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Fictional forest
「Kink」

 高橋成がツカサからのメールを受け取ったのは起床した直後のことだった。
 わかりました、とだけ返信して、セイはそのまま身支度を整える。
 リーダーが不在だからと言って、行かないわけにもいくまい。
 確かめなければならないことが、セイには多すぎた。

 ところが、セイが基地に到着すると、そこではウミがひとりで文庫本をめくっていた。

「あれ。……おはよう、福居」
「ああ。高橋。おはよ」
「紫月は?」
「出掛けてるよ」

 この二日で聞き慣れた文庫本を閉じる音。
 寡黙なウミから発言がある際の合図だ、とセイは学んでいた。
 向き直り、一瞬だけ目が合う。
 ふたりだけの基地に流れる静寂はいつにも増して重く思えた。
 この場所がこんなに静かなのは、セイにも少し、寂しい。

「なあ、高橋。……記憶、のさ。手懸かりって、なにかあった?」

 ぽつぽつと、単語ごとに発せられるざらついた声。
 本越しでなく彼の目をまともに見るのは初めてだな、とセイはぼんやり思う。
 碧く澄んでいた。平生は誰とも合わせられないのが勿体無いほど。

「どうだろ。まだわかんないよ。紫月に話を聞きたいんだけどいないみたいだし」
「……しいちゃんは、」ウミはすっと視線を俯かせて確と言う。「何も言わないよ」

 断言めいた口調に、セイは目をぱちくりとさせた。
 彼は頑なに踏み込まない人だ、と勝手に思い込んでいたからだ。
 その彼が他人の振る舞いについて言及するとは。
 しかもわかりきったような口ぶりで。
 不審より純粋な好奇心が勝って、セイは彼の隣に座り直して問い返す。

「なんで?」
「さあ。でも、ずっと、そうだから」

 床に下ろされたウミの両手が文庫本を握りしめている。
 落ち着かない。そういう感じだ。

「しいちゃんは。知ってると思うよ、高橋のことも。他も。でも言わない。そう決めてるみたい。……だからたぶん、頼っちゃだめだ」
「だめって……じゃあ、どうすれば」

 ウミがとうとう本を持ち上げた。
 が、それは開かれることなく傍らの鞄のなかに収まる。

「できることをやるしかないんだ。……関わらせてもらえないんだから」

 うわごとのように言って、ウミは鞄を手に立ち上がる。
 ずっと俯いた前髪に隠れていた碧く澄んだ目が、どこかをにらんでいた。
 自然と、セイもつられて立ち上がる。
 そうかと思う。これはきっと、ただ事じゃないんだ。
 ウミが本を閉じて人に言及したということは。

「あの、さ。高橋」
「おう」
「嫌じゃなければ。……嫌なら、いいから。だから、よかったら、俺と、」
「……きみと?」

 碧と緋が交差する。
 重い静寂が、広い林のなかでここにばかり取り残された瞬間があった。
 誰もいない。
 いるべき人が、いない。

「学校に、行こう。記憶を探しに」





 一方、同時刻、湊宅の一階で、赤羽園は閉じた玄関扉を見つめていた。

 ソノは人生ではじめて他人の家に泊まったというのに、
 結局ほとんどひとりで過ごすことになったというのは、特筆すべきだろうか。
 昨晩、家にあがって早々なぜか折り鶴の作り方を教わり、
 それが終わると「自由にしろ」で、ツカサは二階に籠ってしまった。
 夕食だけは共にしたが、あとは部屋の位置と必需品の使い方を教わった程度だ。
 さて今朝はというと、まったくの早朝に風呂上がりの顔で現れたかと思えば、
 そそくさと食事を作り、自分のぶんをものの数分でかきこんで、
 「出掛けてくるから外には出ないで」とだけ言い残して去ったのみである。
 これならふだんの通話のほうがよほど会話があった。
 なんだろう。
 普段は喋るばかりで過ごしていたぶん、この会話のなさは少しつらい。

