見上げた空のパラドックス
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「俊ッ!!!」

 叫んだ。喉が壊れてもよかった。
 いつもはブルーグレーの明るく清潔な世界隊本部ビルは、とっくにあちらこちらが赤くどす黒く汚れていて、おかしなほどに静かで。俺は走った。血がぬめって転びそうになるがどうでもよかった。死臭の濃い方へ、死んだ仲間の目を閉じさせもしないで駆けて。俺はたどり着いた。
 この建物のいちばん上にあるいちばん重たい扉にほとんど体当たりをして押し開ける。目に映るのはどこまでも赤、赤、赤色ばかりだ。あの日を思い出した。雨に閉ざされたプラットホーム。無意味な虐殺。善良な一般人の命が目の前で散っていったあの日のうつろを思い出して、少しも心が痛まなかったみずからへの絶望を思い出して、それをたちまち救ってみせた宗教画を思い出した。場を飽和する死のにおいに、ただひとり佇んで、静かに、静かに、祈っていた幼い少年の、長い髪を思い出した。

 あの日と同じだった。

「はあ、はあ、……俊! おまえさ。帰って、きたんならっ、なんで俺を探しに来てくれないの!? 置いていかれるかとっ……思ったじゃん、馬鹿!」

 無茶苦茶を言っている自覚はあるが。もう別になんでもいいんだ。
 永らく世界隊を治めていた俺の実父が目の前に倒れている。一撃で首を切られたらしい。おびただしい量の、真新しい血のにおいがする。すさまじい慧眼でこの国の裏社会をまとめあげていたカリスマが、嘘のように動かない肉塊と化して転がっている。とうさん、ごめんな。やっぱり俺、全然、悲しくないや。
 そのむこうに。

「なあ話聞いてる? 俊ってば」

 ここで共に暮らした頃よりだいぶ成長して、しかし変わらずだいぶ華奢な背がある。ひろびろとした窓ガラスの前に立ち、夏空を負ったまま、動かずにいる。
 俺は苦笑して父の死体を跨ぎ越え、彼の肩を叩いた。昔ならこの程度の触れあいでも接触恐怖症で飛び退いたに違いないが、逃亡生活を経て恐怖症を克服した彼の反応は緩慢だった。

「おーい? 隙だらけだぞ」
「……あ。……藤崎。ごめん、きこえなかった。なに?」

 少年が振り返る。
 ほのくらい、青い色の目が俺を見上げた。彼は殺し方が綺麗だから、その顔にも身体にもほとんど返り血がついていなくて、感心してしまう。それにしても何人殺したんだ? 今日、その手で。

「俺を置いていくな、って言った」
「藤崎、どうせもう生きていけないでしょう。世界隊がなくなるんだもの。僕が殺す必要、ある?」
「おまえさあ……」
「うそだよ。出てこなかったら、ちゃんと探すつもりだった」

 そう言って彼はからかうように笑った。おまえ、だいぶ人間らしい顔するようになったじゃん。

 同級生。
 世界隊の内側でだけ、そんな愛称で呼ばれる存在があった。三人の少年を指していた。
 藤崎海。鹿俣朸。青柳俊。
 あの日。雨に閉ざされたプラットホームが赤く染まった日、俺たちは出逢い、この地に揃った。
 幼い子どもに思想と殺しを叩き込んで育て上げ、三人のうちもっとも成績のよかった者を、世界隊の次の長とする。そういう目的のもとで、極限の虐殺現場で、父がふたりを選びだし、連れ帰った。俺はただ父の隣で人がバタバタと倒れていくのを見て、そして言われるがまま、ふたりに声をかけた。だいじょうぶ? 行くところがないなら俺たちと一緒にこないか。
 父の見極め通り、ふたりとも優秀な殺し屋に育っていった。三年後には差が歴然としていて、俺は徹頭徹尾落ちこぼれ、青柳俊はあまりに奇才すぎ、何も起きなければ鹿俣朸が次の座を継いだだろうと言われた。
 ふたりは11歳の夏、世界隊から逃亡した。落ちこぼれの俺を本部に置いて、誰にも何も言わずに。

