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見上げた空のパラドックス
49 ―side Sora―

 篠さんの部屋の前でノックを躊躇っている。わずかにギターの音が漏れ聞こえたから。
 桧さんは私を家に放り込むなり「じゃあ俺どっか散歩してくるから」と片手を上げて出掛けてしまった。残された私は、とりあえず手を洗ってコートを仕舞って、篠さんの部屋の前まで来て、かすかな音の響きに足を止めている。
 邪魔しちゃ悪い、かなあ。でも急にいなくなって数日ぶりに帰ってきたのに挨拶しない方がさすがに変だろう。意を決して扉を叩く。声も出す。

「篠さん。高瀬です」

 ぴたりと音が止んだ。
 扉が開くまでの数秒がどうにも長くて息を整える。特に意味はないけど服の裾を正した。支給された薄いシャツは冬の夜にたたずむには寒い。
 ノブがまわる。

「お邪魔して、あとご心配かけてすみませんでした。いま帰りまし――、」

 篠さんの顔を見るのは本当に久しいことで、彼が療養のため家に戻ってからのことだからもう一週間以上は空いただろうか。普段はヘアピンで上げている黒髪を無造作に下ろした彼は、変わらずの薄いヘーゼルアイで私をみとめると、何か言う前に、手を伸ばした。
 咄嗟に身を引いた。

(え、)

 ――身を引いてから、恐怖が先に来てしまった自分に驚いた。
 彼が手を下ろした。その目が細くなる。一瞬で、ああ察された、とわかった。

「おかえり、そらちゃん」

 やわらかな声は、感慨を込めるでもなく、冷静な響きをした。

「……、……はい……」
「よかった。もう会えないと思ったよ」
「篠さんも。回復したみたいで、よかったです……」
「うん」

 たった一瞬の恐怖の残響に心臓がばくばくと鳴っている。こっそり呼吸を整えようとするが、まだ動揺が先んじている。今のはショックだった。篠さんのことはほんの少しでも拒みたくなかった。
 前触れなく涙が溢れた。再会を喜ぶものではない。篠さんは一歩ぶん離れたところでそれを見ていた。冷えきった床にぱらぱらと雫が落ちる。

「ご、めんなさい。私」
「そらちゃん」
「ちが、ちがうんです。私は、いまのは」
「大丈夫。大丈夫やから、もう休みな。疲れとるやろ」
「嫌、です、このままはいやだ」

 首を横にふる。息が苦しい。祈るように暖をとるように両手を組む。唐突に、ひとりだ、と思う。どうやら私は人に触れることが怖いらしいとわかって。このまま、大切な人を拒んだまま離れてしまうのだろうか。そんなの嫌だ!
 先ほど桧さんに言われたことが頭をよぎる。無理も我慢も泣くのも、彼らの傍で。ひとりになるな。
 深く息を吸って吐く。袖で涙を拭う。

「お部屋上がってもいいですか」
「俺は構わんけど」
「……邪魔じゃなかったですか?」
「なんの?」

 彼は微笑んで肩をすくめると床に放り出されたギターを仕舞い、顔の前に人差し指を立てた。そうだった。そういえば隠していることになっている。
 失礼しますと言って踏み込み、両手で扉を閉めた。座りなよ、はい、とやりとりがあって、ぽつんと置かれた二人がけソファの片隅に掛ける。物の量に対して広すぎる部屋はやっぱり殺風景で寒々しい。

「篠さん。隣、来てください」
「……」
「いやですか」
「あのさ、俺あんたのこと好き」
「……急ですね」

 さすがに驚かないけど。改めて言われるとやるせなさに微笑うしかなくなる。

「抱き締めていい?」
「はい」
「本当に平気?」
「隣に来てって、先に言ったのは私です」

 彼が隣に座る。前にもあったなあ、と思いながら抱き寄せられる。その手がぞっとするほど優しいから、凍ったように身を強ばらせる自分が悲しくなる。目を閉じて彼の肩に頭を預ける。あたたかい。怖くない、怖くない。

「大丈夫か」
「ちょっと、こわい、です」

 彼が息を呑む。私が大丈夫と答えなかったのがよほどめずらしいらしい。

「悪い、聞いてええ? 嫌なら断って」
「どうぞ」
「何があった?」
「……すこし、乱暴、されたのかな……私がすぐ暴れたので、たいしたことは、なかったんですけど」
「……」

 背に回された腕がわずかに力を強めた。鼓動が伝わる距離だ。篠さんのそれは痛々しいほど速い。私は思わず彼の背を赤子をあやすように叩いた。互いの温度が等しくなるまで、しばらくそうしていた。ゆっくりと余計な力が抜けていく。深くなる息を聴く。怖くない。大丈夫。

「篠さん。どうして私なんですか」

 彼の腕からは気遣いしか感じられない。なんだか大切にされすぎている気がして胸が痛む。名前を『呼ばれた』ときの息苦しさを思い出す。……やっぱり。あれは、恋だったらしい。
 どうしてなんて、聞いたところでどうしようもないけれど。
 見渡す限りどこにも、生活にも立場にも心にも、存在そのものにも、私たちに愛を交わせるような猶予はないのだから。

「声、かな」
「こえ?」
「あんたの歌が好き。もちろんそれだけじゃないけど、それだけでも、いい」

 心臓がふるえた。
 そんなの私だってそうだ。

「……あなたに言われると、恐縮しますね……」
「そらちゃん」

 そっと腕がゆるまって、手のひらが背中から頬にのぼってくる。篠さんにしてはめずらしく暖かくなった手だ。彼のずっと張り詰めている緊張が少しでも解けたのならよかったな。薄い目が鼻先の触れる距離でじっと私を見る。

「明日。デートしよう」
「……」
「それで終わり。それまでは、俺に付き合って。お願い」
「……まだあまり無理しちゃダメですよ?」
「わかっとるよ」

 揺れている。今にも泣き出しそうなヘーゼルイエロー。
 いったいどうしたら彼は苦しまないでいてくれるだろう。考える。
 本当はいなかったはずの私は、この世界になるべく迷惑をかけないよう、本来の在り方を邪魔しないよう、彼が私のことで余計に苦しむことのないようにしたかった。救ってもらったから。心のありかを教えてもらったから。
 けれど、彼が選んでしまったのなら、私はどうするのが正解だろう。
 選択肢なんて無い。絶望とは無関係に、私はもうとっくに満たされている。あとはただ彼が望むようになればいい。
 黙って目を閉じた。
 そっと唇に柔いものが触れる。やっぱり反射的に肩が強ばって、努めて力を抜く。
 篠さんはすぐに席を立った。離れた温度を惜しむ心地でそのまま座っていると、ぽん、といつぞやの黄色いカーディガンが投げて寄越される。

「とりあえずご飯作るわ。あんたもどうせ何も食っとらんのやろ?」
「そういえば、確かに」
「ていうかひのきちゃんは?」
「出掛けました」
「なるほどな」

 連れたってリビングへ降り、暖房の電源を入れた。


2022年8月23日

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