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Fictional forest
「Abjuration」

 夜。誘蛾灯のたもとで星を見る。
 カラフルに塗られた遊具が、白く照らし出されて向こうに影を伸ばしていた。
 秋虫の声が賑やかだ。
 ――伊田紫月はゆっくりと目を閉じる。

 ひめきは子供の多い町だ。
 こうした小規模な公園が、あちこちに存在する。

「あのひとは、ここで死んだ」

 星よりもっと遠くを見るには、目を瞑らなくては。
 存在しない記憶に触れるには、みずからが闇に溶けなければ。
 ただなんとなくそう思っていた。

 冴えた空気に素足をさらして、滑り台の上に立った。
 そこから少し跳んで、近くの木の枝にしがみつく。
 もっと上に行こう。
 ずっと遠くに行こう。
 ここにいるかぎり、追憶は徐々に色をなくしてしまうから。
 槁の天辺からは、薄明かりに滲むちいさな公園と、周囲の家並みが少し見えて。
 すぐに視界が揺れ、霞んだ。
 秋虫の声が遠くなる。
 風のうねりだけが、両の耳にこだまする。

 眼下にみどりが広がった。

 帰ろう。
 彼にすべてを押し付けて逃げたのは、わたしの責任だ。
 彼はきっと耐えられなかった。
 なら、今度こそわたしが。

 浮遊感が全身を包んだ。

 まだ少し恐怖がある。
 だけど、いまさらだ。
 わたしに守れるものがあるだけよかったって、どうして思えないんだろう。
 ぜんぶなくなったと思っていた。
 現実感さえもなかった。
 そんなわたしに世界をくれたのは、あのひとだったはずだ。

 生ぬるい空気に目を開ける。
 天蓋は一面のみどりで、空も見えないけれど、どこも明るかった。
 これがあのひとの世界だ。
 狭苦しくて、どこまでも広大で、生ぬるくて、光に満ちた。

「――しづくん、おかえり」

「ただいま、帰りました」




 9月17日。
 旗日である。駅前通は月曜の昼間にもかかわらず混雑していた。
 赤羽園は、ひとり、商店裏の暗がりにたたずんでいた。

「……はい。一度、本社にお伺いしたいと。ええ、今から。担当の方はお休みですか?」

 愛用しているスカーレットの肩掛け鞄は重かった。
 持ち物にノートPCが含まれるためだ。
 ソノは鞄を足下に置いて、しかし肩紐から手は離さず通話をしていた。

「よかった。それではいま向かっておりますので後程。失礼いたします」

 言い放って一方的に切った。
 通話を、携帯端末の電源まるごと切った。
 そうして重たい鞄を持ち上げ、駅に走る。
 その顔に、傷はなかった。

 ソノが外に出たいとツカサに申し入れたのは昨日だ。
 ツカサは疲労からかあのままリビングのソファで倒れ、翌昼まですっかり眠っていた。
 死んだように静かで、ずっと呼吸が浅かった。
 力の代償が彼にどれほどの負担かという話である。
 眠る彼の傍ら、ソノは考えていた。
 シヅキのことも気にかかったが、彼が助けないと言うのだ、ソノに手の届く話ではない。
 だから、まずは、自分のことを。

 父を、脅すという態度。
 ソノひとりでは到底考え付きもしないそれを、ツカサは息をするようにやってのける。
 何故か? 他人だからだ。
 しがらみのない他人同士とは、絶対的に対等だから。
 逆らえないという意識がない。
 気づかされたのだ。
 ソノにだって、逆らえないはずはないのだと。
 まさに対等であることを求めて、赤羽を名乗った。
 父はそれを承諾したのだから。
 使える立場が、あるはずだ。

 ソノは現状を維持したかった。
 調査、報告。
 ただそれだけの関係を、すべてがわかるまでは続けていたい。
 それを一昨日、再確認したのだ。
 だから、だったら、続ければいい。
 簡単だ。
 赤羽園と築沢社長は労働契約で結ばれただけの他人だから。
 それに、ソノにはやりたいことができた。

