見上げた空のパラドックス
115 ―side Sora―

「なんかあったらすぐ呼べよ、ひのきちゃん」

 篠さんは黄色いベッドランプの下から本をどかして、ケータイと水、ゼリー飲料と鎮痛剤、ビニール袋をそれぞれ置いた。部屋の入り口で待っていた私に振り向くと疲れを隠すように微笑み、行こうか、と言った。私はじっと頷いて踵を返す。最後にちらりと見た桧さんは、少し不安になるくらい、ぴくりともせずに眠っていた。
 朝は風に舞う程度の小雨が降っていた。
 花の色が褪せて見えるのに、まだらな薄雲りの向こうで空の色ばかりはっきりとしている。空の突き抜けるように鮮烈だった秋を越えて、透いて乾ききった冬をも越えて、春の青は薄く淡い。空模様の曖昧さに線を引くようにときおり強風が吹く。花のにおいがする。
 傘を差したけれど駅に着く頃には全身が湿っていた。前にもこんな日があったなと思いながら傘を閉じ、知らない駅まで二人で電車に乗った。一言も話さなかった。
 私は病院の敷地に入る瞬間までぐるぐると、逃げることを考えては否定してを繰り返していた。
 碧さんに会いに行くということは、どうなるか、もちろん身に沁みてわかっている。
 消えたいわけではない。
 消えたいわけではないけれど、もう私が消えたとしてもこの世界は私を大きな大きな歯車にして回ろうとしているところで、わざわざこれ以上なにか残そうとする必要もない。それなら今さら平穏に甘んじていないで、いっそやりたいことをやりきった方がいいでしょう?
 やりたいこと。
 今はただ。

「青空」

 ふと、病院の敷地へ続く開きっぱなしの門の前で、篠さんが立ち止まり、振り返った。ヘーゼルイエローは何の表情も示さない。

「ずっと、あんたに言ってなかったことがある」
「はい?」
「……あんま言いたく、なかったんやけど」

 風がまた雨粒を運んだから彼は煩わしそうに髪の水気を払った。言おうとするほど、彼はどこか視線を鋭くして、

「あんたを探してる人がいたよ。あんたの元いた世界から、遠路はるばるな」
「……、……え?」
「焦げた制服着てて、青い目の女の子を探してるって。男。もうここにはおらんよ。そいつ俺に話しかけてすぐ、どっかに消えたんだ。――そいつもあんたと同じで、怪我とかしないみたいだった」
「同じ……」

 語るうち彼は目に見えて機嫌が悪そうになって、最終的に小さく舌打ちして門を越えて行った。私も一拍遅れて、慌ててついていく。
 前の世界のことなんて最近はぜんぜん考えないから、急に思い出そうとしてもすんなりとはいかない。特に中学のことはおぼろげで、心当たりに至るためにはしばらく考えを巡らせなければならなかった。焦げた制服ということは最期に一緒にいたということで、待って、誰だっけ。誰かいたよな。一回ちゃんと思い出したような気もするんだけど。さすがに印象が薄い。

「だ、だれだっけ……」

 思わずこぼすと、前を早足で歩いていた篠さんに鼻で笑われた。何?
 駐車場の脇道を抜け、エントランスを目指す。

「元カレではないって言われたが」
「それはそうですよ。あなた以外と付き合ったことないので」
「マジ? うれしい」
「あり得るんですか。私の故郷はもう滅んで誰もいないって聞きました」
「さあ。わからんよ。もしかしたら他にもあるんかもな。あんたみたいなエラーが」
「へえ」
「反応うす」

 緩やかな階段を登り、自動ドアを抜けた。細長い傘袋にビニール傘を通すと、彼が手を差し出したので、会釈をして持ってもらった。総合受付は二階にあるらしくエスカレータに乗る。

