[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
47 ―side Ryoku―

 美山碧を目にしたときの比にならなかった。たまに重なる瞬間がある、ではなく、そのものだ、と思ったのだ。性別も顔も声も違う、殺しかたも俊の方がずっと綺麗だが、しかし底知れぬ絶望を秘めた青の目が。血の海の真ん中に佇み、どこにもない空虚を映してきらめく、どうしても心臓の奥へ届いてしまう、透明な、視線が。

(俊)

 ――まだ迷ってる?
 ――僕が標になってもいい?
 声音はもう思い出せない。やわらかくて淡白で、けれど素っ気なさは感じさせない、心地よく甘い声だったとだけ認識が残っている。言葉が脳裏にこびりついて離れない。――僕は世界隊を滅ぼす。後始末を頼みたかったんだ。僕に触れて狂わされなかった人、鹿俣しか知らないから。
 暴力に象られた闇の底で彼はいつもぴんと背筋を正していた。死は、そう在るべきモノだとでもいうように彼に群がり、その立ち姿を飾った。
 壁に背をつけて黒衣の少女の殺戮を見ていた。どことなく息が苦しくて頭が痛んだ。細身のナイフ一本と焔を駆使して不器用に戦う小さな身体、目深に被られたフードの奥から、一瞬、青色の目が、はっきりと俺の方を見た。それだけでわかってしまった。あれは『青柳俊』だ。確信。錯覚。それほどに、彼女には、死が、似合った。仲間たちの命が刈り取られてゆく。何年も積み重ねた信頼と思い出が臭い肉塊として終わっていく。赤が散る。死体の焦げるいやな臭いがする。そんな最悪の渦中で見た、ひとすじ、確かに、死をまとう少女の立ち姿は美しかった。まぶしくてたまらなかった。痛むほど心惹かれてしまった自らに困惑する。絶望と感激が入り交じる。くらくらと閃輝暗点。
 俊。
 俺やっとわかるようになったんだ。お前にほんの少し接しただけでたちまちドロドロと絶望や暴力性を引きずり出され、お前に出逢うまではまともだったはずが成す術もなく急速に堕ちていった数多の者の気持ちが。あれからずいぶん時間が経ったが、唐突にわかってしまった。お前は俺がこんなことには決してならない良い奴だと思ってたみたいだけど。俺だってそうありたかったけど。でもわかってしまったんだ。
 おびただしく広い部屋を隅々まで赤く染めている仲間たちを目に、彼らと奔走してきた日々が溢れるように脳裏を過った。少女は結局疲れてしまって俺たち全員を皆殺しにすることはなく、ぎりぎり取り押さえることができたが、それだけだ。もうこの組織はしばらく身動きがとれない。人員なら他の支部から呼べば集まるが、それよりも、悼みに深呼吸をしなければ。
 取り押さえた殺戮者の取り扱いについては、コンクリートに埋めて捨てよう、という意見が強かった。が、俺がどうしてもとごねて扱いを一任してもらった。俺だって少女のことは憎い。しかしただ最悪の敵として捨ててしまうには心が納得しない。もう少し、もう少しだけ、話をさせてほしい。
 おかしい。自分の行いが不条理だ。そう思うのに考え直せない。こんなことは初めてだった。ずっと目が眩んでいる。何が正しいのか、考えることが、できない。そんなことがあるのか。あったんだ、ここに。
 少しも冷静でなく、余裕もなかった。もし俺が冷静で余裕に見えるとすれば、それはただ、異能者をどう拷問するかに体が慣れているだけだ。敵を敵として扱うくらいの理性は、まだ、ぎりぎり、その時点では残っていた。
 死にたくない、と彼女がつぶやいた。
 命乞いというよりも、思わずこぼれてしまった本音、に近いのだと思う。そして火花が弾けたとき、俺はやっと敗けを悟った。
 この少女には勝てない。
 嬉しいと思ってしまった。彼女の生きるための本気の抵抗が。彼女が死にたくないという意志をもって行動する以上、敵だとしても、俺は抗いたくない。
 やめよう。正しい判断ができなくなっている。彼女のことはどうにかして同僚に任せ、正しい対応をしてもらおう。俺はどうかしてしまった。正気でない以上、もう、なにもしないが得策のはずだ。
 ただ黙って冷えていく夜に沈んだ。部屋から出ることもできず、眠ってしまった少女の傍ら、机に腰掛けて俊のことやこれからのことを考えていた。

 轟音は間近に響いた。ドン、と、後を引く重たい音は銃声とも爆発音とも微妙に異なった響きだ。
 少女が慌てたようにベッドから身を起こした。その手が迷わずこちらに伸び、強引に身体を引き倒される。直後、ドン、と二発目が響いて軽い耳鳴りがした。俺たちは焦げたベッドの影に隠れて伏せている。頭上にざらざらとガラス片が散らばる。少女が小さな身体で守るように俺の上で身を屈めている。
 この部屋の窓が撃たれた、と遅れてわかった。反対側の壁に穴が空いていることにも気がつく。

