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Fictional forest
「Keelhaul」

 手が震えていた。
 保たれていた均衡を崩した心がねじ切れそうに痛む。
 こんな裏切りがあってたまるものか。
 わたしはただ逃げたくて、逃げ延びるために、何年も身を削ってきたのに。
 逃げても良いと認められるだけの成果をあげてきたのに。
 こうもあっさりと、太い手綱を引っ張られる。

 わたしは呪われているのだ。




 2005年8月初頭。
 小学五年生の夏休み。
 予定もないから、うんうんと駆動音を立てるパソコンの前にわたしは日がな座っていた。
 ウェブニュースを彷徨うと、たまに父の名前を見かける。
 それが少し面白くて、どこまでも探してしまうのだ。
 わたしの知る父と、世間に知られた父がどのくらい同じで、どのくらい違うのか。
 そんな意味のない考察に明け暮れる日々を、いつから送り出したんだっけ。
 就学してすぐの頃から常に最新機を与えられてきたから、さいしょから、と言うのがいいだろうか。
 父は、まあ、家だとひどい人で。
 わたしを傷つけるのが趣味なのかと問いたいくらいの暴君である。
 不出来だ不出来だと嘆いてはわたしを殴る父。
 そのくせプライドばかりあるから、不出来なわたしに似合わないお高い服を買ってくる。見栄を張る。
 しょうもない人である。
 その父が、メディアではそこそこの栄光をもって描かれるから、ちょっと面白いのだ。
 世間様はあんなひとのなにがいいのだろう。
 あるいは、あのひとは世間様にこう思われたいのかなとか。
 とにかくわたしはわたしの父についてを調べていた。
 熱中していた。
 それくらいしか熱中できるものがなかった。
 いけないことをしているという背徳感。
 たぶんそれが楽しかったのだ。

 が、わたしのそんな悪戯はもしかすると最初っからばれていたのか、
 その日、わたしが寝室からこども部屋に入ると、父がわたしのパソコンの前に立っていた。
 しかもそこにはありありと検索履歴の表示。
 青褪めるわたしに父が言う。
「お前のやり方は詰めが甘い」と。

 わたしは分厚い報告書の束を手渡された。

 ある人物の経歴が、事細かに書き込まれたそれには、また何枚かの写真も挟まっていた。
 仄蒼い目に、長めの癖毛が特徴的な男の子。
 書類は、ぜんぶ、彼に関する記述だった。

「彼と『親友』になりなさい」

 お叱りもなくそう言われたので、わたしはもちろん戸惑った。

「知った以上は、協力なさい」

 言い直された。
 それでやっと納得がいったのだ。

 キサワ製薬会社。
 社長である父は、わたしを『件のプロジェクト』に使うことを決めたのだ。
 たぶんいろいろな理由があっただろう。
 わたしがそれを知ってしまったからとか。
 こどもだからとか。
 そちら側の価値観に慣れさせるためとか。
 正確なことはわからないけど。

 一応言っておくと、築沢は薬局であって製薬会社ではなかった。
 わたしたちが製薬に乗り出したのは、ひめき市に支店を置いてからのことだ。
 どんな縁があったかまでは、調べきれていない。
 ただ、製薬に乗り出すきっかけとなった『件のプロジェクト』は、
 この町の、ありもしない伝承の調査を主としていた。
 ――ここで生まれた子供は、ある一定の割合で、理由なく『悪夢障害』を発症する。
 なんてね。

 現状、プロジェクトの関心はもっぱらその少年に集まっているらしい。
 湊月咲。みなとつかさ。
 わたしのひとつ上の年齢で、学校生活にもこれといった問題のない、むしろちょっと優秀な男児であると、報告書には記してある。
 友人が多く、成績がよく、運動は並。出生にも問題はなく、両親健在。ひとりっ子の三人暮らし。
 ありふれた、きらきらした日常のなかに彼はいた。
 彼に悪夢障害の気は見られないという。
 では何か。

