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見上げた空のパラドックス
56 ―side Shino―

 突然、くらりと、酔いと立ちくらみを足して割ったような感覚に襲われて壁に手をついた。目の前が暗くなると同時に吐き気に似た気分の悪さがこみあげる。うわ。いけない。まだ疲労が残っているのだろうか。

「あの。俺、人を探しているんですけど。今いいですか?」

 声の主の、姿が、みえない。目を開けていても眩む。ひどい発作だ、あれだけ休んだのにおかしい。今朝、薬飲んだっけ。飲んだと思う。
 この街で倒れるというのはなかなかリスキーだ。財布をすられる覚悟、邪魔だと蹴り飛ばされる覚悟くらいはした方がよくなる。やばい。落ち着け。悟られぬよう息を整える。平気だ、昨日はあんなに元気だったじゃないか。好きな人と、デートをした。パステルカラーが好きだと言って楽しそうに服を選んでいた。そのごく自然な笑みが見られただけで全部を許してしまいそうなくらい、しあわせだったんだ。
 俺は元気なはず、と自分に言い聞かせていると、立ちくらみは思いのほかすぐに収まっていった。視界が晴れていって、声の主の姿をとらえた。あどけない顔をした黒髪の少年。
 ――目をみはった。刹那、無数の憶測が、稲妻のように脳裏をかけめぐった。

「……、誰を、探してるって?」
「あ、はい。――青い目の女の子を、見かけたことないです? 髪は短くて茶髪で。背はこのくらいの」

 確信に胸がざわめく。
 少年の服装に、どこか見覚えがあるのだ。特徴的な色合い、襟に入る一本のライン――あの少女が最初に着ていた制服に、男子版があればこんな感じだろう、というデザインだった。なによりも決定的なのは、焦げと煤でボロボロになっていること。
 極めつけに、「青い目の女の子を探している」ときた。
 こんなことが、あるのか。信じがたいばかりだが、確信はあまりに明確な答えを導いている。

 この少年は。
 『彼女のいた世界』からここまで、彼女を、追ってきた?

(いや、おかしいな)

「……、そーね、青い目の女の子。よく知ってるけどさあ、」
「え!? 本当です、か、」

 人目がないことを確認しつつ、少年の胸ぐらを掴み上げた。脅すつもりで壁に押し付ける。彼は驚いた顔をするだけで喚きも暴れもしなかった。

「きみ、なんでその子を探してんの? ――なんで、『この街で』『わざわざ路地裏で』探してる? 気をつけなよ、答えによっては独房行きだ」
「え……、」

 高瀬青空の存在は裏社会において機密事項だ。漏れているのだとしたら、どこから漏れたかを聞き出さなくてはならない。
 少年は戸惑ったように朱い色の目を迷わせた。可哀想なくらい純粋な不安がる顔。

「青空、……青空は、今は……、何を、してるんですか……?」
「へえ。白の切り方がうまいんだ?」
「な、ちが、っ」

 力を込める。少年は真っ当に怯えた顔をする。

「ちが、う。俺は、たった今、この世界に降りたら、ここにいて、貴方が目の前にいた、だけだ。本当だっ……」
「……」

 『世界に降りる』という言い方がさらりと出てきたあたり、彼が高瀬青空と同様に異界からの来訪者であることは信じるしかないのかもしれない。つられて、彼女が語った突拍子もない経歴にも真実味が増してくる。彼女が異界の出身であることは、正直わりかしどうでもいいから話半分で聞いていたのだが。
 彼女を追ってくる者がいるようなら、彼女の『今』が『過去』に脅かされるというのなら、話が変わってくる。

「青空のこと、知ってるなら教えてくれっ。青空は、……こ、こんなところに、よく来るってこと、なのか? なんで……?」

 本気の動揺が無色の声を揺らしている、ように聞こえる。胸ぐらを捕まれ見るからに怯えながらも果敢に問いをやめないあたり肝の据わった奴だと思う。これが演技であるなら称賛したい。この時点で彼がクロでないことも信じていいかとは思った。だがもうひと押し、確認が要る。昔の俺でもこのくらいの演技はできると思うから。

