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見上げた空のパラドックス
59 ―side Sora―

「おかえり」
「桧さん。寝なくて大丈夫ですか?」
「お前を待ってた」
「えっ。何かありましたか。ごめんなさい、ちょっと待ってくださいね」

 桧さんが遅くまで起きているのもめずらしいし、ふだん口数の少ない彼から話を切り出されるなんてもっとただ事ではない。私はあわてて死臭のとれない服を替えて戻ってきて、座ろうとしたところで食いながらでいいよと言われたからキッチンへ小走り、軽く暖め直した食事を持ってくる。相変わらず彼らの前では食事を摂るようにしている。篠さんの作る料理はおいしい。
 テレビがついていないから、食卓は静かだった。秒針がけたたましい。桧さんは私が食べ始めてからもしばらく本題を切り出さなかった。眠くないのかな。大丈夫かな。心配をよそに彼は閉じた本の表紙を手元に睨んでいるばかりだった。もしかしたら考え事があって寝付けなかったのかもしれない。
 結局、私がほとんど食事を終えかけてから、彼は少しためらうような口ぶりで言った。

「なあ。お前は篠の置かれてる状況のこと、どう考えてる?」
「……えっと」
「俺は危ういと思ってる」

 篠さんの、置かれている状況。
 全体的によいものでないことは私にもわかるけれど、どういう意味だろう。

「考えてるんだ。母さんを止める方法を。篠を守る方法を」

 私は手を止めて彼の方を見る。彼は手持ちぶさたに持ちっぱなしの本へ視線を落としたきりだ。目が合わないことに安心して、あと少しの食事を再開する。
 桧さんはいつもゆっくりとたどたどしく、言葉を吟味するように話す。篠さんがこの十年間働き通しで、これまで何度も過労で倒れていること。本人も無茶をやめないし、理子さんも篠さんの業務量を減らそうとはしない。当然、桧さんは何度も両者と話をしているけれど、効果があった試しもない。

「この前さ、碧とも話してきたんだ。碧、まあ元気そうでよかったんだが、あいつも篠のことで怒ってたらしくて。変える方法を探してるんだって」

 そうだ、妹さん。いたな。正直いろいろありすぎて忘れかけていた。
 そこでまたひとつおかしさに気づく。もし私が理子さんに使われているのが青柳俊の面影や似た素質のせいだというのなら、別に、碧さんでもいいはずなのだ。
 使えない理由がある?

「聞きましたよ、サウンズでの殺しの仕事の半分は篠さん一人がこなしてるって。そもそもどうしてそんなことに?」
「あー……ま、いいか。話すよ」

 十年前、篠さんがその能力を使って桧さんや理子さんを含む大勢に『美山碧を救え』という言霊をかけ、衰弱死寸前だった碧さんを生還させた。それによってサウンズの戦力が今なお大きく削がれている。埋め合わせという名目で篠さんが今なお使い潰されている。桧さんは簡潔に、いまいましげに説いた。
 人の死を土壇場で回避するほどの桧さんの力。十年ものあいだ解けない篠さんの言霊。あまりにスケールの大きな話だった。

「そんなに強い力、代償疲労は……?」
「あいつも直後はぶっ倒れてたな。でも言霊は一度かけたら続ける必要ないからさ」
「……桧さんは?」
「見ての通りだ」

 苦笑と自嘲を混ぜたような息をついて己を指さし、桧さんは言った。以前篠さんが桧さんの体の弱さについて説明してくれたことを思い出して、すべてがつながって、どっといろんな気持ちがした。
 篠さんは事実上、桧さんの命を消費して碧さんの延命を強いているのだ。桧さんは、己の衰弱を感じながらも、篠さんや碧さんのことを深く受け入れて大切に思っている。罪と自己犠牲の上にかろうじて紡いできた日々。誰も迷うそぶりを見せない。
 彼らは、この人たちは、それぞれにいったいどれほどの覚悟で、この十年を共に過ごしたのだろう。

「……生きててよかったです」
「本当にな」

 ようするに。
 碧さんのことはどうしても救わなければならない、と、みんな強制的に思い込まされている。宿命づけられた守るべきもの。彼女を危ない目には遭わせられない。だから、制約のない私が代わりに犠牲になるというわけだ。
 それなら、この薄気味悪さを受け入れてもいいような気がしてくる。彼らの大切なものは、私にとっても大切だ。この身で代われるのなら捧げてもかまわない。けれど――
 そもそもなぜ青柳俊の代わりが要る?
 理子さんはなんのために繰り返そうとしている?

(私に、何ができると思われている?)

 桧さんは続けた。

「それで俺と碧、早く死ぬんだよ。あと何年か」
「……代償があるから?」
「そう。異能で延命なんて正気の沙汰じゃないからな。まあ、それはとりあえずいいんだ。問題は篠だよ」

 あいつはひとりで遺されることになる。
 告げた声は硬くて、震えを無理に抑えたような響きがあった。

「碧のためだけにって……心身壊しながら働いてさ。碧がいなくなったら、あいつはどうするだろうな。って。俺もいなくなるしさ。心配なんだよな。篠はきっとなんも考えてないんだろうが……」

 私はうつむいて彼の声を耳にした。手にした皿と、自分の脚と、黒いソファシートと、その下の絨毯だけが見えている。何十と明かしたいつもの夜の底で、思考と感情がぐるぐるとめぐって、答えをつかみかけている。
 この悲痛で愛おしい人たちのために、私に、できることは。

「母さんもわかってるはずなんだよ。だけど母さんは、俺と碧以外のことは守らないって決めてるみたいでさ。最低限、篠が死なない程度にはしてるっぽいんだが。やっぱ駄目だろそんなの。奴隷と同じだ」
「だから理子さんを説得したい、と。……そうですね。あの、ひとつ、いいですか? ぜんぜん関係ない話なのかもしれませんけど。もしかしたら、関係するかもしれなくて」

 食べ終えた。食器を置く。両手を膝のうえに。問うには少し、覚悟が要る。

「青柳俊について、教えてくれませんか?」
「は………………?」

 いつかどこかの、私。
 この国の裏社会の英雄で、すべての元凶。

 思わずといったように紫紺の目が持ち上がってこちらを見た。真剣です、と言うためにこちらも見つめ返す。何秒ももたず互いに逸らしたけれど、何かが伝わりはしたはずだ。

「…………、俺も、そんなに知ってるわけじゃないぞ。会ったことは……、一度だけあるけど……」
「え、あるんですか」
「……いや。待て。ちょっと、深呼吸させてくれ」

 彼が持っていた本を机上に置いた。表紙に記されたタイトルを見て、ああ、と思う。このまえ見かけたのとはまた別の、世界隊関連の新書だった。その指先が震えていて、まずかったか、と私は今になって焦り始める。出してはいけない話題を出してしまった。でも彼は真面目で優しいから、問いには答えようとしてくれるのだろう。彼が息を吸って吐く。嫌なら話さなくて大丈夫、と言うために口を開いたところで、先を越された。

「青柳俊は。……、俺の父さんの、同級生、なんだよ」


2022年9月5日 2023年12月9日

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