 数週間前。
 彼の、目の色が変わった。
 比喩ではない。
 数ヵ月前の学校の遠足で撮られた写真では、はっきりと藍色の双眸が確認できる。
 それが、数日前の、うちの調査班の盗撮では、常磐を光に透かしたようなみどり色をしているのだ。

 それは、この町でしか起こり得ない異常だった。
 わたしは知らないけれど、前例もあったという。
 突然な色素異変。
 しかしそれらはすべて、この町で『悪夢障害』を発症して永く治らなかった場合に限る。
 だが彼にはそれがないのだ。
 なにかがおかしい。
 だから調べたいが、なにぶん彼は一般家庭の傘下にいる児童だ。
 中年以上しかいない調査班では少々無理がある。
 そこでわたしである。
 年が近いから、近づいても怪しまれることはないだろうと。
 安直かもしれないが、年が近いかどうかというのは、こどもにとってはかなり重要なこと、らしい。
 就学直後から引きこもっているわたしにわかる話ではない。

 とにかく、彼に近づき、監視し、報告すること。
 それがわたし――築沢園に課せられた最初の命令だった。

 戸惑った。
 家から出ても、いいの?
 最初の疑問がそれだ。
 わたしはずっと人前に出ることを極めて制限されてきた。
 理由は簡単。
 見かけがみすぼらしいから。
 特には、傷跡だ。
 とりわけ何年か前に顔が傷ついてからは、めっきり家を出ることがなくなっていた。
 端的に言って父のせいなのだが。
 どうしても出かけなければならないときは、面倒なお化粧を念入りにして覆い隠した。
 築沢の令嬢に傷があってはならない。
 たいした大企業でもないのに、やはり父のプライドは高い。

 問うと、父は頷いて、しかし条件を出した。
 それは、築沢を名乗らないこと。これに尽きる。
 出生を悟らせない。
 それらしく振る舞い、それらしい経歴を騙る。
 つまりは貧乏なふりをしろと言われた。

「……はい。おとうさま」

 失うもののないわたしは、怖じ気づかずに切り返す。
 はい、おとうさま。そういうことなら、代わりにわたしからも条件があります。
 わたしはあなたの娘だけれど、築沢の社員ではない。
 だから、わたしを、「フリーの情報屋」として雇ってください。
 そうでなければ、調査はいたしません、と。
 ――築沢であることから逃げるために。

 わたしは技術を磨くところからはじめた。
 人とろくに話したこともない、パソコンとばかり向き合って生きてきたわたしが、
 同世代の男の子と友人になるなんて、非現実的にもほどがあることはじゅうぶんにわかっていたのだ。
 わたしは――学校に行った。
 いちおう在籍していることになっていた小中高一貫の私立校は、夏休みも部活動の生徒で賑わっている。
 面倒なお化粧を完璧にして、新品同然の制服に身を包み、笑顔の練習をして、登校してみた。
 なんでもいい。誰かと話して、あわよくば友人になる。その予行練習が目的だ。
 結果はさんざんだった。
 夏真っ盛り。
 暑い。
 傷跡のせいで長袖を脱げないわたしは、部屋を出るだけで干からびてしまいそうだった。
 人と話す以前の問題だ。
 体力作りから、はじめることになった。

 そうして、わたしが実際に彼と接触したのは翌年のことである。
 長くかかりすぎた?
 そんなことはない。吐くほど努力したのだ。
 情報技術はもちろん、人を探るための会話、笑顔、仕草とか。
 研究した。研究し尽くした。
 どうすれば親しみやすいのか。どうすれば怪しまれないのか。
 それを引きこもりのわたしが半年でものにしたのだ。
 短く済んだほうだろう。
 幸い、仕事のスパンは長い。
 何年かかってもいい。確実な情報を蓄積し、分析すること。
 『件のプロジェクト』はそういう理念の上に成立している。
 この町を基に、50年もの歴史をもって。