「これを伝えたら、あんたどっか行っちゃうと思ってたわ」
「どうして?」
「俺らがいなくてもあんたはひとりにならないってことやんか。あんたと同じ気持ちになれる奴がいるんなら。あんたと同じ次元で話せる奴がいるんなら、あんたはここを離れるって」
「……篠さん。私があなたたちを愛しているのは、まず、あなたたちが人間だからですよ」

 総合案内に声をかけて、病棟への行き方を教えてもらう。

「すぐに死んでしまうあなたたちのことが、羨ましくてしょうがないんです」

 小さな声は隣を歩く篠さんにだけ届いた。この場所で語るにはあまりにも不謹慎だったから。広々とした待合室にごうごうと老若男女の小声がひしめくさまは、確かに穏やかなのに、どこか不安にさせる響きがある。みなが不安だからだ。病気、怪我。行く末の最悪には死がある。私は並ぶソファに座る大勢の背を見つめて、まぶしくて視線を足元に戻した。横切ってエレベータホールへ向かう。

「あなたたちが私のことを死ぬまで覚えて、もっていってくれるのが、いちばんうれしいです。だから、そのためにできることは全部やりました」
「……」
「本当に同じのがいるなら愚痴くらいは言い合いたいですけどね。あなたを捨てて離れたりはしませんよ。愛してますから」
「一ミリも信用ならんわ。あんた逃げたやん」
「……ごめんなさい。気まぐれで。でも、少なくとも今の本心です」

 言い聞かせても彼は安堵を示さなかった。

「……なら、なんで来たんだよ……」

 案内された通りの道順を進み、辿り着いた病棟のナースステーションに声をかける。美山碧に会いに来た、と言うと看護師は一瞬めんどくさそうな顔をしたけどすぐに隠して、許可を確認するから傍のリフレッシュルームで座って待つようにと言った。
 自販機とベンチの並ぶ空間はサウンズの休憩室にも似ているけど、そこよりもずっと景色が白い。今は私たちの他に誰も利用していないみたいだった。篠さんが何飲むと聞いてくれたからいちごミルクと答えた。

「青空、なあ、やっぱり帰らん?」
「でももう碧さん退院決まってて、入院中のうちしかお会いできないんですよね?」
「勝手にメール見んな」
「すみません、見えちゃって」

 彼は少し迷ってミネラルウォーターのボタンを押した。片手間にピンク色の紙パックが飛んできて受け取る。

「碧に会ってどうするつもりなん」
「許されるなら一発くらい殴りたいですけど、それは許されないので……」

 パックにストローを刺して、だけどまだ口をつけず、薄い白色灯を見上げる。

「嫌味を言いたいです」
「……そんなことのために?」
「人間っぽいでしょう」

 笑いかけた。私に作れるいちばん明るい顔ができたと思う。篠さんは押し黙った。無駄にカッコつけてしまった自覚があるから私は誤魔化すために甘い液体で口内を湿らせた。最近はとんと甘いものを摂っていなかったから、おいしくてちょっと感動する。
 もう今日は悲しい言葉を言いたくない。
 思うことなんていくらでもある。
 急に存在を奪われて、何もわからないまま終わってしまうことが、怖い。何もない独房で不規則な呼吸困難と失神を繰り返して、絶望しなかったわけがない。だから、もう、自分で終わらせる。それだけのことなのかもしれなかった。確かに、ギリギリまで粘って篠さんの隣にいることが払うべき誠意なのかもしれないけれど。それが正しい、と言われたら黙るしかないけれど。
 だって――

「篠さんは、もう大丈夫ですから。私がいなくても」

 彼は目を逸らして、柔らかいペットボトルで私を軽く小突いた。ぜんぜん痛くなくて笑ってしまった。
 廊下から複数人の足音が聞こえてくる。看護師さんと、物々しい雰囲気の大柄な男性が数人。そりゃあ死刑囚と殺人犯の面会なのだからこの程度の監視はつく。私は立ち上がりながらパックを一気に飲み切って、ゴミ箱へシュートしてから、彼らに微笑みかけた。

「危ないことは何もしませんよ。……でもちゃんと記録を取ってくださいね」


2024年4月3日

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