「お怪我は?」
「俺を、助けたのか?」
「生け捕りの仕事ですから」
「……火傷だけ、だと思うが。お陰さまで」
「そっか火傷。そうですね。やる気なくす前に焼き殺しておけばよかった」
「……」

 殺意をはらんだ目が至近距離で俺を見下ろす。身のすくむ思いがした。
 少女はガラス片にまみれたジャケットを脱ぎ、ポケットから何かを回収しながら窓辺に駆け寄った。すっかり夜風の侵入を許している窓は、ガラスがほとんどすべて吹き飛び、フレームも歪んでいる。

「逃げましょうか。鹿俣さん。たぶん今の音ですぐ騒ぎになって人が来ますし」
「四階だぞ」
「飛びます。捕まってください」

 細く頼りない腕が伸ばされる。

「飛ぶって」
「早く!」

 致し方なく柔い手をとる。手のひらは冷えきっている。ぐんと強く引かれて従い、俺は彼女のすぐ傍らへたたらを踏む。彼女はそのまま細腕を俺の背に回してがっちりホールドすると、倒れ込むようにして窓外へ、俺ごと身を投げる。正直かなり抵抗したくなったが、鉄製のドアの方は溶接されてびくともしなかったのだから、どうせ窓が開いたなら行くしかないのは間違いない。
 冷えた夜風が頬を掠めて目を閉じる。経験したことのない疾風が身を浚い、ふわりと舞い上がる感覚が胃のあたりに生じる。風の強さに反して飛行は緩慢で、上昇するエレベーターを思い出す。

「落ちようかな、このまま」
「俺を殺したいのか?」
「はい」

 薄目を開ける。ちらりと目が合う。月光を吸う青色のあまりの透明度に今度こそ顔を歪める。どうしてそうなんだ、お前たちは。

「……この程度の高さじゃ、確実には死ねないぞ」
「じゃあ、やめておきます」

 少女が答えて、緩慢な飛行は同じ速度の落下に転じ、風がうごめく。俺たちはビル壁に挟まれた真っ暗な細路地へ降りる。少女の足はアスファルトをとらえるなり立ち方を忘れたように脱力した。おいやめろ俺にしがみついたままふらつくな。少女の背を支えるため掴み直す。シャツ越しなのにさっき触れた手よりも冷たい。
 異能使用の代償。多くは体温の低下をともなう。

「ッ」
「おい大丈夫か。気絶されると困るんだが」
「は、はなして。はなして……っ」
「……、悪い」

 手を離す。少女は暗闇の中がたがたと震えながら汚れた壁にすがり、踞って浅い息を繰り返した。その素振りには疲労もあるが恐怖が混じっている気がして、俺は彼女から一歩、二歩、距離を取る。
 ……俺のしたことが相当堪えたのかもしれない。当然か。まだ幼い少女だ。
 本当に、どうして。

「何故、そこまでして命令を守る?」

 どう見ても不当なのに。

「……私が、うまくやらなきゃ……上司に余計な仕事がいきます」
「……」
「それだけ、ですよ……」

 よほど大切な上司がいるらしい。
 汚いな、と思う。使役者に対して。うまいな、とも。どうすれば、何を人質にとってどう計らえば人が従うか、わかりきっている奴でなければできないやり口だ。
 ――理子。
 教えてほしい。お前は俺に何を見せてどう思わせたい? その為だけに誰をどれだけ犠牲にした? その責任をお前はどうやって取るんだ。
 俺に会いたいなら誰も犠牲にせず身一つで会いに来ればよかっただろ。俺は何度でも逃げるが、お前も何度でも追ってこれたはずだ。それで完結していればそうそうここまで無関係の奴を苦しめず済んだんじゃないか。確かに俺も加害者だ、そんなことを言う資格はないが。
 闇に沈み震える少女を見下ろしながら、全身にひりひりと広がる浅い火傷を思いながら、その全てを差し向けたのだろう最大の敵に、俺は怒りのようなやるせないような感情を持った。
 十年も前から桧理子はどうしても敵だ。わかってはいたがこれまでは形式的な対立だけで済んできたはずだった。何故、今になって、俺個人への幼稚な嫌がらせみたいなことを。
 何故、何故、どうして、

「――朸くん」

 甘やかな声。
 がしゃり、拳銃のバレルを引いて戻す音。僅かな火薬のにおい。
 十七年前の夏の夜、気配の狭間を縫うようにして歩けば誰にも気づかれないことを俺に教えてくれた、その人が、俺のすぐ隣に佇んで笑った。声がかかるまで、まったく気がつかなかった。

「手を上げて。従わなければその子をかたちが無くなるまで撃つわ」
「……ははは」

 俺は両手をかかげ、うなだれた。

「理子、俺は、俺だけの苦痛で済むことだったらなんでもするから、だから頼むよ、この子を助けてやってくれ……」


2022年8月22日

▲  ▼
[戻る]