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Fictional forest
「マリンブルー・リグレット」

 伊田紫月は絵を描いている。
 基地で暇な時間ができると、いつもおもむろにクレヨンを握って、安物のスケッチブックに向かう。
 朝方からの雨が止むまで。
 与えられた曖昧な空白時間を埋めるため、シヅキは今日も戸棚を開いた。

 最初に絵を描かせてもらったのは、シヅキがこの基地にやってきてすぐのことだ。
 たぶん二年くらい前の、夏だった。
 口のきけないシヅキに、自己表現の機会としてか、ツカサが画用紙を差し出してきたのだ。
 筆談に関しても、決して口数が多くはないシヅキを、少しは理解したかったのかもしれない。
 が、シヅキは絵など描いたこともなかった。
 クレヨン自体、はじめて目にした始末だ。
 最初の画用紙は、馴れない画材への好奇心からなる、ぐるぐるとした試し描きに費やされた。
 どうかな。なにか描いてみない?
 笑顔で尋ねたツカサに向かって首肯した時には、すでに、シヅキは自らのやるべきことを定めていた。

 シヅキがクレヨンを引っ張り出すと、めざとく興味を示したらしいセイが寄ってくる。

「絵、描くの?」

 無視するほどの話題でもない。
 シヅキはスケッチブックを開きながら首肯する。
 が、好奇心旺盛な少年といちいち会話を続けるのも面倒なので、閉じかけた戸棚を再び開く。
 ずらりと並んだファイルを一冊抜き出して、セイに手渡した。
 そこにはシヅキがいままでに描いた絵がみっしりと収まっている。
 さっさと納得して口を閉ざしてくれよ。
 祈りながら、いよいよ画材に向かった。

「え、見ていいのか? ありがとう!」

 隣でパラパラと紙をめくる音がする。
 シヅキは油性塗料の塊を白紙にあてがい、目を閉じた。

 描くのはいつも同じものだ。
 風景、と言って片付けてしまえばそれまでの、なんてことはない風景画。
 海のある村。
 たぶん、シヅキの絵画から読み取れるのは、それだけだ。
 古びた木造建築と、舗装のない砂利道、畑、自然なままの木々、その向こうにちらつく海。
 そういうものを、シヅキは二年前から猛然と描きつづけている。
 とはいえ、一般的なこどもがすらすらと描けるものでは到底ないことを、シヅキは知らない。

「これ全部きみが描いたのか」、と、感嘆の声が隣から届いて、シヅキは目を開く。

 首を縦に振ると、ファイルを手にしたセイはわかりやすく目を丸くした。

「すげえ。俺は一生かかっても描けないや」

 シヅキはとりあえず微笑みを返しておく。
 内心は、少しばかり呆れていた。
 少年の視線に若干のぎこちなさ、あるいは恐怖を見てとれるのは、気のせいではないはずだ。
 むしろすこぶる不信感をもった目で見られている。
 昨日のことがあれば当然か。
 もしかすると本人は隠せているつもりなのだろうか。
 無理がありすぎる。
 それでも話しかけられるというのは、ようするに、探られているわけだ。
 彼に探る気があるのだけは、ありがたい。
 シヅキは曖昧に笑んだまま筆を執った。

「なあ、見ててもいいか」

 飽きなければ、どうぞ。
 ちいさく首肯して、紙からは目をそらさずに手を動かす。
 青く薄く霞む地平線。
 それから手前に黒々と林のかげを置いて。
 遠い水面のきらめきを、白で塗りつぶす。
 気づけば視線はひとつではなくなっていたが、シヅキは手を止めなかった。
 おおかたの行程が済む数十分後まで、基地には雨音だけが響いていた。

「紫月」

 呼ばれて顔をあげると、片隅で本を構えているウミ以外の全員と視線がかちあった。

「珍しいな。そういうの」

 何気なく言ってツカサが指したのは、自然、シヅキの手元の画用紙だ。
 海岸沿いの林のさなかに、ぽつりぽつりと背の低い花が咲いている、
 波の光と相まって、白く、木々の暗がりに存在感を放つ。
 一見して花々自体が光っているようにも見える。

「あんまり幻想的なの描かないんだと思ってた」と、ツカサは不思議そうに笑んだ。

 まあ、そうだろう。
 シヅキは紙の繊維だけに目を落として夢想する。
 ――わたしはフィクションを描かない。
 余計な想像を、『記録』に介入させてはいけない。
 そもそも、記憶した時点で、脳内でどれだけ補正がかかったかもわからないのだから。 
 けれどもこの一枚は確かにフィクションだった。
 隣で熱心に画用紙を覗き込んでいるセイを、ちらりと見る。

