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見上げた空のパラドックス
52 ―side Aoi―

「『たち』? 私は関わってないよ」
「……」
「関わらせてもらえなかったもん。でも、私もやっぱり管理下には、ある、んだね? それならどうして私だけ何も知らされなかったの。子どもだからじゃないでしょう。お兄ちゃんは十歳から、小学校にも行けないで、人を殺してた」
「…………」
「私だけが守られてるのは、どうして?」

 沈黙。静寂。耳音響反射。辰巳さんは視線を落としたまま、息遣いですら答えをくれない。私はじっと彼を見つめて待つ。答えが示されるまでいつまでだって待つ。根比べなら負けない。辰巳さんはいつも押しに弱いし。
 1分とたたなかった。はあ、と大きなため息が響いた。

「……わかんないんだよな。言ったら碧がどう受け止めるのか、受け止められないのか」

 不信。不安。彼らしい返答だ。
 それなら、私が折れなければ、押しきれる。

「それは、お兄ちゃんの仕事を十年知らなかったことより、大きなこと? 私、お兄ちゃんのこと知って驚いたけど、見ての通り、元気だよ」
「それは……うーん……じゃあ、たとえばだよ。たとえば。俺の余命がもう長くないって聞いたらどう思う?」
「え」
「……どう思う?」

 紫紺の目が探るように私を見る。
 私は。

「なおさら、こんなきな臭いことに関わってないで、もっと楽しく生きなきゃ、って思うよ。みんなで」

 ほとんど即答した。考えるまでもない。他に答えようがない。
 彼はまた息をつく。その癖、抜けないなあ。でも今度は居心地の悪さを誤魔化すような苦し紛れの嘆息ではないようで、彼はどっと脱力して頬杖をついた。紫紺の目がやわらかく細まる。なに笑ってるの。真剣な話だよ。

「お前なんでそんな前向きなの」
「いや、悲しいけど。もし時間がないなら、悲しんでる暇ないっていうか」
「わかった。半分だけ教える。俺、本当に長くないんだ。30歳にはなれないんじゃないかな。そんで……碧。お前もおそろいだ。今は元気でわかんないだろうが。お前の余命は、俺と同じだ」

 え?

「え……、と、」
「だからさ、俺も守られてて、働かせてもらえない。ほんのちょっとは雑務やるけど、体力使うことはな。命をこれ以上縮めないように」
「待って。え……? と、いのちが……、みじかくて……、辰巳さん、死んじゃうの? 私も?」
「うん、ごめんな。そうだよな、お前のことなんだから、もっと早く伝えた方が誠実だったかもしれない」
「本当のことなんだね」
「ああ」

 彼は自分の余命を語るときも表情を変えなかった。ずっと前から決まったことだと言わんばかりに。

「結果だけ言う。碧と俺は、命の残量を共有してる」
「……共有」
「そう。だから同時に死ぬだろうって、エラー専門の医者たちは言ってた。むしろ十年ももってるのがびっくりだ。お前が生来タフだからかな」
「……」
「そんなすぐ死ぬ奴ら、会社に引き入れたところで戦力にならないだろ? だったら死ぬまでのんきで普通の生活を送らせた方がいい、ってな。そこんとこは母さんの良心でもある」

 わかったか? と、そっと花弁を伝う朝露みたいなやさしい声で、辰巳さんは言う。

「これが半分だ。これでもまだ半分」
「……、…………」
「今日はもうやめるか。お前の気持ちの整理がついたら、また呼んでくれ」

 彼はそう言うとふやけたアプリコットを口に放り込んで席を立った。
 ……さすがに、整理がつかない。
 命の残量の、共有? なんて突拍子のない。理解できたのは、長くない、という彼の確信に満ちた言葉だけだった。何か病気のようなものだと解釈していいのだろうか。私はこんなに元気だけど。病気があるから、私と辰巳さんは守られてきた。たたでさえ短い命を縮めないように。
 ……。

「待って辰巳さん」
「ん」
「結婚しよう」

 食器を片付けようとする彼の手を強引に握って目を合わせた。彼は嫌そうに眉をひそめる。ちょっと。ひどくない?

「はあ……懲りないな。ずいぶんな仕打ちにあわされたと思うんじゃないのか、ふつうは」
「思うよ。でも私は辰巳さんが好き」
「お前まだ14だろ。あと4年くらい大人しく待て」
「だって、大人になれるかなんてわからないのに」
「俺は待ってる。お前も待て。いい?」

 わかった? さっきも聞いた言葉で念を押される。なにもそんな面倒そうな目で睨まなくてもいいじゃん。

「やだ……」
「子どもかよ」
「子どもだよ」
「あのなあ。俺が碧に手出したら篠がブチギレるだろ。俺は篠ともお前とも穏便に仲良くやりたいんだ。勘弁してくれ」
「……それは、そうかも」
「ほら見ろ」

 彼はさっさとカップを下げてごみを片付けてしまう。アプリコットティーの甘い香りだけがかすかに部屋に残っている。私は無性に寂しくなってうなだれる。私の唯一が帰ってしまう。余命の話を聞いてしまうと、とたんにその広い背中が儚く見えた。私もいっしょに死ねるのなら、遺される苦しみは味わわなくて済む、けど。それだけだ。
 遺す。そうだ。
 辰巳さんが亡くなって、私も死んで、そうしたら、――兄は、ひとりでのこる。

「……お兄ちゃん、」

 辰巳さんが帰り支度の手をピタリと止めた。

「お兄ちゃんを、助けたいよ。辰巳さん」
「……そうだな」
「どうすればいいの。ずっと使い潰されて、いつか一人になって、そんなの……」
「そうだな。俺もそう思う」

 紫紺の目が振り返る。

「誰かが引き受けなきゃいけない苦しみをさ、全部ひとりで背負うつもりなんだ、誰よりもあいつが。母さんはあいつのそういう願いを、叶えてる。やり方はめちゃくちゃだが」
「…………」
「俺たちじゃ、あいつを変えられないんだろうな。あいつに守られてる側からじゃ、何を言っても……」

 忌々しげに細まる目がわずかに潤んでいる。その肩がふるえて、だけどそれだけだった。

「帰るよ。少し、整理しな。話せそうになったらまた呼んでくれ」
「……わかった。またね辰巳さん」


2022年8月31日

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