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見上げた空のパラドックス
44 ―side Sora―

 清潔で明るい部屋だった。硬めのマットレスの上だった。両腕が頭の上でベッドに縛り付けられていた。返り血が乾いて固くなったボロボロのジャケットは脱がされていなくて、ちょっと嫌な匂いがしている。
 うわ、厚待遇だ。暗く湿ったコンクリートの地下じゃないんだ。そんなことを反射的に思った自分がおかしかった。敵組織との交戦中に体力が尽きて倒れたのは覚えている。縛られているのだから敵に囚われた状況なのだろう。
 気分は悪い。まだ体内に弾丸が残っていて強烈な異物感がある。
 視線を動かせば壁掛け時計が時を刻んでいて、短針は2と3の間にある。午前か午後かは、傍らの窓にかかるカーテンから漏れる明かりで察する。白昼だ。
 さて、どうするのがいいか。
 正直まだだるいしもう一眠り、なんてことが第一候補に上がってしまうくらいにはくたびれている。逃げようと思えば逃げられるとも思うが、昼間にこの血みどろの格好で、刺されて穴の空いた服で外を歩くのもいけない。理子さんは助けに行くと言っていたし、大人しくしているのが最善なのかもしれない。
 と、開いたばかりの目を閉じたときだった。何もない部屋の隅からノイズ混じりの声がする。

『目覚めたみたいだな』

 首を向けてみれば壁際のデスクに何か機械が置かれている。声はそこからする。

『質問に答える気はあるか?』

 男性の声だ。誰のかまではわからない。
 尋問の始まり。私はひとまず黙秘を決め込むことにして、話は取り合わず今度こそ目を閉じた。何を言われても耳を貸さずに眠ってしまおう。そうして十秒ほどが過ぎた頃、スピーカーからまた声がする。

『警告する。十秒以内になんらかの応答をしたほうがいい』
「……」
『仕方ない』

 次に聞こえてきたのはなんとも形容しがたい異音だった。頭の奥に直接響くようなざらざらした重低音と高周波の乱雑な連なり。心地よい音ではないけど、何かダメージを感じるほど嫌な音でもない。意図がわからずに警戒する。

『提案がある。そのまま聞いてくれ』
「……」
『端的に言えば、お前を我々の仲間に迎えたい』

 は?
 異音の流れる小部屋のなか思わず目を開く。景色は当然変わらない。

『寝食は約束する。お前の所属がどこかは知らないが、もっとマシな待遇にはしてやれるはずだ。少なくとも、単独で数十人相手に特攻、なんてバカな真似はさせない』
「……」
『お前ほどの実力者をこんな捨て駒にするなんて、ありえない。お前も不当に扱われている自覚はあるんじゃないのか?』
「……」
「お前が頷くのなら、すぐに解放しても構わない』

 ざらざら。
 私は身構えたままスピーカーをじっとにらむ。乗るわけがない。
 そもそも私を勧誘して敵になんのメリットがあるのだろう。仲間を何人も殺されて、組織の誰もが私を恨んでいるはずだ。一緒にはとうてい働けないだろう。あるいは、不死身の私を大人しくさせる方法が、懐柔以外にないと判断されたのか。
 スピーカーからはその後も淡々と私をスカウトする文言が垂れ流された。よく聞いてみるとあれと思う。苦し紛れで怪しいということは相手もわかった上で、それでもどうしても、というニュアンスがあった。語り口が不器用すぎる。もしかして、本気で私を仲間にしたいのかもしれない?
 どちらにせよ取り合う気はない。

『……はあ。優秀だな、やっぱり』

 スビーカー越しに嘆息する声が、鳴り止まぬ異音にかすかに混じる。ざらざら。ざらざら。
 音が鳴り出して、勧誘が始まってから、5分は経ったくらいだろうか。私はふと気がついた。
 身体に力が入らない。

(なんだこれ……?)

