見上げた空のパラドックス
72 ―side Tatsumi―

 俺の過ごす日々は変わらなかった。
 何かの宿命がどうしようもなく揺らいでいる横で、眠って起きて、眠って起きてを繰り返す。大切なことがいくつもあったはずなのに、大切な人たちがすぐ隣で大きな決意を固めている時に、それでも俺にできることは。やってもいいことは。
 ないのだろうなと冷静に思っていた。守られている立場というのはどうしたって弱い。抗ったところで俺や誰の得にもならない。望まれた平穏のぬるま湯にずっと取り残されている。
 この焦燥の行く末を俺は見たことがあった。だからこそ、起こす行動を考えるときはよりいっそう慎重になる。とにかく、誰一人、突き放したくない。遠ざけたくない。それだけを考え、見失わないようにする。話し合いなら何度も試みた。試みをやめるつもりはない。けれど、速度が違うのだ。暴力的な解決法は効果が出るまでが早い。追いつけないまま、やはり取り残されたまま、大切な人たちの苦難をただただ隣に見ている。
 碧には特に頻繁にメールを送るようにした。義母がある程度の状況を把握してくれているとはいえ、彼女の行動は不透明で、何かが少しでも誤れば俺たちからは到底手の届かないところへ行ってしまいかねない。だから数日に一度、時に毎日。くだらないことでいいから何かを伝えて、何かを言わせる。そんな浅いつながりで、すっかり覚悟を決めてしまった彼女を繋ぎとめられるかはわからないが。
 対立しよう。
 そう彼女が宣った時、ああ、と思った。強く、はっきりと重なった。俺の大嫌いな覚悟をひとりで勝手に決めてしまった異端の少女と。本当に同一なのだと。
 だとしたら止められる気はしない。
 ただ。

『辰巳さん、頼まれた伝言やっといたよ』

 そのメッセージが届いたときは思わず数秒、息を止めた。

『そうか』

 なんて言ってた? と問う勇気はなかったし、碧もそれきり触れようとはしなかった。
 目を閉じた。
 何もかも、祈ることしかできなかった。
 不条理な別れが繰り返されることの無いように。

 そうして。
 俺は結局、篠の端末に送り付けられたおぞましい実験の報告書を読むことになった。ある程度の解読はしてみたがやっぱり知見を借りたい、と篠が申し訳なさそうに言ってきたからだった。彼も少女も浮かない顔をしていた。俺は五分くらい悩んで嫌々承諾した。彼らの苦しみなら俺も触れておいて損ではないだろう、俺にできることがあるのなら喜ぶべきだろう、と自分に言い聞かせながら。
 画像や動画はすべて隠した、文面だけのものを送り直してもらった。印刷して、俺は一日かけて論文じみたそれを何度も読み込んだ。エラーに関してはこれを書き上げたサウンズの研究部員と比べても人一倍詳しい自信があったが、それにしても、不可解な内容だった。『何か』によって定められた不死の完全性と不完全性。基準がわからない。数々の結果を反芻すれば基準なんて存在しないようにも思えた。
 エラーとは、最終的には思い込みの世界だ。術者がどこまで何を知っていてどんな思いでいるのか、そんな至極曖昧なことで現実に起こる作用が変わってしまう。
 彼女が異界からの訪問者であることを考えれば、彼女に作用しているエラーの持ち主はこの世界にいない可能性も考えられる。そうすると俺たちには詳細を知る由も打つ手もなくなる。
 消極的に。受動的に。ただ観察し、対処していくしかないのだ。

