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Fictional forest
「街灯、白い夜」

 ぼくが見たのは、真っ白な病室の窓辺。
 眼下に遠ざかる人影。
 そのたもとに広がる花畑。

 たぶん、それだけ。

 だからあの絵には見覚えがあった。
 揺らぐ白。
 かすかな違和感が、確信に変わるまで見つめていた。
 なんで? と思った。
 きみたちは、ぼくらのゆめの何を知っているんだよって。
 彼は何もわからないと言って笑うばかりで話にならない。
 なら、もう、ぼくが行くより他に選択肢はないじゃないか。



 福居湖は夜を歩く。
 秋虫も静まる夜半、街灯を横切って、より暗い方へ向かう。
 すっかり冷たくなった足先で砂利を踏み分けると、目的の建物が見えてきた。
 暗い中うろ覚えの道を辿ったせいで、だいぶ時間を食ってしまった。
 携帯でちらりと確認すると日付を回ってしまっている。
 朝、起きられるといいけど。
 内心でつぶやいて、そのまま建物へ踏み出した。
 ――廃虚。
 中に入るのははじめてで、注意深く周囲を照らしながら、ゆっくりと進む。
 幸い、玄関先からすぐのところに階段があったから、迷うことはなかった。
 ただ慎重に、一段一段、登っていく。
 夜行性の虫がにぎやかにしている。
 灯りに集まるそれらに、わずかに顔をしかめる。
 しかし何をするでもなく、ウミは上を目指した、
 三階へ上がると、とたんに冷えた風が前髪を揺らす。
 ベランダとほとんど境目のない部屋は、どちらかといえば野外のにおいがする。
 ウミは、風に吹かれたまま、ずっと顔を上げない。
 上げられない。
 ただ、月明かりが象る影のかたちだけを見る。
 フロアの中心に柱が一本。
 その細長い影が、ウミの足元にのびている。
 ウミは、うつむいて、ほとんど目をつむったまま、柱の影を辿った。
 部屋の中心。虫の気配。寒風。月明かり。
 深く息をする。
 旧い木のにおいが気管を駆ける。
 ここにはだれもいない。
 灯りを仕舞って、目を上げた。
 ベランダ越しには、ただ、遠く、町が見えた。
 柵に歩み寄る。
 呼吸が難しくなる。

「……やっぱり」

 錆び付いた手摺には触れず、山並みを眺める。

「あれから、ずっと見えないんだ」

 誰に向けるでもなく、いや、確かに誰かに向けて紡いで、ウミは踵を返す。
 ここに来れば何かがわかるかもしれないと思ったが、そんなことはなかった。
 ただの、長らく使われていない家の跡だ。
 ウミには『見えない』から。
 何一つわかりようがない。
 推測でしか事を語れない。

 数日前。
 顔色を悪くしてここから降りてきたセイを、ウミはひとり見送ったのだ。
 ごめん体調悪いから帰る、それだけ早口で告げて、セイはそそくさと去った。
 呼び止める間も無く。
 呼び止めようとも思わず。
 ウミはその後しばらくして降りてきたツカサたちにその旨を伝えた。
 すると、ツカサはこともなげにわかったと応えたし、
 ソノは背後で携帯を開いていたし、
 シヅキはふっと俯いて黙っていた。
 これは相も変わらず根拠のない勘にすぎないが。
 どうもそのとき、彼らの挙動のすべてに、ぎこちなさを感じてしまった。
 このちっぽけな虫の巣窟に、
 あるいはここから見える景色には、いったいなにがあるというのだろう。
 それを知らない限り、いつまでもウミは蚊帳の外だ。
 そんな焦りを、柄にもなく感じていたのだ。

 無数の予兆を見ていた。
 そうしたら、案の定、色々なことが起きて。
 ツカサとソノは休み、シヅキはどこかへ消え。
 記憶のないセイは、事の重大さにすら思い至らず笑うだけ。
 ――取り残された。
 そう思うには十分な状況だ。
 関わらなきゃいけない。
 平穏を取り戻すには。

「ずっと傍観者でいるのか」

 つぶやく声が、がらんどうの廃虚に響いた。
 寝不足の頭が痛む。

「無関係でいれば、巻き込まれさえしなければ苦しくないか」

 この寒さのなかで、よくもまあ、こうも虫が飛ぶものだと思う。
 横切る彼らは、ウミの紡ぐ言葉など、空気の波としか認識しないのだろう。

「そうじゃないだろ……?」

 月明かりが途切れる。
 灯りをつけ直して、階段を下る。
 住宅地に出ると、寒風が顔に吹き付けて、眠気を奪い去っていく。
 ずっと頭が痛い。
 寝ていないからだ。
 眠ろうと思っても、二、三時間で目を覚ます。
 わざわざアラームをかけてそうしているのだ。
 悪夢を見ないように。
 額を押さえて立ち止まる。
 視界が白く霞んでいる。
 限界が近い。

 うずくまりかけた背に、生ぬるい風が触れた。
 真夏のビル風みたいな、体温と同じ暖かさの。
 凍えた四肢にはありがたい。
 ウミはふっと息をついて振り返る。
 ――なにもない。
 不思議に暖かい空気が流れているだけだ。

 前を向いた。
 そこに人影があった。

「……しいちゃん」

 街灯を背にしているから、逆光で表情は読み取れない。
 ちいさな手が、紙を握っていた。
 そっと手渡される。
 が、この暗さで読むのは現実的でない。
 ウミは戸惑うまま、再び消えたちいさな背のあとを見ていた。
 黙って、街灯のもとまで歩む。
 そこで彼の言葉を見る。

『もう眠っても大丈夫ですよ』

 相変わらずの端正な字。
 冷気が手元のメモ用紙を揺らす。
 わずかに残っていた温度が、たちまち奪われる。

「……しいちゃん……、俺のために消えたの?」

 切れかかった意識で、ぼんやりと問いを口にした。

 はやくかえろう。明日も早い。
 メモをポケットに押込み、ウミは足を速める。


2018年12月16日

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