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Fictional forest
「レッドライト・コール」

 ツカサは携帯電話をポケットに仕舞い込んだ。
 林は雨の名残でまだ湿っていて、外よりかいくぶん肌寒い。
 風の止む刹那に息をひそめる。
 たった一瞬の静寂がはっきりと耳鳴りを誘う。
 くぐもった高音に目を閉じる。
 自らの脈動が痛いほどに早鐘を打っているのがわかった。

 可能性の話だ。
 考えたことはあった。
 何度だって。
 そうであってほしいと願っていた。

 直前の通話を思い返す。
 たしかに、ツカサがセイと出逢ったのは、きのうがはじめてだが。
 森に近づいてはいけない――その言葉を聞いたのは、はじめてではなかった。
 その時点で気づくべきだった。
 いや、気づいていたのだ。
 予感が明確な意識となって現れはしなかっただけで。

 ツカサは深く息を吸って、吐いた。
 ――とにかく落ち着かないと。
 この「可能性」は、まだ俺が扱える範疇にはない。
 不確定要素が多すぎる。
 だから、もう考えてはいけない。
 忘れ去ろう。
 なにもなかったことにしよう。
 いつも通りでいることが、今のツカサには何より先決だ。
 いつになく明確に怪しまれている、今は。

 湿った空気を何度か吸って吐くと、徐々に耳鳴りが収まってくる。

「……よし」

 通話履歴を入念に削除して、ツカサはきびすを返した。




 もう一回行こう。
 なんてソノが言い出したのは、解散直後、公園の出口でのことだった。
 シヅキを基地に残してぞろぞろと公園を出ると、ウミが先に会釈をして去ってゆくのがお決まりだ。
 二人になったところで、目の前の相手に通話をふっかけ、回線を繋いだまま別々の帰途につく。
 普段はそうだ。
 が、今日に限って、ソノはツカサに通話をかけなかった。
 代わりに飛んできたのが、これだ。

「……え、なに?」

 一瞬、意味がわからず、ツカサは素のままで聞き返した。

「いや、だからね。きょう行った廃墟。もっかい行かない?」
「え? ……いまから? 俺らで?」
「うん。だめ? これからなんか用事ある?」

 ソノは薄手のカーディガンの袖をつまみながら首をかしげる。
 ツカサは反射的に一歩退く。
 彼女は何気ない仕草のひとつひとつに言い知れない凄味があるのだ。
 その半数以上が顔の傷跡のせいだろうが。

「いや。用事はない……てか園、自転車は?」
「今日は歩きで来たの。じゃあいこう」
「待て待て。説明してくれ。なんでいま、二人で?」
「え、だって……結局ばたばたしちゃってあんまり調べられてないし。ツカサは調査つきあってくれるって言ったし。ウミくんは廃墟だめって言うし、しーちゃんは調べる気なさそうだから。二人の方がよくない? 昼はみんなと一緒がいいから抜けたくないし……だから、いま」

 慌てて問い質したのはいいが、返ってきたのは至極まっとうな理由だった。
 ツカサは幾度か逃げる理由を考えたが、どれも不自然に思えて口をつぐむ。
 夕刻、帰宅ラッシュのはじまった駅前の喧騒に、いたたまれなさが増してくる。
 結局、頷いてしまった。 

「やった! 早速いこ!」

 満面の笑みで返して、ソノはツカサの手を引いた。

 日の沈みかかった住宅密集地は暗い。
 昼間の印象通り、こうも暗くなると廃墟の佇まいはいっそう陰鬱だ。
 穴どころか深淵と呼ぶに値する暗闇が、正確にはたんなる冷気が、半開きのドアからただよってくる。
 調査をしているうちには完全に陽が落ちるだろう。
 そうしたらぜんぶが深淵だ。
 気を抜いたら呑まれてしまいそうな。
 それにそぐわないきらきらした好奇心の目で、ソノが迷いなく玄関へと駆けた。

「はーっ、ついたあ。けっこう遠いよね」

 路地から廃屋を見つめたまま動かないツカサに、ソノが快活な声をかける。
 にこにこしている。
 彼女は調査となると何が起ころうが決まって笑顔だ。
 ツカサはある種の執念じみたものを感じていた。
 それにしても彼女の立ち振舞いの明るさは背後の闇を強める役割しか果たしていない。

「帰りてえ……」

 心の声が出た。
 出た、と気づいて慌てて繕おうとしたツカサに、間髪入れずソノが問いを投げる。

「あれ、もしかしてツカサ怖い? こういうの駄目だったりする?」
「えっ、あ、いや、そんなことは」
「初耳! そうなんだあ。そっかごめんね連れてきちゃって」
「ちょっ勝手に納得するなよ」
「違うの? じゃあ調べるエリア分担していい?」
「それはやめて」
「ふふ。冗談。正直なのはいいことだよツカサ」