 なんて考えながら振り返れば、ソノの目前には二階に続く階段がある。
 ……まあ、行くよね。
 ソノはちらりと玄関を見て、開く気配のないことを入念に確認する。
 行くなと言われて行かない情報屋がいるだろうか。
 いるはずがない!
 ぶつぶつと内心で言い訳を繰り返しつつ、ソノはまず洗面所へ向かった。
 必要最低限の物が揃っているだけの簡素な室内で鏡に向かう。
 目立つ傷を、丁寧にコンシーラーで覆い隠していく。
 数分後には、随分と印象の変わった少女が、鏡の中で薄笑いを浮かべていた。
 よし。
 口の動きだけでつぶやき、下ろした髪を少し整えて客間に戻る。
 充電されたままの携帯端末機。
 流れるようにメール作成画面を開く。

【臨時報告】
【ひめき市役所 児童青少年課の皆様へ】――

「――大丈夫。かならず成果をあげて参ります。おとうさま」

 笑って、端末をポケットに捩じ込む。
 そうして、ソノは木製の階段を注意深く登っていった。
 万一センサーやカメラの類いがあればかなわない。
 一段一段、全方位に気を払いながら、一分もかけて全十二段を登りきる。
 二階の間取りは簡素だ。
 階段の正面に廊下が延びており、正面にトイレ、左右に個室への扉がある。
 ソノは、左手最奥の部屋の前で、じっと息を殺した。
 漏れ聞こえる物音から、ここが対象の使用する部屋であることはわかっていたのだ。
 扉に仕掛けがないかどうか、確認に確認を重ねて、深呼吸をひとつ。
 慎重に、スライド式の木戸を開く。

 湊月咲の私室はこぎれいだった。
 使い込まれたデスクと、椅子、本棚がひとつに、ベッドがひとつ。
 床は藍色の絨毯で、天井ではペンダントライトが窓からの陽光をかすかにまとっている。
 それだけ。不自然なものはなにもない。
 ソノはじっとその部屋を目に焼き付けてから、黙々と物色をはじめた。
 まずは本棚だ。
 これが少し、普通の16歳男子としては妙な傾向にあった。
 まずは教材だ。小中の教材もほぼ全てとってあるうえ、彼の通う通信制高校の教科書もとうぜん並んでいる。これは、まあ、気にするべきではない。
 他。漫画や大衆小説などの娯楽の類いは、まったく存在しなかった。
 もっぱら本棚を占領していたのは、学術書だ。
 哲学や、天文、生物、物理、医学、社会、民俗、教育――とにかく多岐に渡った。
 ソノは本棚をすみずみまで見た。
 もっとも読み込まれた形跡があるのは、主に哲学書だ。次点で社会学。
 ぜんぶ彼が読んだのだとしたら、少々変わった趣味とは言えるかもしれない。
 彼は、学校ではなんの問題もない明るく元気な生徒だった。
 ただ人より少し頭の良いきらいはあるから、それがここから来ているとすれば筋が通らなくはない。
 片手間に携帯にメモをして、いったん本棚から離れ、デスク下の引き出しに標的を移す。
 こちらはまあ、普通だった。
 主に文具。他は携帯の充電器の予備。イヤホン。そのくらいだ
 ノートのストックのいちばん上に、折り紙のセットが無造作に置かれていたことだけが気にかかった。
 いちおうメモはとりつつ、他になにかありそうな場所を探す。
 ベッドの下に平たい木箱があった。
 衣類を収納しているらしく、見慣れた服が丁寧に畳まれて並んでいた。

「……ないな。何も……」

 思わずぼやいて、もう少しだけめぼしいものを探して、それからソノは部屋を後にした。
 そして、その他の部屋の戸にも手をかける。
 が。
 トイレ以外の部屋の扉はまったく開かなかった。
 取っ手に力を込めても、びくともしない。
 鍵がかかっている?
 そういう風ではない。そもそも鍵付きの戸ではないようだ。
 おそらく、立て付けが悪くなっていて開かない、という状態に近いだろうか。
 前後に力をかけてみてもがたがた言うばかりでろくに動かないのだ。

「……確率」

 古い扉が開けにくくなる確率はどのくらいなのだろう。
 二部屋同時に、何回やっても開かない、なんて、どのくらいの確率になるだろうか。
 ソノは拳をぎゅっと握って俯いた。
 携帯を取り出し、メールを打つ。
 ソノがこの家で見ることのできたすべてと、エラーによって守られる何らかの存在のこと。
 一息に打って、送信ボタンを押し込む。
 それからようやく一階に下り、メイクを落とすため洗面所に駆け込んだ。


2018年11月7日

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