見上げた空のパラドックス
75 ―side Aoi―

 やっとここまできたんだ。
 長かったな。
 兄が数年前に買ってくれたかわいい白のボアコートを凍風が揺らしている。見上げればガラス張りの壁面に冬の青が反射して目が眩む。都心のこじゃれた駅から徒歩で数分。地上十階建ての、ここでは普通サイズのビジネスビル。
 サウンズレストエンターテイメント本社。
 そもそも最初からここへ来るのが正解だったろうと今ならわかる。兄への引け目とか隠していた色んなこととか、そういうのがあったから随分な遠回りをしてしまった。そして今はもう、そういうのを気にする段階ではなくなった。
 私がどうしようとサウンズも鹿俣さんたちもきっと変わらないのだろうし。
 同じく、私の在り方も変われないのだろうから。
 緊張にゆっくりと息を整えながら踏み込んだエントランスはあっけなく私を屋内へ通した。広々と明るく整えられたホールの奥に受付があるけれど人はいなくて、用があれば呼び出すタイプらしい。右手にエレベータが並んでいる。三台あって、それぞれ行き先表示が違っている。

「……」

 不必要に息を潜めて、堂々とエレベータの前に立ってみる。いちばん上へ行けるものを視線で探していたところで、ちょうどその一つからぽんと柔らかい音がした。小さく肩が跳ねる。何かの覚悟を決めるための一瞬があって、扉が開く。

「こんにちは。やっと会えたわね」

 ひとり、私より少しだけ背の低い、きれいな女性が降りてきて、私に向かってそう言った。さらりとしたボブカットに上質そうなスーツ。たたえる微笑や発する声音にまで端正に作り込まれた甘やかさがある。ああこのひとには隙がないんだ、強いんだ、という否応のない印象。誰なのかはすぐにわかったから、逆に安心した。ぜんぜん無関係の人と鉢合わせる方がよっぽど困るもん。
 桧理子。
 私が数ヵ月追い続けてきたこの国の裏社会の、トップだ。

「美山碧です。はじめまして。いつもありがとうございます」

 とりあえず会釈した。

「あはは、やっぱり肝が座ってるね。碧ちゃん。改めて言うけれど、私は桧理子。ややこしいから下の名前で呼んでね」
「理子さん。こんなきれいなひとだったんですね」
「なにそれ、ふつうに照れるからやめてよ」

 彼女は自然な笑みを頬に繕ったまま、翡翠色の目の奥で何かを鋭利に見つめたまま、流れるようにエレベータのボタンを押して、たった今閉じた扉をまた開いた。

「来るでしょ?」
「はい」

 上昇はなめらかだけど勢いがよくて耳がつんとした。平然として二人、一歩分の距離を保って立っている。互いにすべきことがわかっているから過剰な緊張感はなかった。
 桧理子の持つ異能は、通常時は目の前にいる人が対象の読心だ。けれど、強く意識して潜ることで、より具体的な情報を集めることもできるらしい。彼女は十中八九、私のことならなんでも知っているだろう。そして、私も彼女について主要なことは大抵知っているつもりでいる。だってまあほら、たぶん私の義母にもなるみたいだし。

「碧ちゃん、最近、急に色んなことを考えるようになったよね」
「今まで何も考えてなかった反動ですよ」
「そうね。きょうだい揃ってそうかも。でもあなたのそれは、天才の域だ」
「そうなんですか? 光栄です」
「本当に生まれ変わりなのね」

 彼女の口振りはさっぱりとして喜びも悲しみも含まなかった。こっちよ、と案内されるままにエレベータを降り、ドラマでしか見ないような広々とした社長室に招かれる。よくよく見れば壁や床に弾痕があって笑っちゃった。マフィアのドンの部屋だな。
 ガラス張りの壁の向こうには乾いた冬晴れとまっすぐな四車線道路が覗く。高所恐怖症なら卒倒しそうだな、と思いながら私は窓辺に、彼女の隣に立った。

「この窓ね。外からは覗けないようになっているのよ」
「マジックミラー的な?」
「そう。無駄にお金がかかっているよね。こんな広い部屋いらないのに」
「本題にはいつ入るんですか?」
「せっかちだなあ。いいよ、好きなように質問して頂戴」

 翡翠の目が細まる。私はそのスーツの下に銃が隠されていることを知っている。その銃口が決して私に向かないことも。

「――あなたはこれから何をするつもりなんですか?」

 ほとんど確認の問いだ。

「朸くんのことは殺さないよ」
「……他の仲間は?」
「もちろん殲滅するわ。そういうお仕事なの」
「私が鹿俣さんの隣にいることに有効性はありますか?」
「あるんじゃないかな。あなたを戦闘に巻き込むことはできないようになっている。でも、あなたはわざわざここへ来たわね。動かない方か確実だったんじゃないかな」
「今、鹿俣さんたちは無事ですか?」
「無事だよ。何も起きていないわ」
「よかったです」
「ふふ。脅せない子ね」

