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見上げた空のパラドックス
58 ―side Sora―

 端から薄かった人殺しへの抵抗がどんどん薄れているのを感じる。握り慣れたナイフの感触に今日も安堵をおぼえている。それでも涙は出るけれど、だからといって悲しくもなく、淡々と仕事を終えていく。
 現場で働くぶんにはサウンズよりもエコーズ社のほうに親近感がわく。死体と一緒に車に乗って、霊安室のある建物でシャワーを借りて身なりを整え、いつもありがとうございますとスタッフに頭を下げて、今日は社用車で家まで送り届けてもらう。子どもの私がひとりで終電に乗って帰るわけにもいかないので、篠さんがいないときはこうなるわけだ。

「お世話になります」
「ああ、篠くんの連れだった子か。今日は篠くんは?」
「他の仕事です。まだ病み上がりですし、殺しに復帰するのは先みたいで」
「あー、この前のボヤな。大変だったわあ、俺らも」

 ドライバーは日によって違うが、その日はよく話す人だった。

「おまえさんもついにソロでやるようになったか。子どもの成長は早いわ。送迎なんて何年ぶりかねえ」
「……他の殺し屋のひと、私、見たことないんですけど、やっぱりいらっしゃるんですか?」
「サウンズから来てる子は十人くらいだな。っても、死体の数で見たら半分は篠くんのもんだろうが」

 深夜といえど都心の方はまだまばらに車通りがある。脇を勢いよく追い越されながら、街灯に挟まれた道を進んでいく。

「篠くんもさ、おまえさんくらいちっこい頃に俺の車乗ってたわ。そんで、すぐでかくなっちまった」
「そっか……篠さん、十年もやってるんでしたっけ。長いですね」
「いやー長くはないな。俺も三十年は死体運んでるし。サウンズなんてこの業界じゃ新米のぺーぺーだから」

 そうなのか。
 業界がどうとか、そういうことを私はよく知らない。言われたまま訓練をして、言われたまま人を殺しているだけで、篠さんの他に誰が働いているのかも、そもそもなぜ殺し屋なんてものがあるのかも、知らない。
 暇潰しに聞いてみよう、と思った。東京も深夜は車通りが少なくすいすい進めるけれど、短くても暇な時間はやっぱり苦手なのだ。

「運転手さんは、エコーズで働いて長いんですか?」
「うん? 知らないか? うちは世界隊あがりしかいないよ。俺も十七、八で隊へ入ってから、もうずっと人間の血抜きしてんだ。途中から組織が変わっただけだわな。もーみんな何十年も同僚だよ」

 まばたきをする。
 世界隊。たまに聞く名前だ。確か、桧さんの部屋で見かけた本のタイトルにあった。篠さんも仕事中たまに口にする。たぶん、何かの組織名。ここでは常識なのだろうか。

「あ。もしかして知らない……?」
「すみません。浅学で」
「へえ。サウンズってそういう教育しねえのな。さみしいねえ。世界隊なんか中に学校あったもんだが」

 ハンドルが切られる。車にひっぱられて半身が少し傾いて直す。ドライバーは懐かしむような口ぶりでゆったりと話した。

「むかーしむかしさ、世界隊っつー裏社会ぜんぶまとめたみてえなデカイ組織があったわけ。色々あって解散したんだが、死体を綺麗に掃除できる技術者だけ、使えるからってすっぱ抜かれたんだよな。お陰さまでこーやって子守するだけで飯が食える、人生安泰さ」

 ハンドルを握ったまま運転手が肩を竦めたのが後部座席からも雰囲気でわかった。

「ここで働くなら知っといた方がいいぞ。裏路地で冴えねえツラしてる中年より上の奴らはみんな世界隊あがりなんだから」
「初めて聞きました。そういうお話」
「ま、そろそろおまえさんみたいな奴も出てくる頃かもな。もうこの十年で目立つ元隊員はだいたい死んだかもわからんからなあ……」

