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見上げた空のパラドックス
50 ―side Ryoku―

「気分はどう?」
「最悪、だよ」
「そうね。私も」
「趣味の悪い独房だな」
「そうね」

 寒い。コンクリートに覆われた地下は夜のうちに溜まった冷気で満たされている。
 さんざん危ない目には遭ってきたが、独房に拘束されるというのは初めてだった。毛布一枚は与えられたが、座っているにも床が固くてなかなか堪える。足腰が痛み、立てる気がしない。
 理子は鉄格子の向こうから疲弊した俺の姿を眺めているようだった。気絶させられ拘束されてからおそらく一晩くらいか、ようやっと会いに来てくれた。暗がりに沈む彼女の表情を読むことはできない。

「理子。辰巳は元気か?」
「うん。元気だよ」
「そうか。今あいつ何歳だっけ」
「21。会いたい?」
「この状態でか? 嫌だよ」
「あなたが元気だったら?」
「会わないな。敵同士だ」
「まだ敵でいるつもりなんだ?」
「拘束されてりゃ当然だよ」
「もし解いたら?」
「帰るさ。仲間を弔いに」
「そうね。それがいい」

 甘やかな声は冷然と乾いている。

「……あの青い目の女の子は?」
「彼女も無事に帰ったわ」
「よかった」
「ねえ。私の心配はしてくれないの?」
「だって元気だろ。今、目の前にいる。銃を使うくらい体力もあってさ。生存確認としちゃ贅沢なくらいだ」

 格子の向こうにはギリギリ暗闇にならない程度の間隔で非常灯のフットライトが並んでいる。逆光になって、俺の位置からは彼女の華奢な立ち姿くらいしかまともに見ることができない。泣いていても笑っていてもわからない。それでいい、と思う。彼女が泣いていても笑っていても、自分が揺れてしまうとわかっている。

「俺をどうするつもりなんだ」
「どうしようかな。あなたはどうしたい?」
「そうだな、とりあえず暖かくてソファのある部屋に行きたい」
「いいね。その後は?」
「体の調子が戻ったら組織へ帰る。みんな困ってるだろうから」
「あなたはどうして組織を率いているの?」
「どうしてかな。お前らと殺し合うためなんじゃないか。毎日、人が死に続けて、だいぶこの国のこの界隈も小さくなっただろう。このまま潰しあって、いつかみんな死ぬんだ。一般人の預かり知らないところでさ」
「本当にそれが正しいと思う?」
「思うよ」

 脳裏にいつでも映像がある。血の臭い、赤く染まったプラットホームと降りしきる雨。足首まであるさらりとした黒衣を身に纏い、長い黒髪を湿らせて祈る少年の、青く昏く澄んだ目。死の満ちる静寂。それから数年だけ時の過ぎた果て、同じ少年が夏の陽を背に微笑んだ。高らかに殺戮への意志を謳いながら。
 あいつらは、彼は、俺たちは、ただ宿命のように人を虐げ殺すだろう。善悪や大義名分は正直なところ関係ない。攻撃性は彼らの目に、手のひらに、染み付いて消えることがない。
 性悪説は真実だ。真実である者の間に限って。
 だから悪人には死を。むろん皆が更生できたら最善だが、更生に必要な資源と時間の総量に対して悪人があまりに多いから問題なのだ。選り好みするしかないだろう。救いようのない奴は広大な暗闇の墓場に。逃げ延びた一握りの選ばれし者がごく小さな日向を占める。
 何にせよ、裏社会の内側で殺し合うぶんには、一般人を虐殺するよりだいぶマシに違いない。

「お前らも『そういう意図』でお国に残されてるんだろ」
「そうね。……勝手に潰しあって数が減れば、社会にとって都合がいい。われわれは所詮、危険なだけの存在だから」

 彼女はひとつも否定しなかった。馬鹿げた高尚な話のひとかけらも、全知の彼女すら、否定してはくれなかった。

「……でもね、」
「……」
「聞き方を変えるわ。あなたの信じる正しさのために、あなたは、私を殺せる?」

 俺は笑った。力ない息だけの笑い。
 どうせ答えがわかっているのにわざわざ聞くなよ。
 そんなに気に入らないのか。気に入らないだろうな。破滅しかない道だ、痛みしか残らない不毛だ、そんなことは14年前のあの日からとっくに理解している。理解ったうえで、俺は選び続けてきた。今さら止められると思うな。14年ぶんの、いや、世界隊が雨の日のプラットホームで虐殺を起こしたあの日からずっと、俺は屍の上を歩いてきた。

