから。

 ずっと胸が痛い。
 それが眠らないせいだったら、どんなによかったろう。

「少し、外にいってきます」
「うん、気をつけてね」

 シヅキは彼女に会釈をして、また小川のほとりを歩き出した。
 外へ行く、という表現は適切ではない。
 ここがなにかの内側かどうかが定かでないからだ。
 小川に沿ってずっと行って、ふと気づくと街道にたどり着いている。
 なまぬるい空気のなかでは感じない息苦しさが、いつのまにか帰ってくる。

 ひめき市内。
 森での体感時間が正確なら、いまはたしか平日の昼間だ。
 静まった家並みを縫うように歩く。
 ここの市民ではないのに、いつからかほとんど道を覚えてしまったのはこれのせいだ。
 森の入り口は限られているが、出口はでたらめで、どこへ出るかわからない。
 市内であることには違いないけれど。
 さいわい、今回は比較的町の中心部に近い。
 足を早める。

 ひめき駅前公園。
 市内ではもっとも慣れ親しんだ場所と言っていいだろう。
 迷わず、桜並木のほうへ遊歩道を蹴った。
 並木から先がいつもの自然林エリアだ。

「……あ、」

 シヅキは並木に出る手前で足を止め、茂みに入った。
 隠れたのは、つい、というのが正直なところだ。
 視界の先で、見知った人物が対峙している。
 湊月咲、福居湖。
 ここからでは会話が聞こえないが、楽しい雰囲気ではない。
 むしろ――
 シヅキは彼らが林に入っていくまで、しばらく茂みのなかにいた。
 誰もいなくなってから、そっと出てきて、ペンを握る。
 が、誰に、何を伝えればいいのかがわからない。

 ツカサのことはよく知っている。
 ウミとも仲がいい方だとは思う。
 だから、彼らが些細な話ではあんな緊迫した雰囲気にはならないこともわかる。
 彼らが、というよりか、ツカサがウミに、だ。
 ウミは気づいただろうか。気づいたはずだが。
 その『勘』こそ、ツカサにとって凶器だということまでは、知らないはずだ。

 言ったのか。
 ツカサに、察したことのすべてを?
 いいや、すべてでなくてもだ。
 ツカサの警戒心は並外れているから、たとえ一部だったとしても。

 ペンを握り直す。

『園さん 団長をお願いします』

 メモ用紙を切り取って、シヅキは駆け出す。
 様子を見に来てよかった。
 でももう少し早く来ればよかった。
 公園の駐輪場で、ソノの自転車を探した。
 いつも止める場所はだいたい同じだ。
 すぐに見慣れた薄紅色を見つけて、シヅキはかごの金具にメモ用紙を挟み込んだ。
 ――確実な方法ではない。
 でもこれしかできない。
 ふと、祈るように空を仰ぐ。
 今にも降りだしそうだ。

「……」

 シヅキは重い息をついて、駐輪場を去った。


2019年1月3日

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