 心なしか思考の停滞も感じた。疲労による眠気と区別はしにくいけど、目覚めた直後よりもぼんやりする気がする。
 音の仕業だろう。そんな武器があるのか、と思うと同時、やっぱり懐柔する気ないじゃん、とも察する。スカウトトークは私が直ちに暴れださないための時間稼ぎだったわけだ。
 そろそろ何か追撃が、たぶん来る。そう結論付けた頃には、ベッドに横たわっているにもかかわらずくらくらとして、うまく頭が回らなくなっている。

「…………」

 どうにでもなればいい。ここで私に何があろうと篠さんに影響はないはずだし。
 扉の開く音がした。同時にスピーカーからの異音もなりを潜める。

「もうひとつだけ問わせてくれ」

 肉声が降る。霞む視界の中に赤髪のターゲットの姿が映る。なんで単独で来るんだ。もっと警戒しろ。

「青柳俊のことは知っているか?」

(……?)

 ずっと事務的に淡々としていた声が、確かに震えた気がして、私は何か思うより前に目を見開いた。ベッドの脇に佇む彼はわざわざ膝を落として私に視線の高さを合わせている。髪と同じ、赤みがかった色の虹彩がまっすぐに私を見つめている。
 違和感。
 何か決定的なことが、私にだけわかっていないのではないか。そういう確信に目をしばたたく。互いになにも伝わらないまま視線だけが交わる。

「それとも、間違ってるのか。俺のしていることは。そう忠告に来たとか?」
「……」
「一体なんのために俺の前に現れた。二度も三度も。何度目のことを考えても全部がおかしい。どうして、『お前』は、俺につきまとうんだ」

 話が見えない。私はただ理子さんの命令で人を殺しに来ただけだ。殺すまいとしてマークはしたけど、二度も三度もつきまとった覚えはない。
 人違い、か?

「……本当に、俺達の仲間になる気はないんだな?」

 再度、そんなことを確認される。めちゃくちゃだ。聞けば聞くほどわからなくて、私はついと彼の眼から視線を外す。
 寝返りをうつように身体をひねると頭上で鎖が鈍く鳴った。ゆっくり息をする。全身が気だるいような痺れたような脱力感におそわれている。あの音はもう止んだがしばらくは回復しなそうだった。

「わかった。それなら、お前は敵だ」

 刹那、私の無防備な首もとに彼の腕が乗った。一気に重みをかけられたマットレスからスプリングのひしゃげる音が響く。突然呼吸を奪われた私は視線を迷わせてみたび彼の目を見る。いつのまにか馬乗りで喉を圧迫されている。認識を置いていくほど鮮やかな手際だった。

(くるしい)

 痛みのわからない身体だけど、どうしてか窒息感だけはまざまざと感じる。私は魚のように口を開閉する。どうにかしようにも体に力が入らず、頭がぼうとして異能にも頼れない。
 だい、じょうぶ。
 死ぬわけではないのだ。
 もう学んだ。気にしなければ。意識しなければ。気絶してしまえば。どんな苦しみもないのと同じだ。なんの影響もない、白昼夢にすぎない。だけどやっぱりそう簡単ではなくて。喉を押す力がふと緩む。咳き込んでまた弾丸の壮絶な異物感にくらくらして、咳が収まる前にみたび気道がふさがる。気絶する前に呼吸を許し、落ち着く前に締め直す。シンプルで徹底的な拷問だった。
 呆気なく決壊して、苦痛はただ涙になって排出される。このところ泣いてばかりだ。情けないな。本当は誰よりも苦しめないこの身体で。

「……かはっ、ぁ、う」

 隔絶されてゆく意識の片隅で考えている。どうしてこんなことになったんだっけ。どうしてこんな目に遭わなければならないんだっけ。しごとだから。命令だから。まあ、それなら、仕方ないか。仕方ないことにしよう。どうか憐れまないで。不当な扱われかただとか、どうして逃げないんだとか、余計なことはいわないで。私はここで諦めて、納得して、肯定していくから。まだそうやって守らなければいけないものがあるから。遠退き掠れる景色の奥に、潰れそうに痛切に足りない酸素を求める胸のなかに。
 こめかみを伝う涙の感触だけがまざまざとしている。泣くほど呼吸が難しくなるのだからもうやめよう、でもそれじゃあどうすればよかったんだっけ。涙の止めかたをかんがえる。とりあえず、呼吸を整えたいな。無理か。あーあ。
 壊れるならはやく壊れろ。苦痛を錯覚するばかりの心なんて。

