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見上げた空のパラドックス
51 ―side Aoi―

『お兄ちゃん元気になった?』
『そこそこって感じ。病み上がりだから仕事はまださせてない』
『そっか』

『辰巳さんはまだ忙しい?』
『もうそんなにかな』
『会って話せる?』

 あれから鹿俣さんと連絡がつかない。兄を辰巳さんの家に送り返してから、毎日、時間帯ごとに電話をかけているけど、ワンコールで切られるか、放置されるか、電源が入っていないとアナウンスが流れるかだ。もう関わるなと釘を刺されたのだからこんなものだろうけど、ひと月も足繁く会っていたから少し寂しい気はした。
 しようと思えば、無茶はできる。接触を試みたければ知っている支部をこの足で回ればいいだけだ。けど、たぶんもう私を守ってくれる人はいない。
 怖じ気づいている。
 私だけの命ではない。
 ひとり自室の天井を眺めながら考えた。許されるのなら私は動きたい。何ができるか考えて、この足で歩き回って、答えをさがしたい。けれど何もしないのが辰巳さんにとっては最善というか安泰なのだろうとも思った。このままでいいわけはないけれど、打てる手の何もかもが決して安全ではない。わかっていたことだけれど。
 話そう。完全に鹿俣さんへの電話が電波すら通じなくなって一日、そう決めた。私がふた月かけてサウンズレストのことや裏社会の現状を調べ回っていたこと。どうにかして兄が人を殺さなくていいようにしたくて動いていたということ。もちろん鹿俣さんの組織のことはできる限り伏せる。
 辰巳さんは連絡したその日のうちに訪ねて来てくれた。今日の手土産はドライのアプリコットだ。辰巳さんは私が紅茶好きなことを知っているからいつも合わせたものを買ってきてくれる。香ばしいフルーツティーを囲んでふたり、席につく。

「話すことにしたの」

 辰巳さんは軽く頷いて、じっと黙って私の話を聞いた。私ができれば兄に裏の仕事をやめてほしいと思って、その方法を探るために行動していたこと。ここしばらく、裏社会に通ずる人を見つけてつきまとっては情報を聞き出していたこと。何をどこまで知ったか。やはり私はかなり浅いことしか知らないようで、辰巳さんは眉をひそめつつも驚いた様子は見せなかった。

「危ない目には遭わなかったか」
「……遭わせてもらえなかった」
「そんなことで悔しそうにするな。てか、とんだ善人がいるもんだな」
「うん。本当、運が良かったよ……」

 アプリコットティーを口に含んで飲み込む。甘い香り、酸っぱい後味。
 話を続ける。しばらく私がつきまとっていたその人に最近とうとうもう関わるなと釘を刺され、連絡がつかなくなったこと。アングラに首を突っ込む危険性は理解しているつもりで、これ以上はさすがにどうかと、身動きがとれなくなったこと。途方に暮れていること。心配をかけて申し訳ないと思っていること。

「最初から俺に相談しろよな……」
「ごめんなさい」
「いい。お前が無事で元気なら、俺は叱ったり咎めたりしない」

 しっかりと目を見つめてそう言われてしまうと、もうただ心底反省するしかない気がした。カップに丸くかたどられた赤茶色の水面を見つめる。やっぱり危ないことはしない方がいいのかな。そうだよなあ。

「ただな。妙な綱渡りするくらいだったら、知りたいことは俺に聞いてくれ」
「えっ、いいの」
「問題があるなら母さんが止めるだろうよ」

 かあさん。
 私は会ったことがない、辰巳さんの義母で、サウンズレストエンターテイメントの社長。桧理子。全知の力を授かって生まれた、神の子とも云われ、残酷だという噂ばかり聞く。

「辰巳さん、の、おかあさんのことって聞いても……?」
「……いいけど、俺にもわかんねえよ。昔から腹の底が見えないひとだ」

 得意料理と嫌いな食べ物くらいしか知らない、と言って辰巳さんが肩をすくめる。
 聞けば、彼女は中高生のころに物心ついたばかりの辰巳さんを拾い、共に暮らすが、いつも忙しくしていてあまり家に帰らなかったらしい。さんざん危ない裏取引を重ねていたためだろう。辰巳さんの知らないところで話が進み、気がついたら彼女は組織を率いていた。

「母さん、まるきり悪い奴じゃないはずだけどな。サウンズの運営を引き受けたのも、俺を守るためなんだろうし」
「守る……? どういうこと?」
「サウンズの前身は?」
「研究所だったって聞いたよ」
「正解。俺、そこ出身なんだ。頭に電極繋がれて、限界まで強化されてたんだってさ、異能が。そんで母さんは、俺を研究室からひったくって逃げた。利用するためじゃないぞ、助けるためにだよ……」
「………………」
「母さんと俺。どっちにしろ『力が強すぎる』からさ。憶測だが、組織がなかった頃はすげえ狙われてて、母さんが全部防いでくれた、んだと思う」

 ため息混じりの言葉だった。助けてくれたと語るわりにどこか忌々しげだ。

「辰巳さんの力って」
「ひみつ。もう十年はまともに使ってないし、無いようなもんだよ」
「そっか……」

 私、辰巳さんのこと、何も知らなかったんだなあ、なんて思いながら、冷め始めた紅茶を喉に押し込む。ちょっと寂しい。でも異能は別に無理に知らなくてもよかった。私も暴走避けの訓練のとき以来まったく使った覚えがないし、無いようなものだから。今はそのことはいい。
 サウンズの前身たる国の異能研究が具体的に何をどうしていたのか。私は知らなかった。けど、子どもの被験者がいた、と聞くだけでも嫌な感じがする。やっていることの残酷さはサウンズの方がマシか、どっこいか。
 辰巳さんをそこから助け出してくれたのは確からしいと聞くと、冷酷な神の子と謳われる社長とて、イメージが変わりもするけれど。

「でもまあ、母さんのやることはだいたい滅茶苦茶で乱暴だよ。俺も正直、止められるなら、止めたい」

 辰巳さんはそう言うとゆっくりと紅茶を飲み干した。底にふやけたアプリコットが残る。
 止めたい、か。やっぱり辰巳さんは優しい。私のやったことは無謀だったけど、考えはきっと間違っていない、そう言ってもらえた気がした。うまくいけば協力して何か行動できるかもしれない、なんて少し期待する。

「……しかしなあ」
「しかし……?」
「前提として、母さんを動かすことはできない。あの人は情勢の要石だ、下手に動けば国が倒れる。じゃあ母さんを置いて逃げようったって、俺もお国からすりゃ爆弾みたいなもんだし、サウンズの傘下から出ようもんなら袋叩きで消されるさ。だからお前たちも、サウンズから離れられない」

 辰巳さんは静かな口調のまま断言した。お前たち。兄も、私も含めた言い方だった。
 いよいよ問わなければならないなと思う。私も紅茶を飲み干す。ことん、とカップを置く。息を吸う。


2022年8月29日

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