見上げた空のパラドックス
117 ―side Aoi―

 柔らかに朝と白昼を繋ぐ光が少女を照らした。冬空色の目を縁取る睫毛が光を吸ってきらめく。ベッドに座って見ても私よりずっと小柄とわかる、華奢で儚げな女の子だった。おとなしそうな膝丈のワンピースがよく似合っているけど、色素の薄い髪には大きな青いリボンが結いてあって目を引く。甘いものを口にすると緩む子どもらしい丸い頬、音のしないようにフォークを置いた指先。すべてに言い得ぬ均衡があった。疑いようもなく、彼女は特別な存在なのだと、たちまち理解した。
 まあやっぱり兄はロリコンだと思うけど、そこは置いておこう。
 少女はその澄んだ色の目で、まっすぐに、私を見つめ続けた。
 視線に応えようとすればするほど身体に鈍い痛みが走って、やがてそれはひとまとまりの奔流になって鋭さを増していった。喉の奥がひきつって喘鳴がし出した。冷や汗が一滴、首筋を伝って清潔な患者衣に吸われた。
 ドッペルゲンガー。
 存在を直接圧迫され、圧倒される感触。本能的な焦燥。ここにいたい、という魂の叫び合い。
 直感した。論理はわからずとも。
 このままでいたら私が消える。
 それがいいな、とだけ思った。
 だいたい、私がここに生きていること自体が最初から間違いで、不正なことだったのだ。兄や辰巳さんに異能というありえないはずのエラーで守ってもらってようやく保たれて、生きているだけで愛しい人の命を削って。私を守ろうとする願いの歪みが、いまだにこの裏社会の、いやもう裏をつける必要もないか、社会の中枢を十年ものあいだ蝕んできた。
 どこからどう考えたって、私がいない方が――
 見ないようにしていた本音が、増大する痛みに混じって脳裏を叩いている。
 ――本当はいなくなりたかった。
 消えてしまいたかった!
 私のせいで生じてきた歪みのすべてが、ただ、ただ悲しかったから。
 だからこのままでいい。全力でやってもここまでしかできなかった私より、たくさんのことを成し遂げたあなたの方が、きっといいよ。私は少女に向かって微笑んだ。少女は静かに見つめ返した。痛みに研がれる世界の先端に彼女が立っている。
 電子音が響いた。
 兄に視線を振ると携帯を取り出したところで、すぐに電子音は途切れた。その顔を見て、兄らしくない、言い表せない感情の奔流の前に呆然とするような顔を見て、私は誰からの着信だったのかを悟った。そうだ、私がこの状態なら辰巳さんも危ない。電話くらい出ればよかったのに。

「お兄ちゃん、」

 もうやめてほしい。私の命で辰巳さんを傷つけたくない。私の命は私だけに選ばせてほしい。それが即ち死を意味するとしても、何をやってもうまくいかない私が大切なあなたたちを食い潰すよりは、ずっといいでしょ?
 兄は、傍らの恋人の手を愛おしそうにほどいて、やっぱり何かを諦めたように微笑って、そうして私の手を握った。痛みに震える拳を包むように、優しく握って、同じ色の目を合わせた。
 彼の身体が急速に温度を下げていくのを、私はこの手ではっきりと感じ取った。

 碧。生きような。俺たちと。

 紡がれた言葉はたったそれだけで、途端、『何か』が大きく歪むのがわかった。
 あつい。胸を押さえる。ちがうな。あたたかい? 思ったよりも苦しくない。この熱は何。すべてが不条理に間違っていく。胸の真ん中で無条件に溢れ出した熱はしかし身体を焼き付くすことはなくて、少しだけ泣きたくなったくらいのもので。ほのかに窓外からの光が揺らいで、青を帯びたような気がした。胸の熱さに気を取られて、全身の痛みがすっかり消えたことには後から気がついた。
 あれ、おかしいな。
 おかしいよ。何もかもが。
 冗談のように痛みが消え去って。言い知れない熱だけが残って。
 兄が手を離す。立ち尽くす青の少女に振り向く。少女は己の喉を押さえて、声もなく、ひどく端正な笑顔を浮かべる。

「青空、」

 名を呼ばれて、彼女はただ頷いた。
 私はまばたきをした。白昼の病室に満ちる光をほんの一瞬まぶたに遮断して、コンマ一秒の夜を通って、また、目を開いた。
 彼女の姿が見えなくなっていた。一瞬に満たない夜が明けたら、もう、最初から何もなかったみたいに、病室は二人きりになった。
 全身の力が抜けていく。痛みも叫びも存在の圧迫もなくなったことがわかったから。
 ベッドテーブルを見れば反対側が一口欠けたケーキがまだある。わずかに風を感じた。人ひとりがいなくなったぶんの空気の流れだ。暖かな陽光の中でそれだけが冷たく感じた。
 病室の外からどよめきが聞こえる。扉が開いて、監視の人たちが何事かと問いただそうとする。兄は何も聞こえないとばかりに動かず、空白の方を見ていた。震えながら放たれた言葉に滲む、これまででいちばん大きな諦念を、私は確かに聞いた。