 そう、どちらかというと。
 どちらかというと、ツカサは夜が怖い。
 夜は、暗闇は陰鬱だ。
 外ならいい。
 この町はつねにどこかのだれかの気配がしていて、安心感がある。
 ただ室内でひとりとなるとそうはいかない。
 いつだって黒い空洞がこちらを見ている。そういう気がするのだ。
 その空洞の具現化した建物が目の前にある。
 そこに自ら踏み入るのは、ツカサにはいささか勇気のいることだった。

「ほら行くおツカサ。隣にはいてあげるからー」

 くるりと舞い戻ってきたソノがツカサの背を押した。
 ここまで数十分もの道のりを歩いてしまったことを、ツカサは早くも後悔し始める。

「……やっぱ帰っちゃだめ?」
「えっそんなに怖いの? ツカサってお化け屋敷で失神するタイプ?」
「さすがにそれはない。いや……もう……いいよ行くよ」

 あきらめたふりをして、ぼそぼそと言う。
 まあ、実際、廃屋には入りたくないのだが――逃げなかったのはツカサ自身の選択だった。
 本当は逃げなくちゃいけなかった。
 いま、このタイミングで、平生のリズムを保たないということが、何に繋がるのか。
 それくらいは、わかっている。

「ほんと? よかった。ツカサ頭いいから話してると調査捗るんだよねえ」

 ソノは至って朗らかである。
 すこしばかり憎らしさを感じながら、ツカサはおずおずと敷地内へ踏み出した。

 昼間も暗かった一階はもはやなにも見えない。
 ソノが玄関を押し開けがてら携帯の液晶で足元を照らす。
 ツカサもそれにならって液晶を点灯する。
 床を這っていたちいさな虫が、驚きに足を早めるのが見えた。
 先ほどはフロアを調べるなどと言っていたが、ソノの足取りはすぐ階段に向いた。
 荒れ果てた一階、二階には、もう興味もないようだ。
 ツカサはじっと黙って暗闇に耐えるようにソノの後を追う。
 ぎしぎしと耳障りな音が、等間隔に耳を打つ。
 言われてみれば確かに、ツカサにも階段の様子の異質が理解できる。
 虫も埃も少ない。

「ツカサはさ、なにか思い付く? こんな廃墟の、なんにもない上階にわざわざ足を運ぶ理由。それも複数回」

 ゆっくりゆっくり、一段ずつを入念に見つめながらソノが口を開いた。

「……たとえば」
「うん」
「ここで死のうとしていた、とか。誰も見ないところだから。その計画をたてていた」
「ああ、それ、ありだね」

 ツカサの妄言にソノが何度かうなづいてみせる。
 ありなのか。
 なにも言わないのもよくないと思った末の、苦し紛れの回答だったのだが。
 ツカサは内心では驚きながら、表面では静かに、暗がりを進んだ。

「でもねえ。こんなきったないとこで人生最後なのは嫌じゃない?」
「まあ、そうだな」
「そういうとこ、死ぬ計画練る子は気にするもんだよ。できるだけ綺麗なところで死にたがるのが、まあ一般的なんじゃないかな」
「自殺に一般的とかあるのか」
「どうだろ。実際死んじゃう人は少ないから、一般もなにもないかも。でも計画だけ立てる人は少なくないよね」

 ぽつりぽつりと言葉を交わすうち、ようやく二人は三階にたどり着いた。
 目を夕陽に焼かれた。
 強い緋色が、ベランダからまっすぐに飛び込んでフロアを照らしている。
 階下の呑まれそうな闇とは隔絶された空間だった。
 ぱたん、と二人して灯り代わりだった携帯電話を閉じる。
 もともと赤茶けた木造の柱が、よりいっそう真っ赤になってこの空間をささえている。
 それは回る赤色灯のようで、ひどく不安定に思えた。

「ツカサ、あのね、正解なんだよ」

 赤色灯の脇に立って、ソノが振り返った。
 逆光で表情はよく見えないが、口調から笑顔だろうと解る。

「え、なにが……」

 聞き返そうとした矢先、甲高い電子音が静寂をつんざいた。
 驚嘆に思わず飛び退いたツカサの視線の先で、ソノが鳴り出した携帯電話を手に息をつく。
 出るでもなく、切るでもなく。
 ただ、一瞬、笑顔の消えた横顔が見えた。
 彼女は鳴り続ける携帯電話をツカサにぐいと差し出す。
 反射的に受け取ってから、えっと声が出て、当惑して手の中の端末を見つめる。
 サブディスプレイに煌々と映された発信者の名前に見覚えはない。
 なに。出ろってこと?
 混乱に言葉を迷った、その一瞬のことだった。

 彼女のかげが夕陽を遮る。
 ツカサが目をあげたときには、その背はもう柵の上にあった。
 冷えた風に長い髪がなびいている。
 ちかちかと。
 記憶に呼応して、景色が明滅する。
 理解は、たぶん、状況にしては早い方だった。
 早すぎるくらいに。
 だって、見慣れている。

 ――彼女は飛び降りる気だ。



2018年10月23日

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