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見上げた空のパラドックス
48 ―side Sora―

 目を覚ます。また慣れないベッドに寝かされている。

(体が軽い)

 今度は縛られてはいない。そして体内に弾丸がない。疲れもすっかり取れて、相変わらずの息苦しさを除けば、ひどく久しぶりに体調がいいと感じる。抵抗なく体を起こし、周囲を見回す。病室みたいな保健室みたいな。白いベッドのまわりにカーテンがかかって視界を遮る。

「あ」

 枕のすぐ脇に見慣れた青のリボンが、ビニールに入れられて置いてあった。ことの顛末を思い出して点検するが、リボンはギリギリ焦げを免れ、むしろ汚れがきれいになっている気もする。誰かがずいぶんと丁寧に計らってくれたようだ。とりあえず胸を撫で下ろして、癖のまま髪を結い、立ち上がる。
 着ている服に見覚えはないけど心当たりはあった。前の調査もとい拷問の時と同じような質素なシャツだった。ここはサウンズレストだ、と思っていいだろう。
 カーテンをめくる。病室じみた部屋は広くて、同じようなベッドがずらりと並んでいる。今この部屋にいるのは私だけのようだ。
 と、開きっぱなしの出入り口から見知った顔があらわれる。

「高瀬」
「桧さん……」

 意識が落ちる直前の記憶がよみがえる。
 真っ暗な路地の底で、理子さんは私に拳銃を向けたまま、甘やかな強者の声でささやいた。今回のことは誰にも絶対に内緒ね。と。私がそれを守らなければ次はどんな絶望を味わわされるか知れない。びりびりとした恐怖を脳裏に、けれど本心から、私は笑みを浮かべる。紫紺の目を正面に見つめて。

「またあえてよかった」

 胸が軋む。奥歯を噛み締める。泣かない。泣くものか。どうせ空しいだけだ。
 桧さんはちょっと露骨なくらい眉をひそめ顔を背けた。私も安心して視線を適当な白壁に向ける。

「……。体調は?」
「いいです。すごく疲れてたんですけど、寝たら治ったみたいで」
「そうか」
「篠さんの調子は……?」
「もうだいぶ動ける。連絡したらすっ飛んでくるだろうけど、まだ無茶させたくない。お前が元気ならこのまま帰ろう」
「わかりました。今はいつですか?」

 私が殺戮をおこなった日から数えて三日が経過していた。まあそのくらいだろうな、と思う。鹿俣さんがあの後どうなったか気になるけど、聞いていいことかどうかがわからない。
 ……これで終わりだといいけど。そう楽観できない。捨てられていない以上は、まだ私に「使い道」があるのかもしれない。
 ああ、体はすこぶる軽いけれど、気が重い。
 踵を返した桧さんの背中を追う。やはりここはサウンズレスト社内で、でも来たことのないフロアだった。景色が白くて消毒液のにおいがする。区画を抜け、いつものエレベータでエントランスへ降りる。あとは見知った道を行くだけだ。
 初冬の都心、どうやら夜だった。刺すようなビル風に身が縮む。寒いくらい私には大したことではないけど、さすがにこの薄着では人目も憚るなと思う。

「上着、買ってこう」
「……お願いします。ありがとうございます」

 とりあえず、と言って彼が自分の着ていたガウンを私の肩にかけた。当然サイズがあわなくて袖から手が出ない。桧さんはガウンの下にも分厚そうなパーカーを着込んでいた。寒がりなのかもしれない。

「桧さん。どこまで聞いていますか」
「さあ? 何も。母さんが、高瀬が医務室にいるからって、荷物はリボン以外ないからそのまま連れ帰れって、そう言っただけ」
「……あの、今更なんですけど」
「ああ、言ってなかったな。社長さ、俺の義母なんだ」

 白い息を吐いて、桧さんはそそくさと駅の階段を登る。

「なんか、悪かった。母さんから詮索するなって言われてさ、どうせろくなことじゃないってわかってたのに、結局、なにもできなかった」
「……」
「今回はお前が帰ってきただけマシだけど……本当にさ、そろそろあの、母さんの横暴、なんとかしないと……」

 桧さんはかつてなくよく話した。落ち着いた口調の節々に言い様のないあきらめや怒りがにじんでいる。私は黙って彼の隣を歩いて、新しいICカードを受け取って、改札を通る。

