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見上げた空のパラドックス
54 ―side Sora―

 彼の爪弾く音を生で目の前にしたのは当然初めてのことだった。というか、たぶん、生でギターの演奏を聴くこと自体、人生で初めてだ。ケースから持ち上げるときの微かな音さえアコースティックギターの空洞にはよく響いて、どこか心地よく感じた。表面と背面が白、側面が黒に塗られたモノトーンのそれは、素人の私が見ても大切に使い込まれたものだとわかった。

「これさ、ひのきちゃんがくれたんよ。七年くらい前かな」
「へえ、桧さんがギターを?」
「俺ちっちゃいころ親の使い古しを遊びで弾いてたんやけど。十年前に東京へ越してからは何年か弾けんくて。たまたまそれを知ったひのきちゃんがさ、じゃあ楽器買おう、って。その頃まだあんま仲良くなかったから、おどろいたな」

 彼はひどく大切そうにギターのネックをなぞって、ひどく大切そうに弦をはじいた。彼の奏でる音がいつもどこか優しい理由がわかった気がした。
 二時間だけ借りたスタジオは少しの音もしっかり響く構造になっていて、二層の壁に守られた堅い静寂を、やわらかな弦の震える音がまあるく飽和する。空間が鳴っている。私はただ惹き込まれて彼の手元を見つめ、音に耳を澄ませる。自宅のラジカセの脇、日溜まりを思い出している。

「そらちゃん」
「はい」
「歌って」
「……はい」

 備え付けのマイクの前に立った。機器の動作を確認する。マイクテス、マイクテス。大きなスピーカーからエコーつきで私の声がする。百倍贅沢にしたカラオケってかんじ。

「やろうか」
「が、頑張ります……」

 トン、トン。篠さんがギターを叩いて拍子をとる。いつも何度も、何度も耳に押し込んだ前奏が、圧倒的な物量で空間を震わす。私の心臓も震える。反射的に泣きそうになるのを呼吸一つで抑えて、詞に心を澄ます。
 深夜に小声で確かめ続けた旋律が、胸の奥から喉をつたって、マイクが拾って機器をとおして、部屋全体を満たしていく。声があふれる。宙に浮いてまわる。私は歌がうまくない、から、せめて詞がそのまま色褪せず声になっていくようにだけ、願って歌う。ことばに色がある。青くて黒くて白々しい。そのすべてに、溶け去ってしまえるように、身を投げる。喉が震えている。この部屋のあまねく振動のはざまに往く。
 篠さんの声で聴き続けた歌をいざ自分の声で聴いてみると不思議な感じがした。篠さんの歌は痛くてまっすぐでやさしい。私のは、なんだろう、淡白だ。ことばはどこまでも痛むのに、声はことばの輪郭を浅くなぞって、淡いままで旋律に乗る。
 一曲が終わって、篠さんが弦から指を離す。私はマイクから一歩下がってはにかむ。膝から力が抜けそうになる。

「や、やっぱり、緊張しますね……はあ……」
「うっそだあ」
「うそじゃない、です。好きな曲を書いた本人の前ですよ。ていうか生伴奏つきで。こんなことありますか。めちゃくちゃ緊張しますよ、誰でも!」
「歌えてた」
「……ならいいですけど」

 音楽のことになると、誰にも有無を言わせない強い目をする。この人は。

「あんたの歌だ。あんたが歌えばいい」
「……」
「俺は好き」

 微笑み。見慣れない、底知れない何らかの確信をいくつも秘めたような強い笑み。普段はへらへらふわふわしているが、こちらが彼の素だ。
 そして、ふと。
 その目に強い既視感を覚えて、私は記憶を辿る。あった。近い記憶だった。数時間前、眠りから覚める直前のこと。

(海間)

 似ている、と直感する。じっと、心配そうに、けれど決然と私を見つめ続けた朱い目と。大切そうにギターを抱え、私の歌にためらいなく愛を吐く篠さんの、薄いヘーゼルアイと。たかが夢だと切り捨てにくい程度には強烈に重なった。たった一瞬を不確かな記憶のなかで繋ぎ合わせた、不格好なその直感を、私はなぜだか信じてしまった。
 そうか。私を助けるつもりで死んでいった、あの可哀想な無関係のクラスメイトは、この人と「おなじ」だったのだろう。倖貴と桧さん。私と碧さん。定められたドッペルゲンガー。『わたしたち』はどうやら決まってどの世界でもすぐ近くに生きているらしい。