「こっちの質問に答えてね? きみは、なんで、その子を探してんの?」
「そ、れは……」

 燃える焔の色の目が迷っている。何かを言うかどうか、考えるような間があったから、急かすために軽く揺さぶる。細い喉の感触は柔い。

「うッ、……お、……俺が、青空のこと、好きだから」
「は」
「好きだから、さがしてる。会いたいから。おかしいことじゃ、ないだろ」
「元カレか」
「えっ!? ち、ちがいますけど」
「じゃあ、何」
「え……、と……、元クラスメイト、です」
「ふうん、ダチだったんだ?」
「…………いや、……ぜんぜん、友達にも……なれなかった、んですけど……」
「ぜんぜんで世界超えてきたんか」

 思わず素で聞き返した。ずいぶん壮大なストーカーがいたものだ。

「し、しょうがないだろっ。死んだと思ったら、勝手にこんなとこへ飛ばされて。でも、だから、青空がもし、俺と同じで、まだ生きてるなら、会えるならって、……思うじゃん……!」
「意図してここへ来たわけじゃない、って言いたいわけだ?」
「あたりまえだっ。誰が来るかよ、こんなくさいとこ」
「……それもそうか」

 手を離した。いい加減信じてやろうと思った。どうやら彼に嘘をつくメリットはなさそうだ。
 少年が重力にしたがって軽く落ちて、足元の空き缶を踏み飛ばして尻餅をつく。俺は膝を曲げて彼に手を差し出す。

「乱暴して悪かったな、あんたを信じるよ。怪我はないか?」
「へ」

 彼は俺の態度の豹変に目をしばたたいた。

「っと、いえ。俺は、怪我しないんで……」
「そう。じゃあ確かめさせてくれ」
「えっ」
「痛かったらごめん」

 ナイフを抜く。抵抗される前に彼の腕を取り、いつかしたのと全く同じように線を引く。思った通り結果も同じで、その腕には傷がつかず、血の一滴もこぼれない。二人目の、不死か。彼女とまったく同じ境遇の少年というわけだ。俺は先行きに不安を感じながらナイフを仕舞う。彼は終始混乱した様子できょろきょろしていた。

「あんたを保護する。ついておいで」
「……、…………」
「どうした?」
「……感覚、が、ない……」
「え」

 少年は汚い路地裏に尻餅をついたまま立ち上がりかたを忘れたように動かず、切る真似をされた自らの腕を見つめて呆然としている。確かに少女も初めてのときは痛みがないことに驚いたようだったが、どうも彼は様子が違うように見えた。

「どうした。大丈夫か?」

 少年の手をとり、引っ張りあげて立たせようとしてみる。が、うまくいかない。力が入らないとはまた違うようだが、身体の感覚がない、と少年が言う。つい先ほど胸ぐらを掴まれて怯えていたのにか?
 不器用に壁を伝って立とうと試みた彼が努力もむなしくふらついて、俺はその肩を支えるため、手を伸ばした。

 空を切った。

「…………?」

 まばたきをする。目を擦ってみる。見える景色は変わらない。
 少年が、どこにもいない。彼に踏み転がされたアルミ缶だけを痕跡に、忽然と消えた。そういう異能かとも疑ってしばらく周囲を探すも見つからない。何もかもがおかしかった。二人目の不死が現れたことも。彼が彼女を好いて探していたということも。急に体制感覚をうしなったと言って動けなくなり消失したことも。
 あまりに超常的で不条理な出来事だった。こうなったらあの人に頼るほかない。携帯を取り出し、あまりかけたくない番号にコール、数十秒待ってつながる。

『美山くん? 何かあった?』

 甘やかな声。俺は片手で口許を覆い小声で応答する。

「緊急です。時刻は数十分前ほど、位置情報は送っておきます。情報収集をお願いします」
『わかったわ。調べておくから、すぐ帰ってきて』
「はい」


2022年9月2日

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