 カーナビが無機質な音声で道案内をしている。この車には死体が乗っていないはずなのに、どこか嫌なにおいがこびりついて取れていなくて、これまで乗ってきた殺人者たちの存在を感じさせる。私も今そのひとりとして死臭をシートに染み込ませているのだろう。ぼんやりと思いながら、ドライバーの語る声を聞いていた。車窓に見える街灯の連なりが遠くて、この車内だけ世界から切り離されたみたいに見える。
 私の無知にドライバーはあまり呆れる素振りを見せなかった。俺も入隊までは学校も行けなかったからな、とぼやきが挟まって納得する。裏社会は、そういう処だ。

「今もたまにはうちへ運ばれてくるんだよ。むかし隊で見かけたかもなって奴の死体が。……俺たちは古い仲間の死体を棄てて飯を食ってきてるってこった。幸いなことにな」
「……」
「技術者は拾ってもらえたさ。異能者はサウンズが飼ってくれる。さもなきゃ犯罪者として刑務所にでも行けたらいい。けどな。目立った罪状も能力も家も身分証もないで、ホッポリ出された善良な元隊員たちはどうしたろうな? なんて、おまえさんが生まれるより前の話だけどよ、大変だったのさ」
「……」
「世間様は言うけどな。青柳俊は英雄だって」
「――え?」
「これも知らないか? 有名だぞ。ニュースはたまに見た方がいい。ガキには面白くないかもしれねえが」

 一度だけ聞いたことがある、その名前について、運転手はあっけらかんとしたまま語った。
 この国の裏社会のすべてを、たった一人でひっくり返したという、ある少年の話を。

「もう着くぞ」

 ありがとうございました、と頭を下げて車を降りる。切り離された世界が交わる。寒風にコートの前合わせを直す。
 背の低い四角いビルの重たいガラス扉をくぐりながら、考えている。
 ――私は思ったよりも『この世界』に深く関わってしまっているのではないだろうか。人を殺しておいてなにを今更、でもただの殺し屋としてだけにも収まらない、何か決定的に大きな規模の影響を与えうるような場所に、もしかしたらいつのまにか立たされているのでは。違う。最初からだ。
 思い出している。鹿俣さんは確かに聞いた。私に、「青柳俊のことを知っているか」と。話を聞けばその名前はニュースに流れる程度には知られていて、凶悪組織をひとりで解散に追いやった幼き英雄としてたびたび礼賛されるのだという。14年前の夏、遺書という名の告発文をばらまき、自決した。

(……14年前に死んだ、殺しの天才の、鹿俣さんのともだち)

 間違いないだろう。
 だからといって別に私とは関係がないはずだ、と言えないのは私が『似ている』からだ。
 目の前で自らの腹に刃を押し込んだターゲットの姿が頭をよぎる。勝手に死んだのはそっちが先だろ、と言っていた。あの時は何の話かわからなかったが、名状しがたい途方もない激情の気配を感じとるには十分だった。
 恐ろしくなる。
 私は、少なくとも、死に際の人間にあれだけの覚悟を強いる程度には、顔も知らないこの世界の英雄に、似ている。

(理子さんがやろうとしているのは14年前の繰り返しだって、鹿俣さんは言ってた)

 鹿俣さんの推測が正しいと仮定すれば。
 ボヤからのごたごたがやっと収まって、のんきに通常業務に戻った気でいたけれど、やはり平穏は長く続かないのだろう。平穏が与えられているだけ良心的だとも思う。最初から利用されていた。私が私だったから。
 この気味の悪さを、いつものことだと受け流すかどうか、決めあぐむ。
 ともあれ寒いので玄関を押し開ける。ただいま帰りました、と声をかけてリビングへ踏み入ると暖房の恩恵に肩の力が抜けた。等間隔の蛍光灯がまぶしい。あれ。日付も回ったけれどまだ桧さんが起きている。彼は私を見とめると読んでいた本を閉じた。


2022年9月5日

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