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Fictional forest
「ノーフィルター・シーナリー」

 高い所が嫌いだ。
 遠ざかる背中を思い出すから。
 風の残響が、まだ両手に残っている。
 引力に従って、ぼくらの距離は加速度的に開いていった。
 割れたガラスが、きらきら光って、足元に散らばっている。
 煤けた手すりを握りしめて、ぼくは震えて下方を見ている。
 緑に混じって見えたかすかな血の色に息ができなくなる。
 徐々に大きくなるざわめきが遠く聞こえて、どんどん遠くなって、意識が途切れた。



 朝、目覚める瞬間が、ウミにはいちばん苦しい。
 重い瞼を持ち上げても、暗い部屋の天井はぼんやりとしか知覚できない。
 パジャマの袖で額の汗と涙とを拭う。
 じめじめした布団を緩慢にはね除け上体を起こすと、血の足りない頭が重みを増した。
 体調が悪い訳じゃない。
 たしかに、ちょっと血圧は低いらしいが、なによりも重いのは気分なのだ。
 毎日、嫌な夢ばかり見る。
 9月14日。この日はそれが輪にかけてひどかった。
 それもそのはずで、昨日までの秋晴れはどこへやら、外では早朝からしとしと雨が降っている。
 低気圧。ウミには大打撃なのだ。
 ――休もうかな。
 窓からの水音に辟易して、枕元の携帯電話に手を伸ばしたとき。
 ちょうどそれがメールの着信を知らせて震えだした。

「何……」

 細く息をついてから着信音を止める。
 が、差出人の名を目にして、ウミの顔色が変わった。概ね明るい方に。
 湊月咲。件名はなし。本文は。

【虹が出てる!】の一言だけ。

 添付された画像はどうやら駅前通りの一角を映した写真だ。
 早朝のシャッター街に、通勤者だろう後ろ姿がちらほらと見えている。
 霧雨の降りしきる中だが、どうやらこれは天気雨らしい。
 かすかにさす陽光の先に、なるほど薄ぼんやりと虹がかかっていた。
 これを見せたいがためだけに、この時間にメールか。
 はしゃぎすぎ。
 わりとそういう人だ、とウミは呆れに笑みをにじませた。

「いや、朝……はやすぎでしょだんちょう……」

 おはようございます、本当ですね、とだけ打って返して、ウミはのそのそと身を起こす。
 やっぱり、行くことにした。



 細かな雨が風にさらわれてシャツを湿らせる。
 傘をさす意味がないな、とぼやきながらウミは公園の入り口に立ち止まった。
 知った顔がガードレールに腰かけていたからだ。
 咄嗟に、それ尻濡れないの、と思って見れば、わざわざハンカチが敷いてあって呆れる。
 立ってろよ。ハンカチを犠牲にする意味あるのか。
 自分の機嫌の悪さを勝手に内心のいちゃもんに昇華していると、ビニール傘越しに目があう。
 向こうが笑顔になる。

「あー、ちょうどよかった、はよー、福居」

 能天気な挨拶に毒気を抜かれた。

「……高橋……くん」
「無理にくん付けしなくていいけど」
「高橋」
「おー」

 人のよさそうな緋色の目が輝いた。
 湿気った髪をかきあげたセイが、小雨だからか傘も差さずに寄ってくる。
 元気な奴だな、と反射的に一歩引いて、ウミはぼそぼそと言葉を返す。

「ちょうどいいって、何だよ」
「基地の行き方わかんなくて」
「……なんだ」

 それでこんなところに。
 たしかに一回しか来たことがないとすると行きにくい場所ではあるか。
 納得して、ウミは傘を持ち直す。
 自然林エリアまでまっすぐ歩いて、林に入るところでついてきたセイに振り返る。
 かすかな優越感をもって口を開いた。