「なあ、篠」

 高瀬がいない時を狙って、答えなど期待せずに、俺は溢した。

「高瀬は本当に死なないのかな」

 篠はわからんとだけ言った。
 それから三人で演習場へ出社した。高瀬の訓練に俺が付き合うのは久々だ。以前と比べたら高瀬の異能の扱いは明らかに上達している。あるいは炎に触れることに少しずつでも心が慣れてきたからなのかもしれない。とかく、強い目をするようになった。
 まずはいつも通りのことをしてもらう。篠と少女が向かい合って異能無しの肉弾戦をする。こちらは完全に専門外なので、俺は冷えた柱に背をつけて熱いコーヒー缶を両手で握りながらぼけっと二人の攻防を見ていた。パッと見ただけでも格段に少女の動きが早く手数が多いのがわかるが、篠はなぜだか少女の動きのすべてをするりするりと躱してものともしない。結局は隙を突かれた少女が得物を取り落として終わる。相手が訓練されているから負けているが、相手が一般人ならばほぼ勝っているだろう。素人目でもわかる。彼女は異能や不老不死のことを考えなくてもただでさえ強い。
 それでもまだ備えろと上が言うらしい。気が重くなる。彼女の敵として警戒されている相手が誰なのかは、考えれば簡単にわかることだから。

「で異能を鍛えろって話なんだろ」
「ひのきちゃんはいっつも話が早くて助かるわ」
「お手柔らかにお願いします」

 よく見ろ。
 異能を扱うことにそれ以外は要らないが。何をどう見るか、を理解することがたいていひとりでは難しいわけだ。
 篠が俺の隣にふうと腰を下ろす。演習場の真ん中に残された少女には俺とここに通った頃と同じことをしてもらった。目を閉じ、自身の周囲に焔を出現させる。負担の少ないやり方を模索しろと指示した一日目にはもう燃焼を細く糸状に起こすことで力を使う体積を減らす技を編み出していたのだから筋はいいほうだ。急速な酸化現象の円環は少女の呼吸に合わせてゆらゆらと回りながら、少しずつ数を増やした。見入って待っていれば線香花火みたいにふっと消えて、少女が目を開き、凍える己の肩を抱く。

「だいぶ長くもつようになってるな」
「おかげさまです」
「それって拡張できるか。たとえば質量のある個体に作用させられるか」
「あんまり大きいものを変質させるのは難しいです。単純に結合を引っぺがしてヒビを入れるくらいなら、かろうじて……かなり疲れますけど」
「やっぱり空気が楽なのか」
「そうですね。気体と塵ならわりと」

 異能を数十秒も使用した直後だが少女の受け答えははっきりしていて、足元にふらつきもなかった。相当慣れたようだ。

「わかった。それじゃお前はとりあえず扱える気体を増やしたほうがいいかな。単純に空気中の二酸化炭素を集めてやるだけだって人は死ぬよ。もっと楽に戦う方法を考えよう」
「はい」

 篠が隣であくびをしている。こいつはお勉強的なワードが耳に入るとこうなるのだ。昔は大変だった。

「どれが何かっていうのは感じ取れるか?」
「うーん……違うのはわかりますけど」
「必要なのは普通に勉強かもな」

 足元に置いていた荷物を持ち上げる。こっちと言ってコンクリート踏むと、篠は眠そうに、少女は小走りでついてきた。向かう場所は決まっている。
 エレベータで上へ。サウンズレスト本社ビルは地上10階建てだが、地下が演習場、一階は受付とロッカーと食堂、二階三階が医療研究の区画で、五階に書庫がある。
 いくつものセキュリティを抜ける。五階はいつもしんと冷えていて紙の匂いがする。ここ嫌いなんだよなと篠がぼやく。俺もなんとなく好きではないが、けっこうよく来る方だと思う。少女は高く並び立つ棚を見上げてきょろきょろとしている。

「ここはもともと研究所だからな」
「空気が重いです」
「そうだな」

 物質干渉は異能の類型としては最もメジャーだ。使える資料なら腐るほどあるだろう。ある程度の目星をつけた棚の周辺に少女を連れて行き、脚立を持ってくる。

「使いたいもん自由に見つけてくれ。わかんないことは教えるから何でも聞け。以上だ」
「ひのきちゃあん、俺帰ってええ?」
「俺が用意できんのは異能の基礎までだぞ。実戦への生かし方ならお前の領分だろ」
「あーい……」

 だるそうにする篠をぱちくりと見上げた少女は、ずっと浮かない顔のまま、けれど従順にあたりを物色し始めた。


2024年1月4日

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