「……どした?」
「いえ、熱烈だなと思って」
「嫌?」
「いいえ」

 苦笑を返した。あなたのいつか来る喪失が心配だという意味では困るけれど、でも仕方ない。理由も対処も無い。恋の不条理に抗えるなら、私だってこんなに苦労していないわけで。
 深呼吸ひとつ、水分補給ひとくち。

「あなたの気が済むまでつきあいますよ。緊張はしますけど……、あなたの音楽も、歌うことも、やっぱり好きですから」

 篠さんは心底うれしそうにギターを持ち直した。その一瞬だけで、今までの全部を許してしまいそうになる。
 私は声がかすれるまで彼のリクエストに応え続けた。あのプレーヤーに入っていたものなら歌えない曲はひとつもなかった。ことばのぜんぶを覚えていて、ぜんぶに声をとおして、旋律に祈ることができた。私の身体ごと、空間ごと歌になったみたいだった。ぜいたくな時間。

「篠さんは歌ってくれないんですか?」
「……聴きたいか?」
「はい」
「じゃあ、一曲だけな」

 彼の、声は。
 水よりも不透明で、光よりはほの暗く、雨よりさらさらとしていて、晴れよりしっとりしている。たとえるなら春の日の木陰を満たす、穏やかさと気だるさを含んでいる。そのくせロックを歌う。痛みを叩きつけるだけのことばを吐く。あどけない少年のような、純朴な発音で。
 ああ。おとがする。
 やさしさと暴力性の危うい均衡が目の前で音になっていく。私は呆然として、息もできない心地で振動を肌に受けている。決壊に時間はかからない。透明な雫が頬を伝い落ちた。それでも目を逸らさなかった。アウトロが終わって、数秒の静寂に心を喰われて、彼がふっと息をつき顔を上げるまで。

「……ありがとう、ございました」
「目の前で泣かれるとなんか……困るな」
「す、すみません。あの、でも」
「いいよ。ほら、深呼吸しな」

 音の残響が全身をひりひりと駆け巡っている。無性に祈りたい。涙を拭って、ゆっくりと呼吸をして。見かねた篠さんが肩を叩いてくれる。結局落ち着くのに数分かかった。退室時間間際だった。

「出れるか、そらちゃん」
「はい、もう落ち着きました」
「感情豊かになったよなあ、あんた」
「あはは、おかげさまで」

 篠さんの音楽がなかったら、私は今も脱け殻のような顔で、罪を言い訳に自分を封じ続けていたのだろう。痛みに泣けるようになってしまったから、いとしいものに微笑むことだって覚えた。それだけのことだ。

「んじゃー、服でも買って帰るか。冬物足らんやろ?」
「いいんですか、ありがとうございます」

 一回きりと定めた逢い引き。歌でつながった私たちだから歌を交わした。ほんとうに夢のようで、鮮烈な幸福だった。数ある趣味のうちひとつでしかなかった歌のことを、このときだけは世界でいちばん尊いものだと思った。
 それから。ひと気のない道では少しだけ手を繋いで、好きな色の話をして好きな服を選んで買って、夕食は何にしようかと言い合いながら帰路についた。いっそ不安になるくらい、しあわせな一日。罪人たちの休日。明日から私も篠さんもいつも通り仕事に復帰する。きっともうこんなに穏やかで満たされた日は当分やって来なくて、当分の次のいつかを二人で迎えることも無いのだろうと、互いにわかっている。

「篠さん」
「うん」
「やり残したことはありませんか」
「……、大丈夫」
「ほんとに?」
「じゃあさ」
「はい」

 玄関前。いつもの二枚扉のはざま。
 もう一度だけ唇を重ねた。今度は私も穏やかなまま、与えられる温度を素直に受ける。浅いキスは今回も数秒で終わって、彼はそそくさと玄関に向き直り鍵をまわした。


2022年9月1日

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