「なあ。高瀬。一回だけ言わせてほしい」
「……なんですか?」
「逃げた方が、いいぞ」

 電車を待つ。都心の電車は数分に一度来る。ひっきりなしのアナウンスがプラットホームに木霊している。桧さんはまっすぐ線路の方を向いたまま話している。頑なに目を合わせないのはお互い様だ。

「お前が母さんのわがままに付き合わされる義理はないんだ。今回みたいなことは、放っておけばどうせまた起こる。お前はイレギュラーだからどこへ行っても糞みたいな生き方になるだろうが、それにしたって、ここじゃ酷すぎるだろ」
「桧さん」

 名を呼んで、言葉を遮った。
 彼はずっと、ずっと私を人間扱いしてくれるなあ。
 私はうつむいて線路の砂利を見つめている。車両がやってきて、連れたって乗り込む。車内ではずっと無言だった。いつもの最寄りに降りると、なんだかずいぶん久しぶりに帰ってきたような安心感に心臓が震えた。駅ビルに入って、服飾店で暗い赤色のコートを見繕った。しばらくはこれが仕事着になるのだろう。

「似合いますか?」
「よくわからん」
「ふふ、似合うって言っておけばいいんですよ、こういうときは」
「はぁ。……このまま、うちに帰るのか。逃げるなら、今だぞ」
「逃げませんよ。篠さんの元気な顔が見たいですし」
「……ありがとう」
「どうして?」
「お前が篠を大事に思ってくれるんなら、それがいちばんいいんだ。伝えてやってくれ、帰ってきたって。あと……」

 駅ビルからの帰路をすいすいと辿り、背の低い四角いビルの前。ガラス扉に手を掛けながら桧さんが声を落とす。

「お前もさ、……そりゃあ、言えることなんて無いんだろうが、」

 一枚目の戸をふたりで潜る。玄関前、桧さんが鍵束を取り出す。しかしすぐ解錠にかかりはせず、その手が固く握りしめられた。数秒、なにかを堪えるような、躊躇するような間があって、桧さんがぎこちなくこちらへ振り向く。膝を曲げてまで私に視線を合わせる。鼓動が跳ねる。

「一緒にいる限りは、一緒に背負えるからな」

 何を、言うかと思えば。

「無理も我慢も、泣くのも、俺らのいるところでしろ。ひとりになるな。そんでどうしても逃げたいときは言ってくれ、止めないから。たのむから、急に黙っていなくなるな」
「どうして」
「俺もお前にはできればここにいてほしい。つーか篠の隣にいてやってほしいんだよ。でもお前が傷ついてたら、意味ないから」

 今、私、酷い顔をしている気がする。まだ泣いてはいない、けど。忘れかけていた傷口が開きそうだ。もう思い出したくない。もう何人も何人もこの手にかけた。今さら幸せだった頃のことなんて、思い出す度に痛くて、痛くて、張り裂ける。

「いいな?」

 ――倖貴。
 私のいちばん好きなひと。見えっ張りで出不精で人見知りで、臆病で孤独で、だけど言葉さえ交わせるのならどこまでもやさしかった。なにか深く思い詰めた目をするくせに人のことばかり気にかける。私のくだらない話を、聞き流すようでいて全部覚えていて、いつの間にか私のことをなんでも知っていた。私の気持ちを真摯な目をしてひどく大切そうに言い当てる。誰かのために本気で怒り、誰かのために本気で喜ぶ。
 どうしてこんなに似ているんだろう。だからといって何も変わりはしないけれど、わけもなく絶望してしまう。違うか。もとよりあった絶望を確かめてしまう。

 好きだったんだ。
 永遠に失われた世界で、あなたのことが。

 目を逸らせない。早く視線をはずしてほしくて戸惑う。ああ私が答えるまでは逸らしてくれないのか。鼓動に急かされて口を動かす。必死になっている。曖昧な言葉で。

「……ここに、いますよ。最後まで。酷い目に遭うことなんて、最初からわかってたじゃないですか。それでも選んで、ここにいるんです。大切なんです。ここにかえりたいです。あなたや篠さんがいるところに、私……」

 その目が私をひとにしてくれる。化け物じみた心ない殺戮者から、ほんのちいさな恋に胸を痛めた少女の私へ。視線一つで、歌声一つで、戻ってこられる。『私』が『ここにいる』ことを、何度でも『思い出す』。
 それだけでいい。
 それだけでいいんだよ。

「……そうか、ありがとう」

 彼は存外そっけなくつぶやいて、目を逸らして、玄関を開けた。


2022年8月23日

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