 隠されるのも偽られるのも慣れている。今さら動揺することはない。けれど私のそういう性質すら彼女はわかりきって澄ましている。負けていないけど、勝てない。そういう感じがする。
 足元を一直線に往来する色とりどりの車の天井。ガラスに映る私の顔はつまらなそうだった。

「理子さん、私があなたを止めることは可能ですか」
「止める必要があるの?」
「……ないのかもしれません。でも今はみんな暗い顔をしています。あなたも含めて」
「そうだね……」

 憂いを帯びた甘やかな声は私に立ち向かってすらくれない。

「碧ちゃん、私ね、朸くんのことだけは離れていても見えるの。どこにいて、何を想っていて、何をするつもりなのか。全部知っているの」
「……全部知って泳がせていることに何の意味があるんですか」
「ふつうに、私の意思だけで彼の人生を決めちゃダメでしょ。彼の意思で、彼の努力で辿り着いてくれないと、不必要に失望させてしまうわ」
「そんな理由で?」
「そんな理由で。自殺されたら嫌だもの。残念だけど、朸くんは俊くんの信奉者だからね」

 翡翠の目が暗くきらめいて、彼女は笑った。
 しゅんくん、なんて気安く呼ばれているのを初めて聞いたから、青柳俊のことだと認識するのに一瞬の間がかかった。彼がいなくなったのはたった14年前のことなのに、もうすっかり伝説に、おとぎ話になってしまった英雄の名前だ。私と同い年で自殺した、たぶん普通に生きていたはずの男の子の名前。
 私と似ているらしいけど実感もない。物心つく前に死んでしまった人のことなんて私にはわからない。何故わざわざ死ななければならなかったのかも、遺書を読んでも理解できたわけではなかった。

「私たちは、諦めているんだよ」
「何を?」
「踏みにじる側は幸せになっちゃいけない。って、みんなが思っているの。俊くんも、朸くんも、社員のみんなも、あなたもね」
「……」
「あなたは安心した。何もしなくても自分の寿命が短いことに」
「はっきり言ってください」
「みんなに『生きたい』と思わせたら私の勝ち」

 ふっと、見つめ続けていたはずの彼女の印象がぼやけた。何かがずれたような気がしてまばたきを繰り返した。真横からこめかみに銃口を当てられるまで一秒の間、私は起きていることのすべてに気がつかなかった。
 へえ。
 興味深いな、とだけ思う。そんなことできるんだ。

「怖くないんでしょう?」
「……知ってる匂いですね」
「あなたが死んだらどうなると思う?」
「お兄ちゃんと辰巳さんが心配ですよ」
「じゃあ二人とも自立できたら?」
「越したことはないです。私がいなくても生きていけるなら、それがいちばんですよ」
「辰巳が聞いたら悲しむ言葉ね」
「そっか。今のは撤回しておきます」

 言いながら、下がりかけていた銃口を掴んだ。
 一歩、退いて引っ張ろうとして、少しの攻防があって私が負ける。固い鋼の感触だけを残した手のひらを振る。奪えたら有利だったけど、素人の私には無理か。

「危ないよ」
「実弾が入っているんですね。私が私を人質に取ったら、あなたはどこまでできますか?」
「あいにく私は忙しいの。今以上のことはないわよ」

 ようやく空気がびりついてくる。
 取り合ってもらえた、とうれしくなって思わず笑った。呆れの笑いでもあった。みんなに生きたいと思わせたら彼女の勝ち。そんな理由で、悪びれもせずに真剣で全力だという顔をして、あなたはどれだけの人を踏みにじり続けるの? ひどい矛盾だ。けれど成り立っている。彼女の言うみんなとは片手で数えられるほどに狭い。徹底的に線を引いている。線の外側のことは、どこまで訴えても彼女には届かないのだろう。

「悪い人しかいないんですね、裏社会って」
「あたりまえでしょ」

 やはり根本から壊さなければならない。
 そう、思った。
 思った瞬間にまた思考があふれて、できうる限りのことが浮かんでは消えた。ありとあらゆる可能性が脳裏に明滅する。完全にハッピーな答えなんて無いなりに、どれも不可能には感じなかった。ただ目の前の強者に向き直った。
 息を吸った。
 私は――

「だめだよ」

 視界が揺れた。
 わずかに、覚えのある、硝煙の匂いがした。


2024年1月12日

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