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見上げた空のパラドックス
46 ―side Riko―

 朸くんはずっと迷子だった。
 私は彼の帰る場所でありたかった。けれども彼は居場所を求めなかった。虐殺を唯一生き残ったご両親の元へも、自らを養育し篤く護ってくれた世界隊へも、数年暮らした私の元へも、最後には決して居着かず、根無し草のまま去っていった。彼が宛にしたのはいつでも帰れる家ではなく、常に向かって行ける目的地だったから。
 世界隊を滅ぼすこと。
 青柳俊の掲げたそれが彼の道標になってしまったことを、私は悲しく思うよ。
 その行く末にはなにも残らない。同じことの繰り返しだ。世界隊を憎んだ俊くんが最後には刃を呑んで自決したのは、俊くん自身もまた世界隊に、悪に染まっていることを自覚していたからだった。わかっているんだ。朸くんも、いつかそれに倣うだろうと。
 道標を得てしまったから彼は止まらなかった。何を失っても、私が泣いても、止めることができなかった。
 一緒にいた、たった数年。確かに幸せだったはずなのに。どうして全部を置いていってしまえるのだろう。私も辰巳も驚き哀しんだ。大切な人が行ってしまった、という、二度と消えない傷を刻まれて、ひりつく足で、後ろを見ながら歩いた。朸くんは先を行くばかりでかえりみなかった。一時はあんなに穏やかに共に暮らせていたのに、私たちのことは、少しも。
 彼の辿った感情のすべてが私には見えているけど、それでもわからない。わかりたくない。

「母さん、いる?」

 夜半になって辰巳が古アパートの薄い玄関を叩いた。用件はなにも見なくたって明らかだ。私が一人で内密に送り出した、あの少女について。
 戸を開いておかえりと笑うと、かわいい義子は不機嫌を隠さない顔で盛大にため息をつく。

「俺には関係ないのかもしれないけどさ」

 玄関前に立ったまま、矢継ぎ早な本題を口にする彼の声は、普段にもまして低く不安定だ。色んな不満と不安をごちゃまぜにしている。

「高瀬、どこ? 返して」

 端的だった。
 返して。
 彼女は彼らの元になくてはならない存在であって、失えない。それが彼の答えらしい。
 辰巳は少し、だいぶ、優しすぎるなと思う。美山くんでさえあの少女がいつか去ることを深く悟って諦めているのに。親友が恋している相手だというだけで、そう親しくもない、むしろ彼にとっては苦手なくらいの少女を、失えないものと判断できるなんて。救えないほど優しい。あるいは、心に疎いところがある美山くんの支え手を十年もしていたお陰で、美山くんの感情に関してだけ人一倍敏感なのか。きっと両方だ。
 私の答えは決まっている。

「構わないわ」
「……」
「確認するけれど。あなたは青空ちゃんを連れ戻したいのね?」
「…………、うん」
「美山くんのために?」
「そうだよ」
「それじゃあ、どうしようか? いま少しまずいことになっているの」

 顔の前に人差し指を立て、義子を部屋に招いた。畳張りの六畳一間には四角いちゃぶ台が出されて、煩雑に要らない書類が散らばっている。私たちは自然と斜向かいになる形で着席した。かつての、朸くんと三人で暮らしていた頃の定位置が、まだ染み付いて離れていない。

「青空ちゃんにはお仕事をしてもらったわ。いつも通り、殲滅対象の組織に行って人を殺してもらった。そうしたら、ちょっとしくじって、彼女、敵に囚われてしまってね。助けに行かなくちゃいけないんだけど、美山くん寝てるし、どうしようかなって」
「……あのさあ。そこまでわかっててやったんじゃないのか?」
「未来はあんまり見えないよ。彼女ひとりで完遂するとも思ってなかったけど」
「わかってやってんじゃん……どうするつもりだったの?」

