見上げた空のパラドックス
53 ―side Sora―
夢を見た。
見慣れすぎた「自分の部屋」の天井。ぬいぐるみが並べられたベッドから身を起こして涙を拭う。薄栗色の長髪が肩口からさらさらとこぼれて俯いた視界を狭める。染み付いた癖のまま花柄のカーテンを半分だけ開く。パステルグリーンの布地に朝陽が透けている。まぶしさに目を細めて、布団を畳む。
ベッドの脇には半端に整頓された学習机、その上にはいつも水を入れた重たいガラスのボウルを置いていた。もう萎れかかってしまった弔花は持ち帰って枯れるまで部屋に置いておくのだ。ああ、今朝もまた一輪、見る影もなく黒ずんで水面をただよっている。拾い上げて紙に包み、黙ってゴミ箱に押し込む。
生まれてこのかた繰り返され続けた朝の身支度は私の心境がどうあれ変わらない。身なりを整え、お母さんの作ってくれたご飯をいただいて、着替えて、荷物を持って、家を出る。青いリボンで髪を一つに縛って行く。
中学へはまともに歩いたら40分くらいだ。普通は自転車で行く距離だろうけど、私は徒歩で、というかだいたい走って通っていた。何故って、別にまあ、ほら、私陸上部だし、ジャージで登校してそのまま朝練に出るし、練習にもなるからいいでしょ。行きはゆるやかな上り坂が続く。流れる景色をぼんやりと目に、息を切らす間だけは何も考えなくて済んだ。吸って吐いて足を前へ、息苦しさと身体の動きの調和をとる、それ以外の何もかもを頭から追い出す。花を棄てる感触も、濡らした墓石のきらめきも。
今日も生きてる。自分の部屋が持てるくらいの広い家で暮らして、母の暖かい手料理を食べて、お金のかかる私立の学校に行って部活をして。たぶん平均より少し、もしかしたらだいぶ、幸せな生活を続けている。大切なひとを死なせてもずっと続けている。
校門が見えて少しずつクールダウン、私は荷物を置くためいったん教室へ向かう。早朝の静謐はどこにでも満ちて、リノリウムに足音が反響する。
「おはよう、高瀬」
教室に入るなり声がかかった。素朴なアルトの、特徴のない少年の声だ。よくこんな早朝に生徒がいたものだと思う。横殴りの朝陽は部屋全体を朱く染め上げるから目を上げることができない。
「おはよう」
小声で返す。さっさと荷物を置いて一目散に教室を出ようとする。これ以上は朝焼けに身をさらしていられない。
「待って」
何。
光のほうへは振り返れないまま、ただ立ち止まった。西向きで暗くなっている廊下、貼り出された掲示物をわけもなく見つめている。
「高瀬。お前さ、今、どこにいる?」
「え」
「元気か? ……幸せか?」
――何かが、引っ掛かった。
一段階、覚醒する。眠りが浅くなる。思い出す。そうだ、この世界はもう滅んでいるはずだ。だから、これは、夢。
「あなたは誰?」
「ああ……そうだよな。俺は海間日暮。海のあいだに日が暮れるで、かいのまひぐれ。隣の席だったんだけど覚えてないか? えーっとほら……朝読書でたまたま同じ本読んでてさ、ちょっとは話したこと、あるんだけど」
「……、いま思い出した」
振り返る。教室を満たしていた朱い光が揺らぎ、目を焼いて、何も見えなくなってまばたきをする。ただの夢だと思うと不思議と恐怖は湧かなかった。朝が急速に閉ざされて闇に落ちる。沈む太陽の見当たらない一面の夕景の真ん中に立つ。ああ、まるきり似たような景色を見たことがある。私の還るべき、あの蒼穹だ。
「彼」はこの空間と同じ色の燃えるような目で私を見ていた。夏物の制服は私のそれより焦げと煤でひどいことになっている。風が吹けば灰が舞うくらいだ。
リボンが揺れて私の左耳を掠めた。いつのまにか髪が短くなってリボンの位置が変わっている。ジャージはボロボロのセーラー服に。
永久保存に規定された姿で、夕闇に擬態した心象風景で、私たちは対峙した。
「……そう。そうだね。海間。あなたが助けてくれたんだっけ」
「ミスったけどな」
「いいよ、どうせみんなあの日に死んだんだから。それより私のために無駄な無茶させて、ごめんね」
今になって滅んだ故郷のクラスメイトが夢に出るとは、どういうことだろうと思う。ずっと災難が続いていたものだから、平和な時代の記憶にすがってしまっているのだろうか。
「なあ高瀬、今、どこにいるんだ?」
同じ問いが繰り返される。数歩先に佇んだまま動かない彼は、ただ視線を私に向け続ける。名前とおなじ夕陽色の、目だ。
「……私をさがしてるの?」
「うん」
「どうして?」
「救いたいから」
笑った。
おかしな夢だ。倖貴でもお母さんやお父さんでもなく、ろくに話したこともないかつての知人にそんなことを言わせるなんて。目が覚めたら自分の愚かさにドン引きする羽目になるだろう。救ってくれる人たちなら、今も確かに隣にいてくれるのに。