 完成させた絵を、そのまま隣に差し出した。

「え……?」

 ぱちぱちと瞬いて、セイが首をかしげる。

「えっと、くれるのか」

 うなづく。笑顔も交えておく。
 セイは、受け取った画用紙をまじまじと見つめてから、ぱっと表情を綻ばせた。

「あ、ありがとう! うわ、びっくりした。大切にする!」

 純真なその笑顔からはすぐさま視線を背けて、シヅキはそそくさと画材を片付ける。
 先ほど出したファイルも含めて丁寧に仕舞い込む背中に、ふと快活な声がかかる。

「しーちゃん、ほんと珍しいねえ。人に絵あげるなんて……成くん成くん、私にも見せて」
「あ、はい、どうぞ」
「おお、相変わらずしーちゃんの絵、かっこいいね」

 ソノの好奇心が騒ぎ始めたようだ。
 人知れず息をつく。
 大丈夫、と自らに言い聞かせる。
 部外者に見られても、困るものでは、ないはずだ。

 シヅキは片付けを終えると席を立ち、出口に向かった。
 画材で汚れた手を洗うためだ。
 ちょっといってきます、のつもりで軽く手を振って、出口側に立て掛けられた傘を握る。

「あ……紫月、俺も行くよ」

 後ろからかかった声は予想通りだ。
 振り返りもせず頷いて、シヅキは傘を広げ林に踏み出した。
 木々から滴る水を傘が受ける。
 雨が止んでいるかどうかは、ここではほとんどわからない。
 が、肌寒さはなくなって、木々の狭間に湿気がこもりはじめている。
 なるほど、暑くなりそうだ。
 うす茶色の多い景観だけが、正確に季節を指している。
 シヅキは、どこか慎重に、折り重なった枯葉に滴を散らして進んだ。
 あとから足音がついてくる。

「あのさ、紫月」

 かすかに振り向くと、ビニール傘の向こうのみどり色と目があった。
 ツカサは、真剣を通り越した無表情をシヅキに向けている。
 ――もう、ぜんぶ、遊びでは済まされない。
 彼はとっくにそれを解っている。

「前置きしないよ。紫月。……成とどういう知り合い?」
「……」
「『森』絡みなんだろ。なんでここに連れてきたんだ」

 林は水と風の静寂に佇んでいる。
 息を潜めなくても、ここには、誰もいない。

「君は逃げてきたんじゃなかったの」

 問いは物言わぬ木の幹にぶつかって、近場をくるくると反響した。
 シヅキはただ大きめにため息をついて答える。
 何を言うにしろ言わないにしろ、傘を片手にしていては筆談ができない。
 だから、まずはどんどん進んで林を出た。

 雨はすっかり止んでいるようで、雲の切れ間に晴天が覗き始めていた。
 林を背に二人、無言で傘を畳む。
 視線が痛い。
 シヅキは仕方なくメモ帳を取り出して、自分の傘をツカサに預けた。

『湊さん 助けてください』

 簡素なメモ用紙を、背の高い彼の胸元に押し付けて、シヅキはうつむいた。
 ペンを握る手が冷えきって、字が普段よりも荒い。
 ツカサは、目を合わせることのないシヅキを、当惑して見下ろした。

「……助けるって、何から?」
「……」
「えっと。じゃあこれだけ聞かせて。……成の記憶は、戻すべきもの? 俺はそれに関わってもいいのか?」

 シヅキは、すこしだけ間をおいて、首肯する。
 首肯してしまってから、すぐに首を横に振った。
 ――違う。
 違うんだ。
 ほんとうはわたしが貴方を守らなくてはいけない。
 関わらせてはいけなかった。
 だけど。

『貴方しか彼を戻せる方がいないから お力を貸していただきたいのです。早くしないと』

 殴り書きしたペン先が止まる。
 駄目だ。冷静じゃない。
 用紙を握り潰して、新たな一枚に書き直す。

『貴方に成さんを戻していただきたくて連れてきたのは確かです けれど 森には近づかないでください 無責任ですが お願いできませんか』

 やっとしたためたそれを渡して、シヅキは恐る恐る顔をあげた。
 気温が上がり始めたからか、緊張からか、紙を握る手が汗ばんでいた。
 ツカサはメモをじっとにらんで、神妙に口を開く。

「それは、うん、大丈夫。最初からそのつもりだけどさ。……なんで、わざわざ俺に?」

 それは。
 それは、言うまでもないことですよ。
 シヅキはメモ帳を閉じ、ちいさく困ったような笑みを返した。



2018年10月16日

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