[携帯モード] [URL送信]

Fictional forest
「Ken」

 朝が嫌いなのは、どうにも直らない。
 福居湖は締め切ったカーテンの隙間から朝焼けをにらんでいた。
 時刻は5時を回ってすぐ。
 寝汗で冷えきった身体を流して戻ってきても、この時間だ。
 外は秋らしい快晴なのにもかかわらず、心地はむしろ昨日よりひどい。
 近頃、急にこういうことが増えた。
 嫌な夢を見たという実感だけが、喉の粘膜に貼り付いて息苦しい。
 毎朝。毎朝。
 いい加減、布団に入るのも嫌になってくる。
 この不調を天候のせいにして納得できるほど、ウミは楽観主義者ではない。
 心当たりはあるのだ。

 文庫本を入れたままの鞄をつかみ、携帯電話をポケットに押し込んで、ウミは家を出た。
 外に出ないことには、朝の呪いから逃れることはできない。
 足は自然と公園に向く。
 基地へ行くには早すぎる。適当な遊歩道で時間をつぶすことにした。
 普段の服装に一枚多く上着を羽織って、通勤ラッシュも始まらない駅前を抜ける。
 昨日のメールを思い出してみたが、快晴のもとに虹はない。
 ひと気のないシャッター街に、束の間、鳥の声が交わされているだけだ。
 ――彼ならこれだけでもはしゃぐのかな。
 ウミには理解できないが、そう思うだけでかすかに力が抜けていった。
 公園の入り口をくぐり、癖のまま自然林に隣接する桜並木に流れ着く。
 点々と置かれたベンチに腰掛けると、足音の消えた世界は急に静寂を取り戻した。
 ああ、ひとりだ。
 ウミは葉桜のたもとで深く息をつく。
 少し眠ろう、と思った。もうずっと眠れた気がしていなかったから。
 ここで船を漕ぐだけなら、さすがに悪夢を見ようもない。たぶん。
 誘惑に任せて目を閉じる。
 ゆるやかに全身の温度を奪ってゆく秋風が、むしろちょうどいいと思った。

 勘が良いね、と言われることが昔から多かった。
 ひとの顔色を窺うのも、嘘を見抜くのも、真相を考え付くのも、確かに得意なのだろう。
 それで親や教師に誉められたことも一度や二度ではない。
 驚かれることも、怪しまれることも、怖がられることも。
 いつから友達がいないんだっけ。
 いつから母と話さなくなった。
 そう、父の浮気を見抜いてしまってからだ。
 見抜いたからって、別に誰にも言いやしなかったが。
 わからないふりができるほど、ウミは器用な人間ではない。
 少しずつ、ほんとうに少しずつ態度がぎこちなくなって、気づけば遠くなっていた。
 目を合わせたら逸らされる。よそよそしいことを言われる。
 だから目も合わせなくなったし、会話も消えたのだ。
 友達だって似たようなものだった。
 後ろめたいことは誰にでもある。
 わかってる。けど。
 その内容を知っている相手に向かって、無邪気に笑えるかといったら、無理だった。
 それだけの話で。
 いつの間にかひとりになっていて。
 その頃から、朝が嫌いになった。
 だるい。起きられない。
 悪夢の感触で踞っているばかりで一日が終わっている。
 そうして学校から足が遠退いたら、もう、駄目だった。
 取り返せなくなった。
 けれど自室に閉じ籠ることも出来なかった。
 記憶が襲ってくるから。
 外で気を紛らす方がまだ楽で、ウミは放浪するようになった。
 その頃だ。その頃も、よくここで眠った。
 この公園で、ひとりの静寂で。
 そして。

 肩を揺すられ、ウミは目を開けた。
 ぼうとする視界に、膝の上で組んだ自分の両手。
 それと、見慣れたちいさな足が見えた。

「……しいちゃん?」

 顔をあげ、その金色の双眸を確認する。

「えっと、おはよう」

 首肯。

「早いな。どうしたの、こんな時間に」

 眠い目をこすりながらウミが問うと、シヅキはぱちりと瞬きをして首をかしげる。
 それから、あなたの方こそと言わんばかりにウミを片手で指し示した。

「あ、俺? ……えっと。なんか、落ち着かなくて」
「……」

 シヅキはとんと地面を踏んでウミの隣に腰かける。
 いつものメモ帳。ペンを走らせる音がこの静寂ではよく聞こえる。

『よく眠れないのですか』
「え……あぁ、うん。あんまり」

 嘘をついても仕方がない。
 適当に頷くと、シヅキはペンを握ったまま沈黙する。
 また眠気が襲ってきそうになって、ウミがあわてて目を開いたころ、やっと次のメモが手渡される。

『悪夢ですか?』
「え、……うん。そう、だけど。なんで?」

 シヅキは黙っていた。
 答えずに、ペンを仕舞った。
 くるりとベンチを降りて、自然林を指差し、歩き出す。
 ウミはわずかに間を置いて彼の後に続く。
 ざくざくと落ち葉を踏み分け、基地にたどり着くと、隅に畳まれていた毛布を一枚手渡された。
 まあ、そうか。
 寝るならこっちの方が快適だろう。

「うん、ありがとう」

 シヅキはこくりと頷くと、そのままの足でどこかへ去っていった。
 去り際、顔の前に人差し指を立てていた。
 温度のない基地の片隅に、またひとり残される。
 ウミは、ただなんとなく――彼は、昨夜からここにはいなかったのだろうなと、思った。
 俺は関わっちゃいけないんだろうな。
 大丈夫、わきまえてる。
 俺はひとりで、そして独りだ。

 そのとき、ポケットの中で携帯が震えて、ウミは驚きに肩を跳ねさせる。
 慌てた手つきでディスプレイを開くと、昨日と同じメール着信の通知が。

 差出人は湊月咲。
 ――俺と園、しばらく基地には行けない、ごめん、とだけ、綴られていた。

「えっ……嘘!?」

 眠気が吹き飛ぶ。
 メール画面からそのままアドレス帳に飛んで、一秒もなく電話をかけていた。
 コール音が鳴り出す前に繋がる。
 あちらもメールを送ったばかりで、ディスプレイを閉じてすらいなかったのだろう。

「もしもし。団長?」
『あ、ウミ? めっちゃ早いな。びっくりしたー』

 通話口からは気の抜けるほど軽い声がした。
 裏腹、ウミの端末を握る手は汗ばんでいる。
 だって――ありえない!
 彼が来ない日なんて、ウミがあのベンチで彼に声をかけられてからずっとなかった。
 一日もなかった。
 それが、急に。
 いや、急じゃない。予兆はあった。いっぱいあったけど!

「団長。あの、メールのこと」
『ああ、ごめん。ちょっと用事ができちゃって……数日だけね』
「……っ」

 ぎりぎりでブレーキを踏み込んだ。
 何があったんですか。俺にできることはありませんか。
 よっぽど言いたかった。

 駄目だ。

「……お気をつけて。待ってますね」
『うん。ありがとう』

 わかっている。

 俺はひとりで、そして独りだ。


2018年11月3日

▲  ▼
[戻る]