「いいねそれ、おもしろい。……今は東京にいるよ。深夜の繁華街で路地裏を探したら、会えるかもしれないね。目印は血の匂いだ」
「……は?」
「ふふ。ごめんって、からかっただけだよ。本当の答えはね、」
焔のいろが満たす世界で軽い息を吸う。夢の中にはいつもの苦しさがなかった。
「心配をかけたのならごめんね、大丈夫。あなたがいなくても、私はもう救われてる。元気だし、幸せだよ」
今の私にはちゃんと笑顔が作れる。ぎこちなさも悲愴もない、心からの幸福な笑顔が。理由なんていくらでもある。痛みを抱き締めてくれた音楽。支えてくれる優しい人たち。もらった大切な言葉の数々。気がつくことのできた、私の願い。
確信がある。諦めがある。絶望と希望は同じかたちをしている。私はきっとこの先ありとあらゆる苦しみを経て、そしてそのすべてを乗り越えて笑うだろう。愛しい人を失ってもまだ生きている。死んでも平気だった。故郷を失っても平気だった。何度殺されても平気だった。人を殺しても平気だった。いくら怖い目にあっても平気だった。私のいのちは価値を失ったけれど、私の見つめるすべてはまだ、ずっと、輝いている。篠さんや桧さん、理子さん、鹿俣さんのいのちすら大切に思う。コンクリートジャングルに切り取られた排気まみれの汚い空も、じっとりとまとわりつく霧雨も、私を踏みにじった世界のすべてに、どうか祝福があってほしい。私の手が届いても届かなくても、生きて、あかしを刻みつづけてほしい。そこに宿る物言わぬ力を美しさと呼ぶんだ。
どうせ今日も明日も世界は美しく、どうせ愛さないわけにいかないのだから。
大丈夫だ。
きっと、だれもいなくなっても。
彼は何も言えなくなったように息を呑
む仕草をして、その朱いひとみが逸らされないままふるえて、
目が覚めた。
「…………」
たぶん朝だと思うけど、天井は真っ暗だった。篠さんの部屋は朝陽が入らなくていいな。
ここにいてと言われたから彼と一緒の布団で寝た。といっても彼は横になるなり数秒で意識を落として、私は彼のすごい寝付きのよさにびっくりしながら、あるいは疲れをちょっと心配しながら、いつもより暖かくていつもより狭い寝床に身を縮めていた。
篠さんはまだ寝ている。私に気を遣ったのかマットレスの隅っこでこちらに背中を向けている。死んだように寝息が小さいので不安になって、少し迷って身を寄せた。暖かい背中に耳をつけるとたしかに鼓動が聞こえて、安堵する。恐怖より先に安堵できた自分自身に、もっと深く安堵する。昨晩は焦ったけど、もう大丈夫そうだ。
起きよう。また変な夢を見るのもアレだし。
それにしても昔のことをあんなに鮮明に思い出すのはなんだかんだ久しぶりだった。部屋のカーテンの柄なんてほとんど忘れかけていた。そのむかし家族と一緒に買いに行って、好きな色のを選ばせてもらったんだ。
……海間。どのへんの深層意識からやってきたのかよくわからない元クラスメイトのことは、やっぱり少し引っ掛かる。記憶はかなりおぼろげだけど、たしか地震のとき私を助けようとしてくれて、一緒に死んだ。だからだろうか。
そっと寝床を出て、抜き足差し足、部屋の戸に手を掛ける。
「……そらちゃん?」
おっと。起こしてしまった。
「おはようございます、篠さん。起こしてすみません」
「おはよおー……」
いつも柔らかい声が柔らかいを通り越してふにゃふにゃしている。眠そうだ。
「身支度してきますね」
「うーん……」
くすりと笑って、私は部屋を出る。さっさと寝癖を直してしまおう。跳ねた髪を押さえて一階へ降りる。時計を見たら遅い朝、玄関を見たら靴が一つ足りなくて、桧さんはまたどこか出掛けたようだった。
いつもより少し丁寧に髪を整え、リボンを結う。いつもより少し丁寧に朝食を、いや昼食かな、料理をする。一通りが済んで、篠さんの部屋に戻る。
「篠さん、起きられますか?」
「……おきた」
「おはようございます」
「何時?」
「十一時半です」
「ん」
彼がむくりと縦になる、あ、寝癖の位置、今日の私とおんなじだ。
「寝起き悪いんですね」
「えー、絶対ひのきちゃんのほうが悪いよ。あいつ起こすの大変なんやから」
「そうなんですか」
「今日はいつもより深く寝た気するし」
「なら、よかったですけど」
さてはて。それぞれ支度を済ませ、食事をとる。
もう昼間の気温もあまり上がらなくなって、秋物のワンビースだけでは少し薄い。私は買っていただいたばかりの赤いコートを羽織って、篠さんと連れたって外へ出る。快晴だ。
「そらちゃん、スタジオ行こ」
「すたじお」
「音楽やりに」
「……いいんですか?」
「うん」
彼はギターケースを背に微笑んだ。
2022年8月31日
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