「なあ藤崎、僕、たまに考えるんだ」

 彼は窓辺に寄り添ったままぽつりぽつりと語った。世界隊の長の亡骸を背に、暴力的な夏の陽射しに目を細めて。

「君が一緒に逃げようって言ってくれたとき、……僕が君の手を取っていたら、どうなっていたんだろう、って」

 綺麗な指先で暑そうに髪を払うしぐさをする。まただいぶ伸びたな、おまえ器用だから自分で切れるのに。両親の亡骸を前に安堵して笑み、喜んで世界隊へやってきて、開口一番「髪を切りたい」と言ったおまえが、どうしてまた。

「……僕が、のうのうと生きることを選んでしまっていたら。きっとまたたくさんの人が、こわれてしまったんだろうなって」
「俊」
「君だって、ほんとうは人間を殺せないくらい、やさしいひとだったのに」

 おかしいね。彼はそうささやいて、その手が次の瞬間には俺の胸ぐらを掴んだ。後頭部を床に打ち付けてから跨がられていることに気がつく。汚れた刃が喉元でぴたりと止まる。誰のものかわからない赤黒い液体が一滴、俺の首筋に落ちて伝った。
 殺意だなんて曖昧なものがこの世に形をもって現れたら、きっと彼のすがたをなすだろう。青い目が澱んで澄みきって俺を見下ろす。俺はうれしくて笑っている。さあ、御慈悲はいらないよ。聖女であり死神であるおまえは、どうかその在り方のまま、さいごまでまっすぐに刃を振るってくれ。

「君をそんなにしてしまって、ごめんね、藤崎」
「……はは」

 そうさ、俺は優しい奴に生まれついた。人を殺したトラウマで身体を壊すくらい優しく、弱く生まれてしまった。殺し屋のボスの息子がだよ? どんなに冷笑されたことか! 優しくて得をしたことなんて一度もない。俺はただ、ただ世界隊の一員としてもうすこしでも認められたかった。逃亡した彼を追いかけて、青柳俊を連れ戻せるのは俺だけだって、結局俺にはそのくらいしかなくて、だけどそれだけで十分だと思った。伸ばした手は確かにかすった。掴める距離だった。それでも俺たちは頷きあって、手を離した。
 俺にはおまえしかいないよ。
 おまえが世界隊を潰してくれるのなら、俺もそれがいい。

「どうした。早くしな、俊」
「……なんか……、やだ。気に入らない」
「え?」
「今はいいや。どうせ死ぬのは夜にするし。もう少しだけ付き合ってくれる?」

 彼は刃を下ろすと力の抜けた笑みを見せた。しばらく会わない間によく笑うようになったのか、最期だから笑える精神状態なのかはわからないが、めずらしいなと思う。彼はいつも黙って孤独の底に沈んで、哀悼には花束を抱くくせに、いつも世界を恨むような目をしていたから。
 ぱちん、とナイフを折り畳む音がする。細やかに垂れ下がって俺の視界を狭めていた黒髪が揺れる。彼はそそくさと立ち上がって歩き出してしまう。なんでだよ。俺はあわてて後を追った。

「行こ、藤崎」
「どこに?」
「どうしよっか」
「なんかやりたいことでもあるのか?」
「やりたいこと。うん、みんなを殺したいんだけどね。今は、わかんないや。暇つぶししたいな」

 なんてさらりと言って、死臭の濃い廊下を軽い足取りで歩いていく。靴底だけは抗えず赤く濡れてぬめった音を出す。こんな、普通はおぞましいのだろう光景すら、彼がたたずむだけで美しく静謐なものに見えるのだから、もうどうしようもなかった。

「なあ俊」
「ん」
「なんで髪、また伸ばしたんだ?」

 たわむれに問うことにした。暇つぶしなら、いいだろう。
 彼はこんな立場の俺から見ても凄惨な家庭に育った。出逢った最初、彼は女物の黒いワンピースに長い髪という格好で、服も髪も肌もひどく丁寧に手入れが施されていて。そのすべてが母親からの狂った押し付けだった。美しい姿で美しい所作で、笑いも泣きもせず、常に穏やかに話し、父からの乱暴も黙って受け入れる、そうでなければ母が発狂してしまう――なんてことを彼は教えてくれなかったから、これは俺が勝手に桧理子から購入した情報の話だが。

