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Fictional forest
「はじまり」

 ――セイは虫の羽音で目を覚ました。
 全身の痛みに薄目を開くと、膝を抱えた自らの腕に黒い虫が這っている。

「うっ……わ、きもっ」

 かすれた声が出た。
 慌てて振り払うと、動かした腕にひきつるような痛みを覚えて、セイは再び踞る。
 固く埃っぽい壁際。
 ずっと妙な体勢で気を失っていたから、身体中の間接が凝り固まっている。
 セイは奥歯を噛みしめながら、ゆるゆると周囲を見回した。
 長年放置された空き家の様相だ。
 すべての窓にガラスはなく、枠だけが残って、吹き込んだ枯れ葉が溜まっている。
 吹きさらしのフロアには、かろうじて腐らず直立した柱がぽつんと立って、虫の住処になっている。
 セイがいたのは、どうやらベランダらしい突き出した空間の隅だった。
 錆と、酸のにおいがする。
 不衛生だ。最初に抱いた印象はそれに尽きた。

 なんだ、――ここ。

 軋む身体がなるべく痛まないよう、ゆっくり立ち上がる。
 と、からん、と音をたててポケットから何かが落下した。
 携帯電話だ。
 落ちた拍子に画面が開いて、薄暗がりに煌々と現在時刻を示していた。

【2009/09/12 16:23】

 見慣れた画面だ。
 セイはしばらくぼうっとそれを見て、それから緩慢に拾い上げる。
 ストラップも何もついていない、銀色の折り畳み式ケータイ。
 すんなりと手になじむ。
 ぱたんと画面を閉じると、サブディスプレイが再び時刻を光らせる。

【2009/09/12 16:24】

 そこでセイはあれっと思った。
 自身が手にする端末を、しげしげと見て、深呼吸をした。
 錆のにおいが頭に飽和してくらくらする。

「携帯……俺、持ってたか……?」

 変わらずのかすれた声が、廃屋にむなしく響く。
 そして、急に、違和感がセイの全身を殴り付けた。
 2009年? おかしい。
 見覚えのない数字。
 見覚えのない携帯電話。
 そういえば自分の衣服にすら見覚えがない。
 見覚えのない場所。
 聞いた覚えのないかすれた自分の声――
 覚えのないものばかり。
 視界がぐるぐるする。
 視点の位置も、やけに高い気がする。
 なにもかも現実じゃないみたいだ。
 ただ、全身の痛みと、吹き抜ける風の冷たさだけがセイを繋ぎ止める。
 ――現実。
 ここは、どこだ。
 わからない。
 確かめなきゃ。
 セイは閉じたばかりの携帯電話を開いた。
 なにか記録が残っていないかと思って。
 操作方法も知らないはずなのに、息をするように扱える自分が気持ち悪い。
 メールボックスは空。
 データフォルダも空。
 通話履歴も空。
 検索履歴も空。
 メモ帳は――あった!
 逸る指先をもたつかせ、セイは一件だけ残されたそれを選択する。
 そこには、ただ一言。

【森に近づいてはならない】

 ――深く、得体の知れない衝撃を味わう。
 息を止めて言葉を見つめた。
 抑揚のないゴシック体の羅列が、白地に浮かび上がっている。
 ぶぶ、と不快な羽音を立てて、光に誘われた虫が近寄ってくる。

 セイは、一瞬、頭が真っ白になって。
 次の刹那に、決壊した。

「ああもうっうるせえ! 邪魔すんなよっ!」

 痛む腕を構わず虫を追い払う。
 がむしゃらに飛び付いたベランダから外を見回す。
 意外と高い。三階か四階か。
 住宅街の屋根の連なりが、ちらりと眼下に見えた。
 夕陽が横殴りに目を焼いて、涙で景色がにじむ。
 そのまま止まらなくなって、錆びた手すりに追い縋る。
 無理に動かした身体よりも何よりも、ただ胸が痛かった。
 なにが苦しいのかもわからず息が詰まる。
 落とした涙が、眼下の長閑な町並みに吸い込まれてゆく。

 わからないことばかりだ。
 たぶん、それが、いちばん苦しいのだと思う。

「家っ……帰らなきゃ……」

 ぼろぼろ泣いた目をこすって、暗くなりだした外の景色をあらためて見返す。
 住宅街。なんの変哲もない。
 町から離れたわけでもなさそうだ。
 赤茶けたおんぼろの階段をおそるおそる降りて、セイは廃屋を出る。

 大通りに向かって歩いて、道行く人に駅の方角を尋ねた。
 聞けばここはひめき市内でもセイの家とはほぼ反対側の地域。
 見覚えがないのも当然だ。
 ――どうして、こんなところに。
 わからない無力感を携えて自宅に帰りついた時には、すっかり日も沈んでいた。

 履いた覚えのない靴をいつものように脱ぐ。
 記憶のなかと大して変わらない内装に安堵の息をつく。
 家具や調理器具の配置も、部屋の片付きぐあいも、記憶通りだ。
 両親はいない。それもまた記憶の通り。
 やっと力を抜いて――数少ない変わり果てた点であるところの、カレンダーを見つめた。
 2009年9月。
 記憶にある"きのう"からは、四年もの時が流れていた。
 四年。少年にはあまりに大きな期間だ。
 セイは、小学校のことしか覚えていない。
 振り返れば、壁際に見知らぬ学生服がかけられている。
 その足元には、難しげな中学教材が積み上がって塔になっている。
 そのどれもがまったく真新しいのを見て、セイはふっと表情を緩ませる。

