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Fictional forest
「Know-nothing」

 ひめき市立第一中学校。
 創立50年を誇る蒼枯の校舎の前で、福居湖はうつむいていた。
 それも、身に纏う制服が落ち着かないのだった。
 入学して最初の数日か定期テストのとき以外は、ほとんど着た覚えがない。
 真新しいまま埃だけを被った濃灰のブレザーは、普段着と比べ物理的にも精神的にも重い。
 今日が土曜日で良かった。部活動に来ている生徒は教室にはいないはずだから。
 平日の教室に入る勇気は、ウミにもさすがにない。
 残暑に焼かれて生ぬるい空気を吸って吐く。

「でかい溜め息だなー」

 陽気な声が聞こえて、ウミは顔をあげる。
 遅れてやってきたセイが、半袖シャツ姿で駆け寄りながらにこやかに手を振った。
 学校に行きづらかった理由が、彼にもあったとして。
 それを覚えていないから、そんな顔ができるのだろうか。
 だとしたら羨ましい。
 かすかに苦い心地で、小さく手を振り返す。

「悪い、待たせた」
「うん。……行こう」

 ウミは迷いのない足取りで校門をくぐった。
 三階に登って左折。突き当たって目の前。そこがウミたちの教室、二年二組だ。
 とはいえ、進級してから学校に行った記憶は数えるほどで、ほぼ保健室だったから、馴染みはない。
 馴染みのないぶん、まだ楽だ、とウミは思う。
 教室に罪はない。誰もいないなら、ただの部屋だ。
 緊張感のないままウミの後ろを歩いていたセイが、教室のドアの前でへえと短く声をあげる。
「教室の感じはどこも似たもんだな」とつぶやいて、セイはドアに取り付けられた窓を覗く。
 そうだね、と返しながら、ウミはそのドアをがらりと開けた。
 無人の教室に電気は点いておらず、ただ開け放された窓の傍でカーテンがなびいている。
 ぽつぽつと荷物の置かれた机がある。いま部活動に来ている生徒のものだろう。
 無言のまま数秒、入り口からその様子を眺めていた。

「な、福居」
「……なんだよ」
「駄目そうなら、無理に俺に付き合わなくてもいいからな」

 振り向くと、至って落ち着いた声でセイが言った。

「そう見えるか?」
「いや、ただ念のため?」
「そう……」ぼんやりと答えて、少し考えて付け足す。「別に平気」

 ウミはまず自分の席ということになっている廊下側最後列の机に鞄を置く。
 なんとなく引き出しを覗いてみると、なにやら連絡のプリントなんかが数枚押し込まれているのが見えた。
 それらには無視を決め込み、入り口できょろきょろしているセイに向かって振り向く。

「高橋の席はここ」

 自分の隣を指差し言うと、やっとセイが教室に足を踏み入れる。
 緋色の目が、窓からの光を吸って輝いて見えた。
 似合わない制服姿で教室内を歩く姿が、ああ異様だな、と感じられたのだ。
 彼もまたこの部屋に慣れていない。それを肌で感じた。

「席、隣なんだな」
「……よけてあるんだろ」
「まあそうか。あ、なんか入ってる。何……英語? のプリント? さっぱりだな!」

 なにやら面白そうにしながら自らの机を漁るセイ。
 そうかと思う。彼は記憶があってもきっとこうなのだ。
 ウミは黙ってすぐ後ろの壁を見た。
 年次始めにクラス全員が書かされた自己紹介カードとかいうやつが並んで貼ってあった。
 名前、誕生日、部活動、好きなこと、今年の目標……。
 そんなのをいやいや書かされた覚えがウミにもある。
 つまりセイも書いているはずだ。
 ずらりと並ぶ紙を目で追って、やがてウミはそれを見つけた。
 活字に似た端正で単調な文字が、等間隔に綴られている。