「……なんでだろうね。髪なんて伸ばさなくたって信者はつくのに。なんていうかさ。奴らをこっちから利用してやろうって思ったら、じゃあ伸ばそうかなって。武装のつもりなんだ。変だよな」
「切ってやろうか?」
「え」
「もう誰も誘惑する必要ないだろ。だから、切ろう。おまえ長いの嫌いなんだからさ。最期くらい、好きな格好するもんだぞ」

 どこまでも赤色につづく廊下の中腹、彼がふと足を止める。俺はうっかり彼より一歩進んでしまってから急いて振り向く。どうせ今日が命日なのだから、美しいものから一瞬だって目を逸らしたくない。

「……、…………」

 彼は前触れも声もなく泣いた。その手で築いた屍の散らばる道に立ち尽くしたまま、澱みきって澄みきった目を見開いたまま。透明な雫がなめらかな頬を伝って落ちていく。誰かの血液と混ざって濁る。一滴、また一滴と。俺は声をかけるのが惜しくなって、しばらくは何もしないでぼんやりとその顔を見つめていた。

「……俊。……大丈夫か」
「……ん。大丈夫」

 おまえの言う大丈夫を信じたことは一度もないよ。

「キスしていい?」
「離れろクズ」
「よっし、元気だな」
「ちょっと。気持ち悪い顔しないで。萎える」
「へへへへ」
「藤崎さあ……よくこんなくさいところで盛れるよね……」
「おまえまだ臭いわかんの? 俺とっくに麻痺した」
「わかるよ。ちゃんと、死のにおいがする」

 彼が世界隊に初めてやってきた日と、まったく同じ段取りで。新聞紙とゴミ袋、櫛と鏡とハサミを持ってきて、俺の部屋に彼を招いて、髪を切らせてもらった。二年ほど伸ばしたという背中にかかる髪を、とりあえず首の真ん中くらいでざくざくと落としてから、少年らしく見えるように形を整えていく。とはいえ彼の方が器用なので仕上げは自分でやってもらう。俺は鏡を持つ係をする。敷いておいた新聞紙に落ちた髪をまとめてゴミ箱へ押し込む。
 見慣れた、世界隊に過ごした頃と同じ髪型の彼が、じっと鏡をたしかめる。その表情が、やわらかく緩む。

「……うん。こっちの方が好き」
「よかったじゃん。殺る気でた?」
「死ぬ気でた、かな」
「置いていくなよ」
「しつこ……」
「なー、ほんとに抱いちゃだめ? 恐怖症治ったんだろー?」
「急所はずしていい? きれいに切腹してあげるよ」
「目がマジなんだけど!? 頸動脈でお願いします!」
「いいよ。おいで」

 ぱちん。ナイフが伸びる音だ。とたんに心臓が高鳴る。やっぱりだめだ、わかっていたけど、もう俺には死を厭うなんて芸当はできそうにない。だって、死んだら、かならず祈ってくれるひとがいる。
 この世にあふれる森羅万象のうち、たったひとつ、哀悼にしか価値を見出だすことができなかった彼の、その冥い目が、俺は好きだから。
 かがんで、と言われたから膝を折った。従者がこうべを垂れるように首を差し出す。世界隊本部ビル居住区、17年暮らした私室の床を見つめる。緊張などあるはずもない。

「最期に言いたいこととか、あったら聞くけど」
「えー? 大好き」
「それだけでいい?」
「次があったらさ、生きることも実は楽しいって、おまえにもわかるといいよな」
「……、おやすみ」

 刃が空を切る音。衝撃に眩む視界。熱。とおくで液体のほとばしる音。彼の声。
 それが、俺の幸福な最期のすべて。

「僕は、もう二度と、生まれたくはないよ」


2022年9月5日

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