「傘。ないなら、入って」
「え?」
「ここ。木から水。……けっこう落ちるから。小雨でも」
「あ、うん。ありがとう」

 ――基地のことは俺の方が詳しいんだ。
 朝の機嫌の悪さが少しずつ溶けてゆくのを感じる。
 ウミは、いままで、秘密基地のなかではいちばん新入りだった。
 ここに来たのは今年の春。
 まだ疎外感が解消されてもいない。
 が、いざ外から人が来てみれば、ウミにもここの一員として振る舞うことができるのだ。
 そう気づいて――それがとてもうれしかった。
 来て良かったかもな。
 早々に思って、けれど顔には出さず、新顔と共に目当てのテントに辿り着く。
 シートをめくると、すぐさま耳馴染みの声が飛んでくる。

「あーおはようウミ。と、成も」

 毛布を肩にかけて机に突っ伏していたらしいツカサが、顔をあげてこちらを見ていた。

「団長。寝てたんですか」
「あはは、ちょっと早起きしすぎてさ」
「でしょうね……」
「あっ。もしかしてメール、起こしちゃった? 悪い、ウミ朝よわいのに」
「いや、平気です。起きてました」
「マジ? よかった。あーそれでさ、さっき駅前で虹がね……」

 ツカサは眠い目をこすってうきうきと虹の話をはじめた。
 待て待て――朝、弱いとか、言ったことないんだけど。
 見ればわかるのか?
 いや、昼も夜も常に低気圧をまとったような振る舞いをした覚えしかないのだが。
 最初のうちはそんなことを考えていたが、珍しくもない虹との邂逅にやけに目を輝かせているツカサを目にしていると、だんだんどうでもよくなる。
 ウミは定位置に鞄と腰を下ろしつつ、やんわりと相槌を打つ。
 セイがその隣で興味深そうに話を聞いている。
 息を吸う。
 悪夢の余韻が消えてくると、やっと普段通りに文庫本を持ち出す。
 本に守られた空間でひとりになる。

 繰り返すが、ウミはひとりが好きだ。
 が、ウミひとりでは、悪夢を振り切ることができない。
 だから、ここにいる。

 大して興味もない本のページを何回かめくったあたりで、湿った落ち葉を踏みしめる音が基地の外から聞こえてくる。

「おはよう諸君寒いね。雨は昼までには止んで気温も上がるらしいよ。九月下旬にもなって夏日だって! 最悪だね!」

 気象情報を早口で告げながら、赤羽園が笑顔を覗かせる。
 隣で傘を畳んでいたシヅキが、軽く会釈をした。

「下旬にはなってないよ。おはよう、園、紫月」
「おはようございますー。たしかに変な天気ですね」
「……おはようございます。赤羽さん、しいちゃん」

 口々に言うと、いよいよ全員集合だ。
 ツカサ、ソノ、シヅキ、ウミ、セイの五人。
 ひとり増えただけだが、普段よりずっと賑やかな気がして、ウミの本を握る手に力が入る。
 ページ上部から覗くように見た世界は湿っていて薄暗い。
 だというのに、彼らはごく自然に笑っている。

 強いな。
 ――強いんだ、たぶん。
 少なくともここで笑わなければならない理由が、彼らにはあって、ウミにはない。
 それが、ウミの、ここでの「ひとり」だ。
 好きだとは言えない部類の。

「ねえ、成くん」

 ページをめくる音が、ソノの声とかぶった。
 はい、と短く答えたセイが顔を上げる。

「調査、さっそくなんだけどね。晴れたら、昨日あなたが言ってた廃墟に行ってみようと思うんだけど、いいかな?」

 ウミはバリア越しの視界にいくつもの歪を見た。
 いつもはおちゃらけているソノが、やけに真剣な目をしていたことも、
 提案を聞いたセイが、かすかな当惑に緋の目を揺らしたことも、
 背後で聞いていたツカサとシヅキが、示し併せたように目配せをしたことも、
 すべて、ウミは見逃さなかった。
 指を添えていたページが気づけばたわんでいる。
 あわてて離すも、かすかな折れ跡が残ってしまった。


2018年10月14日

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