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Fictional forest
「Kibosh」

「――俺が囮になるよ」

 だって、ねえ、それしかないだろ。
 どうしてかなんてわからないけど。
 勝手にいなくなったんだ。
 約束だけ残して往ってしまったから。
 誰かが後処理をしなければならない。

「死ぬ気で。守るよ」

 紡ぐことばだけが強かった。
 本当は、泥を吐くような心地で、うつむいていた。

「――わかった。気を付けて」
「うん。『絶対』」

 全身がひどく痛んだ。踞って耐えた。
 こんな痛み、彼女の負ったそれに比べれば軽いものなのだろうか。
 わからない。もう彼女のことはなにひとつ。

 なんなんだろうな。
 なんでこんなこと、しなくちゃいけないんだろう。
 命を削って。なにもかも捨てて。
 そうしてまで、愛する人の存在を否定し続ける意味があるのか。
 わからないよ。
 ずっとわからない。

 なんて、馬鹿げた話だ。



 どうせばれるからと言って、ソノは一度自宅に立ち寄り、荷物をまとめてやって来た。
 湊月咲の住む一軒家は広い。
 一階には十畳のリビングダイニングに加え、客間、書斎に、キッチン、浴室、便所。
 二階は私室がそれぞれ三部屋ある。もちろん、一部屋しか使われているものはないが。
 ツカサはソノを客間に通し、一階ではなんでも自由にしてくれ、と伝えて自室へあがってきた。
 二階には入るな。絶対。
 言い付けると、ソノは神妙に頷いたが、真意は知れない。

 ソノが折紙なんて初めてだと言いながら折った鶴は出来が良かった。
 几帳面な彼女らしい。折り目正しい赤の折り鶴を箱の上に放って、ツカサは重く息を吐く。
 これ、なんの意味があるの。
 当然の問いかけに、ツカサは答えることができなかった。
 いちおう、理屈はある。
 鶴は、ひとつの、媒介だ。異能力の。
 ことばというのは儚いもので、舌の上を過ぎ去ると急に消えてしまったりする。
 繋ぎ止めるには――能力を長期的に使用するためには、筆記して形に残すのが確実だ。
 それも定期的に。
 市政の分析では、ことばを媒介とする力は出力が安定しやすいなどと言われるが、違う。
 使い手のなかでことばの印象が薄れれば、終わってしまうのだ。
 だから形にする。
 文字にする。綴って紙にする。それを鶴にする。そして最も目につく場所に置く。
 想起しやすくしているわけだ。
 そう、理屈はある。明確に。
 答えられなかったのは。
 そこに、線があるから。
 越えられたら、困るからだ。

 ツカサは古びた段ボール箱の傍に踞って携帯を開いた。
 開いたまま、それ以上は手が動かなかった。
 気づけば緩やかに息を止めて、ディスプレイをにらんでいた。

【2009/9/15 0:11】

 定時を過ぎている。
 そろそろ向こうも彼女の異変に気づくだろうか。
 彼女の定時報告が遅れたことなんてなかったはずだ。
 いや、今日は土曜日だから、出勤していないかもしれない。
 そういうところだけは律儀だ。公務員っていうのは。

 ふと、一定時間操作のなかったディスプレイが暗転した。
 蛍光灯が反射して、陰気な自らの顔が映し出されている。
 みどり。
 鏡を見るたびに、ちくりと頭が痛む。
 それどころか、この色をどこかで目にする度に。
 ――ことばを想起する。
 だから。
 だからこそ、あの一面がみどり色の公園に、ずっといるのかもしれない。

 酸欠の手が緩んで、携帯が滑り落ちた。
 はっと息を吹き返し、慌てて携帯を掴み直す。
 いけない。最近はなかったのに。

 長く息を止めてしまう癖が、数年前からあった。
 苦しくなっても、無視して続けてしまう。
 そこには意地さえある。
 が、いつも最後にはふらっとなって、そこで正気に返るのだ。
 意志で息の根が止められたらいいのに、なんて、馬鹿げている。

 深呼吸をして、思考の霞を追い払う。
 改めてディスプレイを構え直して、ツカサは淀みなくアドレス帳を開いた。

 短く連続する電子音。
 三回鳴って、繋がる。
 ホワイトノイズだけをしばらく聞いていた。
 それから念のため周囲に耳を澄ますが、物音の類いはない。
 ソノに聞かれると厄介だが、まあ、大丈夫か。

『……珍しいな。つきくん』

 モヤモヤした低い男声が、ホワイトノイズに消えそうな音量で聞こえた。

「……呼び方」
『あ、……悪い……』

 消え入りそうな声での謝罪がとうとうノイズにかき消える。
 そのまま再び訪れた沈黙に、ツカサはまた息を止めそうになって、思い直す。
 画面のなか、通話時間を示す数字だけが刻々とうつろう。
 よっぽど切ろうと思ったが、一度切ったらもう再び繋げられる気はしなかった。
 視界の隅に赤の折り鶴をとらえて、ツカサはやっと口を開く。

「父さん。頼みたいことがある」

 存外、はっきりとした声が出た。




 翌朝、ツカサはソノを残して家を出た。
 行けないとは言ったが、その足は基地へ向かっていた。
 こちらの事情がどうであれ、シヅキの寝食を確保しなくてはならない。
 その話だけ、別件がてらつけてこようと。
 急ぎ足で駅前を抜け、公園に入り、自然林に飛び込む。
 そしていつものビニールテントの前に立ったところで気づいた。
 電気が点いていない。
 林のなかに位置する基地は常時暗い。
 だから人がいれば机上の電池式スタンドが点灯しているはずなのだ。
 その明かりはテントの壁つまりビニールシートをわずかに突き抜けて漏れ出てくるのだが。
 それがなかった。
 ツカサはそっと入口を開き、黙って中を覗いてみる。
 無人だ。

「出掛けてる……のかな」

 つぶやいた声が、木々のざわめきに吸われて消えた。
 携帯に連絡を受けた二人は、そもそも基地に来なかった可能性がある。
 が、シヅキがいないというのは少し妙に思えた。
 トイレだろうか、と五分ほど待つことにする。
 ――無人だ。
 目を閉じると、遠く、かすかに駅前の喧騒が聞こえてくる。
 隔絶されているという実感。
 それが、ここを作った頃のツカサには大きな安心感でさえあった。
 今もきっとそうだ。
 俺はひとりで逃げていたかった。
 けれど、逃げたいのは俺だけじゃない。
 桜の端で泣いていた傷だらけの少女を目に、そう思ったのだ。
 だから声をかけた。
 逃げても良いんだよと口にした。
 自分に言い聞かせるために。
 あるいは彼女もまたツカサの逃避行の一部だった。
 苦しむ人を救えたら、いくぶん気が楽になるのではないか、という打算は、常にある。
 遠い喧騒を耳に目を開けた。
 薄暗いビニールシートの天井が、木々の影に合わせて風に揺れている。
 穏やかだった。
 もう五分くらいは経ったかと、ツカサは時計に視線を振る。
 その瞬間だ。

「……っ!」

 激痛が、脳髄から全身を貫いた。
 大きく息をして倒れ込む。
 痛む頭を押さえる手が痛い。
 急な緊張に呼吸を求める喉が痛い。
 ああ、ここが無人の基地で良かった。
 最初に浮かんだのはそんな思考だ。
 だって、ツカサはなにも考えなしにソノをひとり残して家を出たのではない。
 半分くらいは、わかっていた。
 彼女は俺を。


2018年11月5日

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