 2006年4月。
 わたしはひめき駅前公園に足を踏み入れていた。
 安物の長袖に身を包んで、もうお化粧はせずに。
 あでやかな桜並木を抜けて、ずっと奥地、煩雑な自然林をかきわける。
 目の色が変わってからというもの、彼がなぜだか学校にも行かずここへ通っているという情報は、調査班からの報告で知っていた。
 絶対になにかただならぬ事情があるはずだという確信は、もうプロジェクト全体にある。
 ただ、築沢の調査班は一同にこう言うのだ。
 少年が林に入っていくことは確認できるのに、その先で彼を見つけることができない――。
 調査は難航していた。
 そこで、修行中のわたしがいよいよ駆り出されたのだった。
 林をがさがさと歩き回る。
 注意深く、人の通った痕跡を探すのだけど、そううまくはいかない。
 やっと見つけた固まった道を通ると、あきらかに別案件だろうホームレスの邸宅が現れる。
 彼がそこにいるわけでもない。それは調査済だ。
 なるほど確かに、報告通り。
 わたしもまた林のなかで彼を見つけることはできなかった。
 疲れてきて、桜並木のもとでひと息つく。
 まあ別に見つけられなくてもいいのだ。
 行き帰りで彼を捕まえられれば。
 さあ待とう、と林に面するベンチに陣取る。
 風に散って地面に積もってゆく桜を、ぼんやりと眺めていた。
 それは、思えば、家の外では初めての、緊張を強いられない時間だった。

 その瞬間になって、わたしは、ようやく家から出られたというひとつの達成に気がついた。
 そうだ。
 はっとなって、正体不明の衝動で立ちあがり、桜の幹に駆け寄る。
 木の皮は堅く乾いている。
 そんなことをも知らずに、わたしは12年も過ごしてきたのだ。
 並木に吹く風が冷たいことも、白の花弁が地面で腐ってゆくことも。
 わたしにはぜんぶが新鮮で。新鮮なのだと理解して。
 ふと、涙が出てきた。
 部屋のなか。家のなか。父と、会社のこと、政、インターネット。
 たったそれだけがわたしのすべてだった。
 それだけで諦めることを、最初から強いられていた。
 でも抜け出したんだ。
 それも、自分の努力によって。
 いまのわたしは築沢の傘下にはいない。
 ただ、ひとりの、情報屋だ。
 それでもう胸がいっぱいだった。
 土に汚れた花弁を、わたしの涙が湿らせてよけいに黒くする。
 世界はこうだったのだ。
 こんな世界で生きることを、ようやく許された――!

「――君、大丈夫?」

 声がかかって、飛び上がって驚いた。ふりだけ。
 人が近づいてきているのはわかっていたのだ。
 見やれば、そう、まさにわたしをこの世界に連れ出してくれた彼が、ハンカチを差し出して立っていた。
 癖の強い髪にみどりの目。
 対象アルファ。――湊月咲だ。

 私は両手でハンカチを受け取って、用意してきた中でもいちばんの笑顔で応える。

「大丈夫。……ありがとう!」

 そして、お人好しの彼は、私が泣き止むまで、黙ってつきあってくれたのだ。
 この出逢いは私たちが友人になるには極めて好都合だった。
 ハンカチの貸し借りという繋がりは、私がただ話しかけるよりよっぽどまともで、強い。

「ハンカチくらい無理に返さなくてもいいけど」
「ううん! 借りたものはちゃんと返すよ。あっ、もしかして、あしたは都合悪い……とかかな……?」
「別にそういうわけじゃ」
「よかったあ。じゃ、また来るね。本当にありがとう!」

 強引さは必要だ。
 友達を作るっていうのはそういうことだ、と、私はこの半年で学んでいた。
 案の定ちょっと気圧されたようだったけれど、彼はどうにか流されてくれた。

「わかった。じゃあ、明日、この時間にここで」
「うん。約束!」
「……あとさ」
「ん?」
「君、名前は?」
「あっ……」
「『あ』?」

 名前を問われて、しまったと思う。
 築沢に代わって名乗る苗字を決めていなかったのだ。

「あ……赤羽、園」

 一秒後、口をついて出た。
 彼は、こくりと頷く。

「じゃあ、園。俺は湊月咲。……また明日」
「……うん、ツカサ! また明日!」


2018年10月31日

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