(嫌だ)

(嫌、だ、しにたくない)

 また息をした。一瞬。目を開く。涙のむこうにターゲットの冷淡なまなざしが映る。見たことあるよ、仕事人の顔だ。余計なことは考えない、割り切った者の目だ。童女を殴り殺すこともきっと厭わない。
 死にたくない!
 手を伸ばした。頭上で鎖の砕け散る音がした。
 舌打ちが耳を掠める。私は動きの悪い腕を必死に振り回した。喉に体重をかけていた彼の腕が浮き、私の両手を拘束にかかる。やっとまともに息ができた私はぼろぼろと温い雫を垂らしながら幾度か咳き込んで、息苦しさの二度と取れない肺に酸素を取りこむ。

「しにっ、たく、ない」

 うわ言だ。意識を置き去りにして口の端から出ていく。
 はあ。頭上から溜め息が聞こえる。悠然と息をつけるほどの余裕が向こうにはある、というだけで途方もなく絶望した気になってふと涙が止まる。もういいよ。いいよね。まだ足掻かなくちゃいけない? 急降下、乾き始めた己の心に問う。答えがすぐに出るわけもない。停滞。
 その一瞬のことだった。また呼吸が奪われたのは。両手首を捕まえられたまま。理解が遅れたのは信じたくなかったからで、遅れても理解できたのは絶望していたからだった。唇を合わせていた。大きく口を開いて必死で呼吸していたから当然に入り込まれていた。ぬるりと。悪寒が背筋に下って全身へ霧散していく。冷えていく。動けない。これが恐怖だと気づく前に膝が笑う。苦しい。背筋を這う悪寒にしたがって全身の痺れが増す。頬にかかる生ぬるい呼気のほかには何もわからなくなる。蹂躙はいやにゆったりとして。力の差ばかり思い知る。
 あきらめろ。
 あきらめろ。と心が逸る。
 諦めてしまえばいい。いままで通りに、それが正しい。永遠は無価値だ。私の抱く思いはぜんぶ、どこにも残らずやがては消える。だから許せるでしょう。これは私の、私の感情だから、私が捨ててもいいはずだから、だから。
 四の五のうるさいなあ!
 早く。

(こわれろ)

 ぱち。

「っと……」

 敵が飛び退く。私はろくに回らない重たい頭を無理に起き上がらせゆうらりと立ち上がる。目を見開いている。緩慢に口許をぬぐう。全身が気だるくて仕方がなくて倒れそうだ。前を見る。敵の目を見る。燃え盛るベッドの、焔の向こうに見る。
 壁に手のひらをつけた。そっと配列に触れる。認識が結合を伝って対角線の先へ行く。出入り口となる扉はひとつだ。その金具を熱して接合する。窓も同様だ。よし。これでいい。これでいい。もう全部どうでもいい。焔に満たされた小部屋で膝をつく。ぱち、ぱち。ジャケットに焦げが広がってゆくのを、めまいに揺らぐ視界で見る。二秒。じわりと広がった朱い光に、ふと、気づく。この上着の内ポケットに、――リボンが入ってる。
 止めなきゃ。目を閉じた。とつぜん冷や水を浴びたように静まり返った心はあっけなく異能の使用に耐え、焔はぴたりと姿を消す。燃えあとと温度の残滓だけが部屋に残る。窓ガラスがぎしりと鳴る。
 静寂。

「…………。なぜ殺さない?」

 私は膝をついたままゆるゆると顔を上げる。敵は焦げあとのついた服を払いながら不審そうにこちらを見下ろした。赤髪がちょっと焦げて銀色になってる。
 なぜ。なぜってリボンを守るためだ。そういえば殺すなって言われていたような気もする。理由は知らないけど、仕事だから……。
 ……しょーもな。
 何に付き合わされてるんだろう、私。
 飽きたな。

「……寝ます」
「は」
「疲れたので」
「……何がしたい?」
「……もう、何も……」

 飽きた。飽きた。殺す気にもならない。ただ眠りたい。
 意識が落ちる。


2022年7月26日

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