「そっか俺、……学校、行ってないんだ」

 そりゃあ、咎める人もいないしな。
 でも、だったら、何をしていたのだろう。
 見覚えのないスニーカーは磨り減っていたから、引きこもっているわけでもない。
 部屋はそこそこ小綺麗だ。掃除も欠かしていない。
 家と、どこを、行き来して生活していたのか。
 セイはいつの間にか自らに数年分の記憶がない現状を認識しつつあった。
 まず、なんらかの痕跡を探して家中をひっくり返した。
 が、見つかった新しいものはせいぜい衣服か消耗品くらい。
 もとより物の少ない家だ。
 期待はしていなかった。
 その日は、それで終わった。

 翌朝になって、セイは町に出た。
 何かを探していた。
 新しい店があちこちに建っていた。
 小学校、中学校の近くにも行ったが、どちらにも馴染みがなかった。
 特筆できるのはそのくらいだ。
 あとは途方に暮れて歩き回った。
 諦めて帰ろうか、迷い始めたとき、シヅキに声をかけられた。



 ――以上。
 基地に連れ込まれたセイは、皆の見守るなかで拙い説明を終えた。
 個人的なことは言わなかった。
 不登校とか、家族がいないとか。
 それらはこの記憶喪失には関係がないと思ったから。

 基地にはどこかやりにくそうな空気が流れている。
 各々が気まずそうに口をつぐんでいるのだ。
 セイはいたたまれなさに目を伏せる。
 と、対角線に座っていたツカサが、呆然とつぶやく。

「森……?」普段の明朗さもない、まったくの素の声だった。

「うん」と、ソノが神妙に続いた。

「成くん、いま携帯ある?」
「あ、はい」
「調べても良い?」
「どうぞ」

 セイの手から携帯を受け取ったソノは、了承を得て中身のデータを調べ始める。

「森って。なんですか?」

 手持ち無沙汰に問うと、ソノは画面から目を逸らさず、「それを調べてるとこだったの」、と答える。

「私たち、いろんな噂を調べたりして遊んでるんだけどね。たまたま今日はそれが森だったの」

 ソノは何回目かの説明をしながら、目にも止まらぬ速さでセイの携帯を操作している。
 傍らで、シヅキがちょこんと座ってどことも知れないほうを眺めている。
 ――きみは知ってるんじゃないの。
 訝りながらも、この場でそれを問う雰囲気ではない。
 大人しくソノの作業を待っていると、ふいに、反対側で文庫本を閉じる音がする。
 福居ウミがすっとセイに向かって視線を伸ばしていた。

「高橋、……くん」

 ちいさな声で呼ばれ、セイは姿勢をただす。

「なんですか」
「……タメだよ」
「え、ああ、うん」
「たぶん俺とはクラスメイトだ」
「えっ? そ、そうなのか」
「会ったことない。から、よく知らないけど。……参考までに?」
「うん。ありがとう。助かる」

 やっとの具体的な情報に、セイは満面の笑みで答える。
 よかった。
 会ったことがないのは残念だったが、仕方がない。
 ようは、不登校仲間ってことだ。
 仲良くやれたらうれしい。
 そうは思ったが、お礼で会話が打ち切られてすぐウミはまた本を開いてしまった。
 学校のことは極力話したくないが仕方なかった。そういう感じだ。
 セイのために勇気を出して言ってくれたとは、有難い。
 勝手に好意的な印象を抱いて、セイはほほえみをもって座り直した。

「うん。たしかに、例のメモ以外はなんにもないね」

 ソノが携帯を手渡して、ありがとう、と言う。
 いえ、と返しながら受け取って、セイはやっと見慣れてきた彼女の傷跡を直視した。
 ――この場所は。
 いろいろ、あるんだな。
 直感とともに、話を聞いた。

「本体の累積データもぜんぶなくなってた」
「と言うと?」
「意図的にデータが消されてるんだよ。だから。その記憶喪失、誰かが仕組んだ可能性が高いと思う」

 冗談のような台詞を、ソノは至って真面目な口調で説いた。
 続けて、ツカサに向かって振り向く。
 ずっと押し黙ってうつむいていたツカサが、視線を受けてようやく顔をあげる。
 みどりの目を、はじめてはっきりと見て、セイが息を呑んだ。

「団長。……どうする? 遊びじゃなくなりそうだよ。やめとくならそれでも、私がひとりで調べるけど」

 問いかけは静かで。
 無言。
 一瞬の静寂に、ずっと聞こえていた木々のざわめきさえも止んだ。
 セイは答えない彼の目を見ていた。
 名前も知らない青年に、どこか、見覚えがある、ような――

 ふいにツカサが立ち上がってセイを見下ろした。
 その手が震えたことに気づいたのは、片隅で本を抱えていたウミだけだ。

「助ける――」

 言葉ひとつ、呼吸ひとつ。
 笑顔を作り直して、ツカサはセイに右手を差し出した。

「行く場所がないなら、ここに来て良い。そういう意味で、俺達は君を歓迎するよ。ようこそ、成。――俺は湊月咲っていう。好きなように呼んでくれ」

 セイも立ち上がって、机越しに握手と笑みを交わす。
 大きくて暖かい、男性的な手だ。
 やわらかく力を込めて、離す。

「記憶のこと、俺も協力してもいいかな」
「湊さん。はい。ありがたいです」

 彼はセイのことを知らない。
 直感して、セイは内心で首をかしげる。
 だったら、この既視感は。
 無条件に沸き上がるこの信頼感は、なんなのだろう。



2018年10月5日

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