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見上げた空のパラドックス
61 ―side Sora―

「おはよう。俺も出社する」
「え」
「そんなに嫌か?」
「嫌っていうか……できない話が増え」
「できない話を聞きに行くんだよ。篠も連れていくからな」
「そんな、どうして」
「当たり前だろうが、篠の話なんだから。ほら、起こしに行くぞ」
「まってまって、先に寝癖直させてください……っ」

 洗面所で桧さんと鉢合わせた。ちょうど歯磨きを終えたところらしかった。
 どうしてこういう日に限って寝癖がついてしまうんだろう、寝相はいい方なのに。せめてもう15分早く、あるいは遅く起きればよかった。

「あの、身支度できたら呼ぶので出ててくださると……」
「お前……変なとこで女出すよな」
「失礼な。普段からふつうの女子です。ふつうの女子は家族以外には寝癖とか見せたくないもんなんです」
「わかったって」

 身支度を済ませ、リボンを結び、嫌々ながら桧さんと連れたって篠さんの部屋へ向かう。篠さんも当然のようにまた昼も夜も仕事をしていたのに、早起きさせるのも申し訳ないのだけど。そんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。彼はずんずん階段を登ると特段ノックもなく篠さんの部屋の戸を開き、容赦なく電気をつけて入っていく。私はどうしようと思いながら、ひとまず入り口に立っておく。

「篠。朝から悪いが起きろ」
「う」
「高瀬が母さんとやりあいに行くらしいから、俺らもついてくぞ」
「……まじ?」

 篠さんはそれはもう秒で起きた。眠りが浅くなかったか心配になるくらい。
 ノックなしで寝起きを覗くのもなと思って私はそっと廊下に息を潜める。初冬の朝方は凍るように静かだ。篠さんと桧さんの一言二言問答を交わしている声だけ漏れ聞こえる。今のうちに逃げ出してしまおうか、と考える。考えたところで「高瀬、逃げんなよ」と声がかかって肩が跳ねる。三人で乗り込むことはもう確定らしい。
 いちばん大切な二人の前で、二人が傷つくことを承知で、私に言えるのだろうか。自分は喜んで犠牲になるから、篠さんを、この世界に息づく愛する人たちの平穏を守ってくれ、なんて馬鹿げたことを。
 無理も我慢も泣くのも彼らの前で。それなら自棄も破滅も彼らの前で。やってみせろと、桧さんは言うのだ。

「そらちゃん、おはよ」
「……おはようございます。篠さん。すみません、こんな時間に起こしてしまって」
「朝飯なにがいい? ちゃんと食べてから行こうな」

 篠さんは今日とて穏やかだった。しかし言外にはこれまた私を一人で送り出すまいとの意図が見えて、私はもう微笑うしかなくなる。やさしいひとたちに囲まれている。逃げ場は、ないらしい。
 本格的に冬めいてくると東京は晴れが続く。褪せた蒼天のもと、私たち三人はぞろぞろと鈍色のコンクリートジャングルを縫って、幾日ぶりか、サウンズレスト本社ビルに赴く。エントランスに暖房はかかっておらず肌寒かったが、理子さんはやっぱり待ち構えていて、私たちがドアをくぐるなり笑顔を見せた。

「おはようみんな。ちょっとは元気になったかな?」
「……理子さん、あの……」

 まず聞きたいことは鹿俣さんがどうなったかだ。彼女はそっと唇の前に人差し指を立てると首を横に振った。やっぱり桧さんの前で鹿俣さんの話はできない。

「お話は地下でいいかな。何があるかわからないしね」

 翡翠色の目が細まる。常に強者の佇まいを崩さない彼女の半生や目的を、うっかり知ってしまっているから私はうつむいて従う。四人でエレベータに揺られ、暗いばかりの演習場へ。おのおのが緊張した面持ちでいる。

「さてと。まずは私からお話ししておくことがみっつあるわ。三人ともに聞いてほしいんだけど」

 打ちっぱなしのコンクリートに四人分の足音がひびいている。

「ひとつ。なるべく碧ちゃんと青空ちゃんを会わせないこと。これは命令じゃなくて、お願いね。まあ会わせる理由もないでしょうけど……積極的に避けてほしいの。理由はいえないけれど、あなたたちにとってはとても大切なことだよ」

 空いた演習場区画にたむろする。地下には空調がなく、エントランスよりもさらに寒い。

「ふたつ。ここから本題ね。言い訳させてもらうわ。私は、もうこの数年は美山くんを酷使しているつもりはないの。裏社会もかなり安定したものね。彼に難なくできる、余裕のあるお仕事しか振っていない。美山くんが休んでくれないのが悪いと思ってる」

 こちらが言うまでもなく本題をわかりきった口振りだった。
 不安になって青年たちを見上げる。篠さんはとつぜん自分の話になって目をぱちくりしている。桧さんは嫌そうな顔で、けれど小さくうなづいてもいた。

「みっつ。それでも青空ちゃんのことは本当に急いでたし、今も急いでいるの。無茶なこともした。これは私が悪いわ。最初から、青空ちゃんを本社に預けてもらった時点で私が個人的に隔離して、誰にも秘密にしていた方が、あなたたちは傷つかなかった。そうすべきだったと言われたら、まあ、否定はしないわ」