 ツカサは一日待ってと答えた。

「監視をどうにかしてくるから」
「えっ、どうやって?」
「逆探知して警告する。まあ任せてよ」
「……それでよく自分のこと一般人とか言うよねえ」
「一般人だし?」
「まあ……いいや。危なくないの?」
「今更。気にすんな、君といるのが俺には一番危ないんだ」

 一昨晩が嘘のように笑って、ツカサは1日家を空けた。
 ソノは、携帯から行きつけのウェブサイトを眺めながら、じっと大人しく過ごした。
 さすがにあの消耗を再びツカサに強いるのはソノにとっても望ましくなかったのだ。
 夜になって帰ってきたツカサは変わらぬ様子で、夕食を作りながらに問うた。

「園、これからどうすんの」

 決めていたことだ。
 ソノは迷わず答えた。

「あなたを調べるのはやめる」

 返答までに間が空いた。

「……え? マジで」
「知るのを諦めるとは言ってない。ただね、」
「ただ?」
「ツカサが、言えるようになるまで待つよ。言えるように、信じてもらえる人になりたい。私、ツカサと友達になりたいの」

 ツカサはふとコンロの火を消して、キッチンからダイニングに座るソノへ振り向いた。
 驚きが行き過ぎて困ったような顔をしていた。
 あるいはばつの悪そうな。
 返答に詰まる彼をよそに、ソノは続ける。

「おとうさまの元にはしばらくいるよ。プロジェクトにはかかわってたいから。ただ、仕事のやり方を変えるの」

 ツカサは考えるようなしぐさを見せた後、調理を再開して、それからずっと黙っていた。
 拒絶されたのか、受容されたのか、ソノにはわからない。
 ただ、最初から拒絶を押しきるのがソノの仕事なのだから、
 やるべきことは、変わらないと思った。

 築沢薬局本社ビルは、ひめきから電車で数十分の街にある。
 15階建ての各フロアに割り当てられたセクションを、ソノはすべて把握していた。
 正面玄関から、受付を経由して研究開発部のフロアに急ぐ。
 エレベータを降りると、病院顔負けの白い空間が一面にひろがった。
 しばらく廊下を行って、ソノは仰々しい隔離扉に立ち留まる。
 受付で押しいただいたカードキーを通して認証する。
 この先は築沢『製薬』の領域だ。
 小窓のついた事務室に声をかけると、スーツに白衣を羽織った男性がソノを案内した。
 薬品庫。

「いやあ、開発中の特効薬は四種類あるんですよ。どれがいいのかなあ」
「実験はされてますか」
「してますよ。そう、この手の薬はラットが使えないから最初から人体投与なんですよねえ」
「副作用は?」
「確認されているものは、虚脱感、情緒不安定、呼吸困難、悪心、嘔気等です。ほぼかならず何かしらは出ますよ。今後の課題です」

 アルファベットと数字の組み合わされた表示が整然と並ぶ棚の隙間を行く。
 白のリノリウムに、靴音が響く。
 その空間の最奥で、ソノは促されるまま足を止める。
 言葉のまま、四種類。
 細かく詳細の記されたシールをからだに巻き付けた瓶が、やけに厳重なケースの中に鎮座していた。

「とりあえず全部、持っていきますよね?」
「――はい」
「いやあ助かりますよ。プロジェクトアルファの人たちってあんまりこっちには協力してくれないんです。協力できればずっと効率がよくなるのに」
「そうなんですね」
「ああ申し訳ない、外部の方に愚痴みたいなことを。とにかく、赤羽さんのご協力は非常に有り難い」
「それは、よかったです」

 ソノは、生返事をしながら、穴の空くほどケースのなかの薬瓶を見つめていた。
 そうして、ふっと儀礼的な笑顔を浮かべて、案内人に右手を差し出しのたまう。

「では改め、プロジェクトベータにご協力を約束いたします」



2018年11月17日

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