 高橋成。誕生日は11月9日。
 帰宅部。趣味は料理。
 今年の目標は「毎日早起きする」。

「高橋、趣味料理なの?」
「え?」
「これ。書いてある」

 難しそうな顔で机の中のプリント類とにらめっこしていたセイが顔をあげ、寄ってくる。
 そして自分の自己紹介カードを目に、少し黙った。

「んー、趣味とかべつに無いんだよな、俺、自炊してるからいちおうそれで書いたんだろうけど」
「へえ」
「好きなことがある人、すごいと思うよ」
「……」
「うーん」セイは間延びした声を出して首を捻った。「なんもねーな、情報」

 セイはふただびきょろきょろし始める。
 習字の作品がうえのほうに並んでいるが、ふたつ空白がある。
 自己紹介カード以外は、やはりなにもないようだった。

「俺、ほんとに学校行ってないんだなあ」
「……昔は、行ってた?」
「行ってた。そこそこ休んでたけど」
「その頃の友達と、連絡、取れないのか」
「あー、どうかな……連絡網とか残ってるかな」

 この教室にはもう何もない。
 結論付けて、ウミは鞄を持つ。
 わかったことといえば、セイはけっこう能天気であること。
 ウミにはそれくらいだった。
 それと、勝手に邪推するなら、彼は学校が嫌いでもないし、そうそう人間関係に問題の生じる性格でもなさそうだ、なんて。
 もし違ったら申し訳がたたないから口には出さないが。

 ウミが声をかけようと振り向くと、セイは窓際に立って眼下のグラウンドを眺めていた。
 運動部の掛け声が、三階のここまで高らかに響いている。
 舞い上がったカーテンが、刹那、彼の後ろ姿を隠した。
 ――目を背ける。

「――見えないな、こっからは……」

 かすかなつぶやきが、風にさらわれて、消えた。
 ウミは聞き返そうとしたが、その言葉が音になる前に、セイが問いを紡ぐ。

「福居はさあ、なんで俺に付き合ってくれるの。学校なんて、来たくなかったろ」

 掠れぎみな少年の声が、はためくカーテンの向こうから聞こえる。

「……俺は」

 答えに迷うことはなかった。
 迷わなかったが、すぐには続けなかった。
 ただ足を進めて、ぴしゃりと窓を閉めた。
 風が止む。
 カーテンが窓ガラスを塞ぐ。
 それでやっと安心できた。
 ウミは高いところが嫌いだから。

「団長。……変なんだ。お前が来てから。……その理由が知りたい、と思ってる」

 言いながら、すぐ背を向けて、ウミは扉の方へ歩いていった。

「湊さんが?」
「だけじゃない。しいちゃんも、赤羽さんも、急に動いてきてる。……お前の記憶に、その理由があって。だから、みんなお前に協力するって言ってるんだとしたら」

 休日の教室は静かだった。
 ウミの小さな声も、セイには確かに聞こえた。

「俺は。……誰よりも早く、お前を追い出さなきゃいけない、と、思う」
「追い出す?」
「記憶が戻れば。基地に来る理由もないだろ」

 がらがらと音をたててドアを引き開けた。
 廊下に踏み出す一歩手前で、ウミはぽつりと言う。

「平穏を、守らなきゃ」

 そして振り向いた。
 セイが、かすかに困ったような笑みで、まだ窓際に立っている。
 目が合うと、ふっとその表情が緩んで、駆け寄ってきた。

「ありがとう福居」
「……なんで」
「誰よりも協力してくれるんだろ? 安心しろ、終わったら絶対すぐどっか行くから」

 ウミにはひどいことを言った自覚があった。
 何故だろう。普段なら断じて口に出さないようなことを。
 寝不足だからか。
 状況が変わって焦っているからか。
 学校なんかに来たからか。
 ここが三階で、彼が窓際にいたからか。
 そうかもしれない。
 が。
 それなのに彼は無邪気に笑って返したのだから、俯くしかなかった。

「基地が好きなんだな」
「……、うん」

 それでもウミには必要だった。
 悪夢を払拭できる場所。
 くだらない時間。穏やかな環境。にぎやかな人。
 今はもう誰もいない、あのひみつきちが、必要だった。


2018年11月10日

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