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Fictional forest
「サイレント・ワーニング」

 森に近づいてはいけない。
 その言葉がずっとずっと頭のなかにこだましていた。
 警告じみた文言。
 だがセイにとって何より危険だったのはその言葉自体だ。
 軋む板を踏み締める度に全身が重くなるような。
 上に進むだけのことに息苦しさを伴うような。
 そんな行き過ぎた『警告』に耳も塞げず、ただ逆らった。

 わかっていた。
 ここまでの拒絶反応が出て察しない方がおかしいのだ。

「この向こうに『森』がある」



 階下でひとり待っていたウミに体調が悪いからとだけ言って、高橋成は逃げるように帰宅していた。
 嘘ではない。あの時はほんとうに苦しかったのだ。
 理由もないのに慌てて立てきった玄関扉に背を預ける。
 まだ四肢に震えが残っている。
 普段とひとつも変わらない自宅の内装にも、安堵より先に目眩をおぼえて蹲った。

 ――俺は。
 なんで。

「何も知らないくせに……」

 こぼした言葉は無意識の産物だった、
 口をついて出た。それこそ口癖のように。
 部屋の白壁が、磨かれたフローリングが、じっと小さな責苦を聞いていた。
 それがやけに馴染んで、セイは、そうかと思う。
 俺はずっとそうだったんだ。忘れていたあいだじゅう。
 何も知らないくせに、ただわけもわからず恐怖して逃げた。
 何も知らないくせに、根拠のない直感に身を任せてきた。
 何もはっきりしていない。
 セイの記憶も、『森』のことも、秘密基地の彼らのことも。
 知ろうとしない。怖いから。
 そういうの、もう、やめにしないか。
 ――なんて自身を糾弾するのも、いったい何回目だろう。
 それすらセイにはわからないのだ。

 肩にかけたままの鞄から、重い振動音が響いた。

「わっ……なに!」

 必要以上の動揺に肩を跳ねさせ、セイは乱雑な鞄の中から携帯電話を取り出す。
 メール着信。
 きのうになって急に増えた連絡先が、早速活用されたようだ。
 はーっと息をついて、新着メールを開く。
 差出人は湊月咲。
 体調を心配するだけの当たり障りない文面が白いディスプレイに光っていた。
 急に熱を持った頭が冷めて、セイは携帯を手に立ち上がる。
 靴を脱ぎ捨て、部屋の中心に駆けていって、なぜか息を潜めながらアドレス帳を開く。

 そうだ、彼は。
 なにかを知っている。

 通話ボタンを押し込むと、数回のコールで風の音が聞こえ出した。

「あ……もしもし。湊さん、高橋です」

 小さな声でぼそぼそと喋り出したセイの耳に、ここ二日で耳慣れた穏やかな声が届く。

『成。体調大丈夫? けさ雨に濡れてたしなあ、風邪?』
「あ、いや。大丈夫……明日は行けると思います」
『そ、よかった。お大事に』

 通話口の向こうでツカサが微笑んだのがわかった。
 セイも自然と口元をゆるめる。

「あの……いま、その、聞いてもいいですか」
『うん。どうぞ』

 葉擦れのさらさらした音が、ひときわ大きく聞こえていた。
 たぶん、林のなかだろうか。
 ともかくも彼はひとりでいるらしい。
 それなら、とセイは携帯を握る手の力を強める。

「さっきの……、なんだったんですか」

 言い方を迷った挙げ句、なんの具体性もない発言をした。
 向こうから、かすかに苦笑するような息遣いが耳をついて、少し気恥ずかしくなる。

『確認するけど。君には何が見えた?』

 声音のトーンもそのままに問われる。
 ――セイは廃屋での記憶を脳裏に反芻した。
 まばゆい外界に臨むぼろくさい柵の向こう。
 ソノの後姿が光に眩んだ一瞬のこと。

「……森、でした」

 郊外の住宅街が広がるはずのそこが、一面のみどりに染まっていたこと。
 森に近づいてはいけない。
 警告が割れんばかりに響いて気が狂いそうだった。
 さあ逃げ出せと魂が叫んでいた。
 目を背け階下に脱しても、木々のうねる声が追ってくる。
 あれはたしかに森だった。そうとしか呼べない。
 けれど、普通ではない。
 だってあの森は存在しないのだから。

『じゃあ、同じだ』
「湊さんも見えたんですか」
『うん見た。あの辺だと見えるよなあ』

 あっけらかんとした口調でツカサが説いた。
 どこかで壮絶な話を覚悟していたセイは、その口調に当惑する。

『廃墟で三階建てって聞いたからもしやと思ってた。ビンゴだったな』
「え、えっと?」
『あー、あれ、たまに見えるんだよな。人気がない高いところが多い、よくわからんけど、そういうもんなんだ。……あっこれくれぐれも内緒な?』

 セイは数度口をぱくぱくさせて、そして閉ざした。
 ずいぶん、不思議な話だと思う。
 あのとき感じた、途方もないおぞましさを考えなければ、面白がることも可能な話題。
 ただ、セイにはそれができない理由が多すぎた。

「あの、湊さんに聞くのも、よくないとは思うんですけど。あの子……紫月も、見えてますよね? 森」

 伊田紫月。
 セイは彼のことがいちばん怖い。
 だからいちばん知りたい。
 記憶を失ったセイに声をかけ、秘密基地に連れ込んだ張本人だ。
 口を利かない、やけに端正な文字を書いて、やけにきれいな絵を描く、こども。
 彼は、たぶん、セイのすべての問いに答えられるのだろう。
 何を聞いたとしても、何も語ってはくれないが。

 ああそういえば絵をもらったのだった。
 思い出して、セイは通話のかたわら鞄を開く。
 クリアファイルに挟んだ画用紙を引っ張り出して、眼前の机に置いてみる。

『紫月のことは俺もよく知らないんだ。なんというか、あいつめちゃくちゃ無口だから』

 呆れたような、寂しいような、そんな口調でツカサが答える。
 セイは静かに画用紙に目を落としたままうなづく。

「……そう、なんですか」
『でも、うん。森は見えてると思うよ。紫月も』
「ですよね。はは、すいません。あとでちゃんと本人に聞きますね」

 紙面に花が揺れていた。 
 碧い光が木々を包み込む。
 ――彼らしくない絵なのだ。
 セイは午前に見た彼の過去の作品の数々を思い返す。
 ささくれ立った木造建築。
 海風のにおい。
 ひろびろとした農園。
 誰もいない、どこかの風景。
 それらは一貫して写実的だった。
 同時に退廃的でもあった。
 自然のなかの景色であるはずが、命の気配をまったく感じない。
 ただそこに在る事物を淡々と描き出した代物だ。
 少なくともセイはそう感じていた。
 それが、目の前のこの絵は真逆なのだ。

 セイは花をずっと見つめていた。

 そしてふいに思い立って口を開く。

「そうだ湊さん。ずっと聞こうと思ってたんです」
『うん。どした?』
「俺。あなたに会ったことありませんか。きのうより前に」
『え……? いや? ないと思う』
「じゃあ、兄弟とかいますか」
『……いや? ひとりだよ。なんか心当たりが?』
「いえ。ただちょっとなんとなく、みどりの目に覚えがあったんですけど。じゃあ偶然かもしれないですね」

 ツカサは驚いたか、あるいは戸惑ったか、しばらく沈黙した後にそっかとだけ返した。
 長話すいませんでした、また明日、と伝えて、セイは通話を切った。


2018年10月20日

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