Fictional forest
「ライア・フライト」
駆け出すや否や、ツカサは口のなかで呟く。
「彼女は死なない」
視界の隅で、数式が弾け飛んだ。
伸ばした手がかろうじて細い手首に届いた。
両手で掴んだのに、肩に、全身にがくんと衝撃がくる。
堪え忍ぶ。離してはならない。それだけを考える。
ぶら下がった彼女が、ツカサに向かって顔をあげて、ふふっと笑った。
至って朗らかに。
「携帯は? 投げたの?」
「……そこに転がってる。おまえ、身投げして開口一番それか」
「いやあ、だってね、携帯壊れたら困るから預けたんだよ」
「死んだら困れないだろっ」
「でもほら、こうやって死ななかったら、困れるよ?」
ツカサは手を離さずいるのがいっぱいいっぱいだというのに。
ソノも掴まれた手首が痛むはずなのに、楽しそうだった。
憎らしい奴。いつもそうだけれど。
「本当に助けてくれるんだね。優しい、ツカサ」
「ふざけんな。助かる前提でやっただろ。間に合わなかったらどうしてたんだよ」
「どうもしないよ。黙って落ちて死ねたらラッキー、死ななくてもラッキー」
「……計画性の欠片もないじゃん」
「成功したからいいの」
早くも腕が震えてきた。
ツカサは額に汗をにじませながら、必死に手に力を込める。
ソノがそれを見上げてにやにやしている。
「ねえ、離していいんだよ? ツカサは体力あるけど、あんまり力持ちじゃないし。このままいてもツカサが疲れちゃうだけだよ。持ち上がらないでしょ。わたし、重いしさ」
ツカサは答えなかった。ただ全身で彼女を引っ張りあげようともがいていた。
「どうして頑張るの? 知ってるよ。手、離しても平気なんでしょ?」
「……ちょっと黙れ」
「だからあ、無理だって。無駄に頑張ってもいいことないよツカサ。頭、痛いんだよね?」
ツカサは奥歯を痛いほどに噛み締める。
彼女の言うことは、全部、本当だ。
彼女は嘘をつかない。でたらめを言わない。
だから『信じられる』。
だが、彼女自身のことは。
絶対に信じてはいけない。
ツカサはそれをよく理解していた。
だって彼女は。
鳴り続けていた着信音がふっと止んだ。
そして、また立て続けに鳴り始める。
発信者は同じだろう。
下の名前はよく見ていなかった。けれど苗字は覚えている。
【築沢】――だった。
彼女が何者か知っている。
だから、彼女の行動の意味も、いまどうすればいいのかもわかっている。
「おまえわかってないよ」
ツカサは苛立ちに声を低くした。
なんだよ。なんでいまさら。
ずっとただの友達やってたじゃん。
それでいいだろ。
いまさらこんな形で挑む必要はあったのか。
「え、ほんと? どのへんが間違い?」
「……頭痛は、まだない」
「へえ、そうなの。あはは、そう、この状況なら教えてくれるんだね、いいこと聞いた」
「ごちゃごちゃ言う暇あったら上がってきてくれっ。迷惑! 腕痛い!」
「ええ〜、まだ色々聞きたい」
「おまえ……落とすぞ。その隙におまえの携帯逆パッカするから」
「ああ、なるほどそういう交渉ができるんだね……」
ぼんやりとした口調で言って、ソノがうつむく。
ツカサからは彼女のつむじだけが見える。
きらきらと質の良い髪が赤のひかりをまとっている。
場に似合わずきれいだった。
もう欠片だけしか見えない夕陽も、眼下の家並みも。
「じゃあ……うん、いいよ。いまの話の、情報料ってことで」
変わらない快活な声と共に、彼女が廃屋の壁に足をつく。
重みのかかりかたが急に変わって、ツカサの両腕がぎしりと軋んだ。
「登るからちょっとがんばってね」
「おう……」
肩から先の感覚がもうない。
耐え続ける。
やっと、ソノの片手がベランダの柵を掴む。
彼女が身体をひねるように持ち上げると、ツカサはようやく腕が軽くなるのを感じた。
「よいしょっと」
ソノの身体がようやく柵の内側に転がり込んだ。
彼女の着地を支えてから、ツカサは痛む腕をぶらつかせる。
ソノも掴まれていた手首を押さえていた。
十中八九、数日は痣が残るだろう。
ツカサはなんとなく罪悪感を覚える。
すると疲弊した全身がどっと怠くなって、大きく息をつく。
「ごめんねツカサ。痛い?」
「痛いよ……痩せろ……」
「禁句! っていうかわたしけっこう痩せてるよ!」
「……知らねえよ」
「あした湿布持ってくね」
「いらない。うさんくさいし……」
「えー。本業なのに」
ツカサは腕をさすりながら室内へ歩んだ。
柱はもうあまり赤くなくて、魔法が溶けたようにひっそりと佇んでいる。
その隅に転がっていたソノの携帯電話を拾い上げる。
さすがに、もう着信音は途切れていた。
不在着信を知らせるランプが懸命にちかちかしている。
しばらくその点滅を眺めていた。
夜が近づく。
訪れた静寂に、頭が冷えてくる。
何やってんだろう。俺達。
ついさっきまで、いつもの秘密基地でぐうたらと過ごしていたはずだ。
それがどうして、こんな寂れた場所で、自殺未遂の真似事に付き合わされているのだ。
点滅するランプだけに目を落として、彼女の意図を考えた。
赤羽園。
彼女の行動は、いつだって、なんらかを調べるためにある。
まあ、たしかに、この状況でなければ得られない情報を、彼女は得られたのだろうが。
それにしても無茶が過ぎるのではないか。
――本当に死のうと言う気があったとしか思えない。
「ねえツカサ」
静寂を溶かした声が夜を呼ぶ。
「……何」
「たすけて」
ふっと世界が暗くなった。
陽が沈んだのだ。
振り返ると、暗闇を背にしたソノがこちらを向いていた。
表情はよく見えないが、笑顔ではないのだろうと解る。
ツカサは即答する。
「当然だろ」
逃げなかったのは。
君からそう言われるのを待っていたからだ。
2018年10月23日
▲
[戻る]