 理子さんは自虐的に語ると薄い笑みを浮かべて私たちに対峙する。
 私もつられて笑った。どう運ぶにせよ私を利用する線は譲らなかった、暗にそう言われたから。
 どうだろう。篠さんと桧さんと過ごせなかったとしたら、私はきっと今も鬱いだまま、一度も心の傷に涙しないままでいたはずだ。理子さんの目的に気がつくこともなく、わけも意思もなく流されて従って、ずっとうつろなままで。

「青空ちゃんの支えになるひとが必要だって、思ったんだよね。だって以前の青空ちゃんは脱け殻みたいで、殺せと言われたらひとを殺すでしょうけれど、決してなにか強い意志を持てる状態じゃなかったもの」

 そうだ。
 たとえ命の散り際を前にしたとて、美しいともうらやましいとも、思えなかっただろう。

「そのままじゃ難しかったの。私の目的の達成は。『青空ちゃんがもっと人間的でなければ』、『幸せでいたいと願っていてくれなければ』、いけなかったから」

 静かな声で理子さんはそう言いきった。
 どういう意味なのか、たぶんいちばん真相に近づいているだろう私にもピンとはこなかった。青年たちも難しい顔をしている。ただ暗がりに白い息を吐く。

「ここまでが私の言い訳。さあ、質問をどうぞ?」
「碧のこと。どう考えてるんだ」
「碧ちゃんに干渉する必要はないと思ってるわ。あの子ならしっかり悩んで自分で蹴りをつけられるし、私が何も言わなくても辰巳が支えてくれてる。危ない目に遇うこともなかった。まあそうね、そろそろ学校に行ってほしいくらいかな」

 桧さんが小さく息をつく。耳慣れた息遣いだ。

「美山くん、ついてこれてる?」
「……だいたいの趣旨は理解しました。……けど」
「うん、美山くん。私から言うと緊張しちゃうかもしれないけど、近所のおばさんのお小言だと思って、カジュアルに聞いてね? あなたは周りに心配をかけすぎです。頼らないことと、背負うことと、諦めることは違うよ。あなたはそれが全部ごっちゃだ」
「わかりました、お小言だと思って言い返します。それじゃあどうすればいいんです? 俺は仕事と子育てしかしたことないんですよ、ぜんぶ一人でね。お陰さまで」
「あはは! 言い返せるようになったんだね。そういうのでいいんじゃないかな。不満があるなら言えばいいわ、聞く責任は私にあるもの」

 ふと理子さんの視線から力が抜けた気がした。なんら支配的な圧倒を感じさせない、少女のようなまっさらな顔だった。薄暗い中にもそれがわかって私は驚きに黙っている。どう見てもこれが彼女の素の顔だった。
 ああ、と思う。やっぱり理子さんのことも私には恨むことができない。私をどうするつもりなのかくらいは教えてほしいけど、でもこの様子を見たら、どうせそんなに最悪なことではないだろうという気もしてきてしまった。彼女はどんな非道を行くにせよかならず誰かの幸福に配慮している、かのように私には見えたのだ。一人で何十人も理不尽に殺させられたのに、おかしな話だけれど。

「美山くん、あなたは本当に天才だったから。頼りすぎた自覚はあるの。でもね、あなたに捨てさせた少年期のぶん、ずいぶんこの国の治安が安定したのも本当だし、もし辰巳が戦力になっていればもっともっと早く終わった、っていうのも本当なんだよ。……なんてね、そんなの、子どもの人生を奪う理由には絶対にならないわ。だから私のせいでいいの」

 彼女の目に強さが戻る。
 頼らないことと背負うことと諦めることは違う。そう言ったばかりの彼女が、頼らず、背負って、諦めている。誰よりも先に、誰よりも多くを失っていた、だから彼女は頂点にいる。
 誰も何も言わなくなる。

「青空ちゃん。あなたは本当に良く回復してくれた。辰巳にも、美山くんにも、少なからず良い影響があったと思うの。私が思っていたよりもずっとね」

 彼女はそっと私の眼前まで歩むと、すとんと膝を落としてこちらを見上げた。フットライトに近づいたから先程よりも顔がよく見える。翡翠の目はやわらかく、そして決然として。

「大丈夫、まかせて。少なくとも美山くんたちと辰巳のことは守らせてもらうわ。私にできるだけしか、できないけれどね」
「……理子さん」
「お願いがあるの。聞いてくれる?」
「はい」

 どうとでも使えばいいと思った。私でいいのなら。愛すべき彼らが、少しずつでも、いつか幸せになってくれるのなら。
 彼女は甘やかな強者の声で告げる。

「もう少しだけ彼らといてあげて」
「――え?」
「もちろん、またひとを殺してもらうし、秘密で頼みたいお仕事もあるわ。あなたの覚悟は間違っていない。遠くないうちにぜんぶ失うことも。ただね、言ったでしょう。その前に、」
「……」
「あなたが感じた幸せを、あなたがいちばん大切にして。その感覚を、もう少しだけ身につけてきて」


2022年9月7日

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