「理子がどうしてもそうしてほしいなら、そうする。悲しむ人と困る人のことを考えて、それでもどうしてもそうしたいなら、だ」
「……強情だなあ」
「理子もね」
「じゃあ、あなたは考えたの? あなたがいなくなって悲しむ人のこと、本当に考えて、あなたはそこにいるの?」
「ありがとな、理子。俺のために悲しんでくれて」
「………………」

 曖昧な言葉をほんの少し交わしたくらいで、10年以上も逢っていなかったのに、互いに一点の誤解もないことを確かめていた。わかってるよ、うん、そうだね。それだけが行間に飽和してぐるぐると交差した。
 痛む体に毛布を巻き直す。鎖を引きずって、壁を使って不器用に立ち上がる。固い床の上で冷気に当てられ続けた足はおもしろいほど言うことをきかない。それでも鉄格子の前までずるずると歩いていった。何度か崩れ落ちかけながら、どうにか彼女の目前まで。

「理子。……なんのために、俺を生かした? 危険因子は殲滅するのがお前の仕事だろ?」
「さあね、あなたは無能力だし、殺す価値もないかもよ。死にたかった?」
「死ななくてよかった。理子にまた逢えたから」
「口が減らなくなったね」
「なあ、あの子は何者なんだ」

 氷のように冷えた鉄は触れると指先が痛む。息切れに任せて格子に寄りかかると軋みがコンクリートに反響した。
 あの子。名は知らない、青い目の殺戮者。焔を扱い、心臓が止まっても死なないばけもの。青柳俊のことは特段知らないようだった。冷えた独房で考え直せばぎりぎりわかる。いくら生き写しのようだと言えど、あの子はきっと無関係の他人だ。
 理子は格子越しに立ち尽くしたまましばらく黙っていた。

「……間違って、ないんじゃないかな、生き写しだ、と思っても」
「……」
「あの子はあの子の人生をあの子の世界で送った。俊くんとは別物のね。だけど、『そのもの』だよ。あなたの思うとおり」

 あの子は罪に愛されているし、雨に祈ることもあるでしょうね。理子がそう続けた。そうだろうな、と俺もなぜだか思った。敵としていっとき相対しただけの少女が、無数の死にひざまずいて祈る姿が、なんら抵抗なく想像できた。

「おかしいだろ、そんなの」
「おかしいよ。私にもわからない」
「お前の差し向けじゃないのか」
「半分はね。碧ちゃんがあなたに接触したのだって、私はなにもしていないわ」
「……」
「意外? 私は、ただ起きたことを観察して、後から利用しただけ。あなたの中の、『あの子たち』への狂信を」
「それじゃあ……」
「あの子を差し向けたのは確かに私。碧ちゃんがあなたに接触して、あなたの弱みがよおくわかったからね。でも、だからって碧ちゃんを利用するわけにはいかなくて……あの子なら使えた。都合がよかったの」

 ――美山碧は。青柳俊の命日の晩に産まれたというから、信じがたいことにどうやら生まれ変わりは実在するらしいと、そう結論付ければどうにか納得できた。
 だがあの子はちがう。

「だけどね、あの子が『何』で、なぜ都合よく今ここに、私のもとに現れたのか、なんてことは、ほんとうにわからない。それこそ、そんな都合の良い理由はないのかもしれない」
「……」
「あなただけじゃないわ。私も、あの子に関わったすべての人が、そう思っているの。『どうして彼女は今、自分の前に現れたんだろう。都合がよすぎないか』、――『まるで運命だ』って」

 ああ。そうだ。
 格子を掴む。崩れそうな身体を支える。
 そうだ、そういう魔力だった。青柳俊が視線や佇まいに秘めていたのも。彼はわたしの唯一だ、と、触れたすべての者に勘違いさせる力だ。違うか。勘違いではないから無数の者が狂っていった。俺もその一人。
 ガシャン、とけたたましい音がして身を預けていた鉄格子が揺れる。解錠音だと気がついたのは出入り口が開いてからだった。

「帰っていいよ、朸くん。また、戦おう。あなたが負けるまで、全部をうしなうまで、私はずっと戦うわ」
「…………」
「死なないでね」

 そっと鎖をほどかれる。
 勝手な奴。
 結局、俺を生かして揺さぶって、何がしたいのかは不明瞭だし。少し話した程度で解放して、なんのために俺を捕らえたのかすらわからない。殺してくれればそれが正しいのだろうに。
 しばらく立っていたからか足が少し動くようになっている。一歩、先程よりは安定した足取りで踏み出す。

「愛してるよ、理子」
「……初めて言われた」
「そうだっけ?」
「そうだよ」

 また戦おう。俺は最後まで抵抗するから。


2022年8月25日

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