 呆れきった顔で辰巳が頬杖をつく。紫紺の目がげんなりと私を見る。

「さあね、考えてない」
「はあ?」
「『青空ちゃんを彼処へ送り出せれば』、それで良かったの。美山くんが倒れちゃったの、降って沸いたチャンスだったんだよ。彼にバレたらどの段階でも邪魔になるリスクがあった。だからね、後のことは考えてないの。そんな余裕、なかったもの」

 あの少女にとっては本当に無関係で迷惑なことだろう。上から急にまるきり不条理で無茶な命令をされ散々な目に遭った、それだけのことなのだろう。美山くんも私の此度の命令を知ればすぐ理不尽に気付き、仕事を代わろうとするか、助太刀しようとするだろうから、厄介だった。
 私にとっては、朸くんにとっては、違うのだ。『あの子』が『ひとり』でなければいけない逼迫した理由があった。あの青色の、死を示すひかりと同じ色の魂を宿した者が。罪に愛され血に穢れても微笑み続ける透明な瞳を持った者が。ナイフを振るって、殺戮を負って現れる――その光景の持つ意味が、重みが、まるで違う。
 それは宗教画だ。目にした者の人生を変える力を持っている。

 朸くんに破滅の道を捨てさせ、生きていてもらうには、道標を変えるしかない。
 彼の行く道を塞いで壊そう。そして、14年前のあの日と同じくらいの痛みと眩しさで、新たな道標を。ふたたびの啓示を。

「何を、させたんだよ。篠が止めるほどのことって」
「ただの殺しだよ。ちょっと多いだけ」
「だけって」
「一人で38人を相手取って32人殺したんだよ。すごい。よくやったよね、青空ちゃん」
「…………、なんで……?」

 辰巳は呆然として問うた。

「まだ内緒。いずれ話すわ」

 笑って返す。ごめんね、失望ばかりさせて。でも今の辰巳に受け止めきれる話ではないから。またそのうち辰巳の心に余裕ができたら話そう。
 私は朸くんに幸せになってほしいんだ、って。
 その過程で私が朸くんのすべてを奪い、壊し、哀しませるのだとしても。次こそかつての幸福をかえりみてくれるように。最後に死を選んでしまうことがないように。
 正しくなくていいから。

「……俺が助けに行く」

 辰巳がため息混じりに言って頬杖を解いた。

「だめだよ。碧ちゃんの命まで削れちゃう。美山くんもだめって言うよ」
「だって他に動ける奴いないじゃん。高瀬の存在はシークレットなんだろ? なんでか知んないが」
「そうだけど……」
「じゃあ母さんは高瀬を敵に預けとこうと思ってんの?」

 少しくらい預けておいてもいいかとは思っているけど。言っても辰巳は聞かないだろう。
 誰かの感情のために本気になれる。彼のいいところであり、人間不信の根源でもあり、かなり厄介なところだ。私にも彼の癖がうつってきて、はあ、と喉から息が出ていく。

「……わかったわかった、私が行くわ。辰巳はおうちで大人しくしてること」
「え?」
「でも、そうね。あなたが青空ちゃんをどうしても失えないと思うのなら、ひとつだけ……」

 優しいあなたがどうしても傷ついてしまうこと。私だって悲しいよ。
 私はそっと右手を差し出す。

「見た方が早いわ」

 彼はますますげんなりした顔で、けれど拒むわけでもなく、黙って私の手をとった。
 『情報を送り込む』。知を司る私の異能はそういうことも可能だ。私に見えている景色を相手の知覚へ。あまりやると互いの負担になるから滅多にやらないけれど。

「なんだこれ」

 辰巳は目を見開いて、弾かれたように手を離した。
 見せたのは魂のかたちだ。高瀬青空の。比較のために美山碧のそれも。同じだ、という説明のために見せたわけではなくて。

「消え……かけてる?」
「うん。彼女がこの世界に降り立った、最初からこうなの。たぶん彼女はこの世界に、なんていうのかな、定着できていない」
「……すると、どうなるんだ」
「わからないわ。わからないから、急いでいるの。……覚えておいて辰巳。青空ちゃんは、『まだかろうじて消えていないだけ』なんだって」


2022年8月8日

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