「そうだな、」

 誰もいないのに遅れた相槌をうって、

「もっと早くこうすればよかったな……」

 身体が軽い。
 私はまた怒られるのを覚悟しながらも勝手にベッドを降りて、兄の隣へ歩み寄った。立っても歩いてもどこも痛まない。

「お兄ちゃん」

 何が起きたかは明白だ。
 繋がりが、命の残量が、増えた。
 兄の肩が震えている。感傷か寒さか、それとも早まった死への恐怖だろうか。

「お兄ちゃん、泣いてるよ」

 喉の奥で、言わないうちに叫んでいた。
 そんなことしなくてもよかったじゃん!
 ただ私と辰巳さんの間の糸を切ってくれたら、辰巳さんも回復して、あの子もここにいられて、それでよかった。それで幸せだったでしょ。私がいなくても、私がいない間こそあなたたちは色々と成長して楽しそうにやってたじゃん。またそんなにも大きな犠牲を払って私を守る必要が、どこにあったの。もういいんだよ。どうにかこうにか戦いも終わって、私にはやりたいことも、できることもなくなっている。だからもうよかったのに。
 その柔い声に私の名前を紡がれたとき、鮮烈に、だけど酔いがするほど優しく生じた熱が、まだ心臓を震わせている。
 命も愛も、こんなもの。いらないよ。
 あなたが絶望してどうするの。
 どうして私にばかり、自由に絶望さえさせてくれないの!
 言いたいことを言ってしまうにはしかしこの熱が邪魔で、私は声もなく涙を落とす彼の隣に立っていることしかできなかった。いつかそう遠くないうちに死ぬまで、ずっと、それしかできないだろうと悟った。
 周りの大人たちは難しい顔をしている。
 仕方がないので私が代わりに答える。あの子ならもうここにはいません。桧理子に聞いたらどうですか、そっちが専門のはずですよ。
 兄はほんの数分で泣き止んだ。

「ひのきちゃんに電話してくる」
「え。やだ。ここで電話して」
「ルール違反やろ」
「えー個室だよ? よくない?」
「あんたそういうのやめた方がええよ」

 兄が去ると私は大人たちに取り囲まれて、まずベッドへ戻れとか、今のはどういうことだとか、色んなことを言われた。どういうことと言われても何も知らない人にわかりやすく説明できるほど私は賢くない。面倒だなあ、なにもかも。
 兄は一分もすると病室へ戻ってきて、ひのきちゃんすぐ来るって、と言った。来てくれるの!? 慌てて自分のケータイを見る。やっぱり一件としてメールへの返信はない。大丈夫なのかな。まだ怒ってるんじゃ。
 そんなこんなで時間になって昼食が運ばれてきて、大人たちへの説明もなあなあで、兄もちょっとどっかで飯食ってくるわと行ってしまって、心の追いつかないまま状況が進む。なんとか味の薄い昼食と半分残っていたケーキを食べ終えたあたりでこんこんとノックがあって、わざわざノックして返事を待つなんて誰かと思ったら、辰巳さんだった。髭も剃らずに急いで来たみたいだ。息を切らして、うつむいた紫紺の目を上げる。

「篠は?」
「たぶんまだ食堂かな」
「そ……」
「辰巳さん身体は大丈夫? 大変だったよね、ごめんね」
「……今は平気だよ……」

 彼は閉めた扉に片手で掴まったまま、力なく息を吐いた。私は彼に言うべきことがわからず、でも身体が心配で、その仕草のひとつひとつをじっと見ていた。一時期よりもふらつきはなさそうかな。

「碧」
「う、うん……」
「……俺たちが、お前が生きてるうちに。帰ってきてくれ」

 今だけは嘘をつかないでくれ。
 彼はそう続けて、重く確かな足取りで、私の隣に立った。
 私は笑った。笑う以外にどうすればいいのかわからなかった。やっぱり辰巳さん、怒ってる。もう怒るエネルギーもないくらいに怒っている。黒く深いところに沈んだそれはもしかすると憎しみの域に達しているのかもしれない。私もきっと彼のことを何度も裏切ったのだから。
 それでもあなたには私しかいないの?
 悲しいことだよ。それは。
 私さえ生まれなければ――とまた考えるけれど、ずっと言えない。ずっと言わない。言葉は喉より上にはのぼらず、胸の奥にばかりぐるぐると絡みついていく。
 私は、きっと、これから短い命をかけて、彼らの期待する元気で健気な美山碧を演じ続けるのだろう。エラーによって植え付けられたこの熱を糧にして。
 歪んでいく。
 彼の手を取った。

「もちろんだよ。たくさんごめんなさい。さいごは幸せになろうね、辰巳さん」


2024年4月5日

▲  ▼
[戻る]