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見上げた空のパラドックス
55 ―side Shino―

 だいぶ体力が落ちたなと、倒れて療養して復帰した直後にはいつも思う。そういうとき当然のように軽めの仕事から割り振られるところだけは、サウンズの福利厚生に信頼がおけるのだった。俺一人を除いた通常職員なら、普段からもっと徹底して個々に適切な業務量を計らわれるらしいが。
 そういうわけで久しぶりに殺しの任がなく、あちらこちらで築いているコネの維持のためちょっと顔を出してこいとのことで、俺は昼間から『遊びに』行くこととあいなった。今日は一人だ。少女のほうは別の仕事がもっと遅い時間帯に入っている。いつの間にか彼女もすっかり一人前扱いされているようで、悲しいやら頼もしいやら。
 軽い変装をして繁華街を歩く。ごてごてしたちょっとイタい服装はここでは浮かない。外見の方向性は常に意図して定めている。普段はやさしめの色でやわらかく、音楽をするときは黒ばかり選んで暗そうに、繁華街へ赴くときはハシャいだ格好で。表情の使い方も話し方も歩き方だって変える。別の顔で知人の脇を通りすぎても俺だと気づかせないことは、恨みを買う仕事をする上では必要なスキルだ。
 俺の全部の顔を見て知っているのは、たぶん、あの少女だけだろう。桧はレコーディングに付き合うことならあるけど、俺が人を殺すところへ同行することはないから。
 昼間から目に騒々しいネオンカラーの看板を右から左へ、俺は不必要に前屈して大股で歩きながら、まだ彼女のことを考えている。
 倒れたことはもちろんよくなかったが、おかげで、考える時間はとれた。
 桧に哀れまれ碧に呆れられたことだが、俺はたぶんマジで音楽無しでは自分を掘り下げようとしたことが人生に一度もなかった。反抗期どころか思春期を逃していた。碧を守る以外にやりたいこともやるべきこともなく、仕事についていくのに必死で、慣れて余裕ができた頃には音楽を始めさせてもらって、歌えることはうれしかったし支えになったと思うがそっちも結局は第二の仕事だったし、ある種、自分のためだけに時間を使ったことが、なかったのだ。
 自分のため。そうだ。恋というのは素人の俺の感想としては恐ろしく身勝手な感情のかたまりだった。相手のことを想うなら冷静に線を引いて尊重するのが当たり前、信頼関係の構築が仕事の半分だからそんなことは俺にもわかっていて、しかしどうしても線が引けなくなってしまった。彼女のこえを、うたをききたい。その青を飾る絶対の孤独に、この身で割り込んで、踏み荒らしてしまいたい。
 片想いというやつだろう。少女の慈悲に触れるたび、俺が抱き締めても決して速まらないその鼓動に胸が痛んだ。だから彼女がどこかへいなくなってしまったのなら苦しくなくていいやと思った。彼女の身を案じるよりも先にそんなことを思った自分にぞっとした。恋ってこれでいいのか?
 だのに彼女は帰ってきた。
 案の定、深い傷を負って、帰ってきた。
 触れられないならそれもそれで、さすがに仕方がないだろうと諦めがついたのに。どうして、あいつは、ひどい目に遭って苦しいからでもなく、よりにもよって「俺を拒んでしまったから」で明らかに動揺して、あまつさえ泣き始めるんだ。
 ずるいだろ。さすがに。
 この恐ろしく身勝手な感情衝動鬱屈そのものまで、彼女は、冷静に線を引いて尊重したのだ。怖いのなら振りほどいてほしかった。キスをしても頬を赤らめすらしないくせに、受け入れる気だけはあるなんて。俺のためだけに。俺のためでしか、なく。

「はあ……」

 俺がもう少し短気ならキレて抱いてた。穏やかな方でよかったと思う。童女に手を出さない程度の分別はあるよ。十歳からこんな街に入り浸ってきた俺にも。
 区切りはきちんとつけたつもりだ。
 この恋に結論が出たとすれば、「歌だけは両想いだ」、といったところか。

 歩き慣れた路地を行く。知り合いの店を適当に回って顔を出して、一杯だけ頼んでしょうもない話をしては次の店に向かう。ぼったくりバーの酒はまずいからお茶でも出せよと店主をゆする。店の弱みをひとつやふたつ持っていれば適正価格で通してもらえる。クソみてえだな、笑いあってまた次。どんどん歩く。白昼堂々、地べたで寝ているヤツがちらほらいる。地べたで寝ているヤツを呂律のあやしい叫びをあげながら殴っているヤツもいる。それを面白がって笑い転げているヤツとか、そそくさと通りすぎて風俗店に吸い込まれていく陰気そうなヤツとか、まあ、だいたい見慣れた光景だ。命と活気あふれる、この世の終わりって感じ。
 これでも十年前と比べたら治安はよくなっている。十年前は世界隊解散で居場所を追われた反社会的浮浪者がこの街のいたるところに溢れ、表から見ても死亡事件が多く、手の施しようがない有り様だった。当然、駆除対象となる異能犯罪集団も乱立して、俺が殺して止めた。今になって思えば、まだまだ幼い自分にどうしてそんなことができたのか、よくわからない。いかにも可哀想な不良少年を演じて、傷ついたヤツらの心の隙をついて懐に入る。背が伸びてからは化粧で年齢をちょろまかして性的に誘惑する方が楽にことが運んだっけ。取り入って仲良くなっては殺す。この街が落ち着くまでの数年は、とにかく多忙だった、という記憶しか残っていない。ふつうのこどもなら初恋を済ませる時期の、話だ。
 十年遅れ。
 だいぶマシになったこの世のどん底は、考え事にちょうどいい程度に穏やかで、じっとりと気だるく。

 だからか、背後に人が立ったことに気がつかなかった。

「あの」

 ごみ溜めみたいな細路地で。違和感にふと足を止める。
 声が、した。確かにした。そうと認識するのが遅れる程度に聞き取りにくい、遠い喧騒によく紛れる性質の声だった。いや、そうでもなかったかもしれない。はっきりと発音されたような気もする。それがわからないくらい、異常なほどに、印象に残らない声、だった。
 振り返る。


2022年9月2日

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